ホット・ウィスキー

著者: 髭郁彦 ひげいくひこ : 大学教員
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ウィスキーの語源はゲール語のウィスゲ・ベーハ (uisge beatha) だと言われている。邦訳すれば、「生命 (いのち) の水」という意味だ。酒には三種類のものがある。ワインや日本酒などに代表される醸造酒。ウィスキーやコニャックなどに代表される蒸留酒。醸造酒のワインに薬草を加えたヴェルモット、蒸留酒に果実のエキス、砂糖を加えて作られるリキュールなどの混合酒。この中で、ヨーロッパの蒸留酒の語源を辿るとみんな「生命の水」になる。元々はラテン語で蒸留酒のことをアクア・ヴィテ (aqua vitae) と言っていたものが、その後さまざまな蒸留酒がつくられ、それぞれの酒の名前を示すようになったのだ。だから「生命の水」という言葉は、フランス語のコニャックを示すオー・ド・ヴィ (eau de vie) に今でも残されている。ウォッカの語源であるズィズネニャ・ワダ(zhiznennia voda)も「生命の水」の意味だ。なぜ蒸留酒がみんな「生命の水」と呼ばれたのか。それは錬金術と関係があるらしい。中世まで科学者と魔術師は、錬金術師の名の下に一つに統合されていた。不思議な能力をもつ錬金術師が水から火のように熱い酒をつくった。飲むと体が温まり、いろいろな病気も治す酒。それが「生命の水」であったらしい。

ウィスキーの話に戻ろう。ウィスキーはゲール語を語源とする言葉であると書いたが、ゲール語はケルト語派の言語である。つまり、この酒をつくり出したのはケルト人なのだ。ウィスキーが最初に文献に登場するのは、1171年のイングランド王ヘンリー2世のアイルランド侵攻に関する記録文書の中においてである。アイルランドの人々は当時すでに大麦を原料とした蒸留酒を飲んでいた。蒸留技術は、ヨーロッパ大陸からアイルランドにもたらされ、キリスト教の修道僧が後にスコッチ・ウィスキーを生み出すスコットランドに伝えたという説がある。また、6世紀頃に中東を訪れたアイルランドの修道僧が香水をつくるための蒸留技術を自国に持ち帰り、酒造りに応用したのが始まりであるという説もある。いずれにせよ、蒸留技術は錬金術師から僧侶達へ、さらに蒸留酒をつくる職人へと伝わっていったのだ。それと共に魔術的な力をもつ「生命の水」は神秘の力を失い、イギリスではウィスキーという大衆的な飲み物に変わっていったのだろう。

日常的に飲まれるようになったウィスキーはイギリス本土だけでなく、世界各地でつくられるようになる。今、世界五大ウィスキーと言われているのは、スコッチ・ウィスキー、アイリッシュ・ウィスキー、アメリカン・ウィスキー、カナディアン・ウィスキー、ジャパニーズ・ウィスキーの五つ。ヨーロッパだけでなく、世界中でウィスキーは一般的に飲まれる蒸留酒となっているのだ。ウィスキー好きの人なら、それは当然の結果と考えるかもしれない。ウィスキーのコクとアルコール度数の強さは世界の男たちを魅了した。オークの樽でじっくりと熟成された味わいには酒の歴史が浸み込んでいるのだと。確かにそうかもしれない。だが、それは嗜好品としての歴史だ。ウィスキーがもつ「生命の水」の不思議な力はもはや過去の遺物となってしまったのだろうか。この疑問に対する個人的な答えとして生まれたものが、次の物語である。

 

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「アイルランドはケルトの神々が住んでいた島だった。神々は狼になり、カラスになり、アザラシになってケルト民族を守っていた。この民族の永遠の繁栄を願い、工芸の神ゴヴニュは祝宴を催し、不老不死の酒がみんなに振舞われた。その酒が今も伝わっている。それがウィスキーという飲み物なのだ。」ロイは今でも祖父がそう言いながら、ホット・ウィスキーを飲んでいたことを思い出す。アイルランドでホット・ウィスキーを飲むなんて人は祖父以外に見たことがない。ウィスキーはストレートかオンザロックあるいは水で薄めて飲む。それがこの国の伝統であり、習慣だ。でも、祖父だけはいつもウィスキーをお湯で割って飲んでいた。だから祖父は少し変人のように思われていた。

「変わってるなあ。」誰かが祖父に言う。祖父は笑って答えた。「みんなはウィスキーを味わう。美味いから飲む。だが、俺は「生命の水」を飲んでいるのさ。この水を温めて、俺だけじゃあなく、その辺に隠れてる妖精たちにも「生命の水」を振舞うのさ。この湯気が妖精たちの元まで「生命の水」を運ぶのさ。」そんな言葉を聞くと、祖父の話し相手は肩をすくめた。

小さかったロイは不思議だった。こんな寂れた町にも妖精がいるなんて考えてみたこともなかったからだ。大西洋に面した小さな漁師町。強い潮風がいつも吹いて、空を飛んでいるカモメたちも吹き飛ばされそうだ。妖精は森に住んでいる。教科書にもそう書いていた。小さなロイは、妖精は港町なんかにいないと信じていた。でも、祖父は嘘をつくような人間ではなかった。どうしておじいちゃんは妖精がここにいるって言ったんだろう。ロイは何度も祖父に聞こうと思った。「どうして、おじいちゃんは…。」「なんだい」と祖父が言い、ニッコリと笑う。ロイはなぜか次の言葉が出なくなる。言葉が出たときには、「パイプを吸うの?」や「車に乗らないの?」や「犬が好きなの?」という自分が本当に聞きたいこととは全然違った質問をしていた。祖父はいつも優しく答えてくれた。ロイはその優しい言葉の中で眠ってしまう。ああ、今日も聞けなかった。明日は絶対に聞こう。そう思っても、結局聞くことはできなかった。

祖父が死んだときも、ロイは妖精の話を聞こうと思い海辺にある祖父の家に向かっていた。今日は学校が早く終わったから、今日こそはおじいちゃんに聞くことができそうだ。学校から急いで祖父の家まで走って行く。扉を勢いよく開けるとおじいちゃんの愛犬のジョンが尻尾を振りながらロイに飛びついてきた。でも、おじいちゃんはいない。ただ、ウィスキーの香りだけが漂っていた。

 

アイルランドは長い間イギリスの支配下にあった。大英帝国の最初の植民地はインドでも、エジプトでも、ケニアでもなく、ヨーロッパにあるアイルランドだ。イギリスからの独立。それがアイルランド人の夢であった時代。抑圧と民族独立運動。その歴史の激しさの中でケルトの神は忘れられ、多くのアイルランド人が故国を後にした。ロイもその一人だった。

「昔、おじいちゃんがアイルランドに住んでいたとき…。」ロイは孫たちに話し始めた。ブルターニュも風の国。外では今日も強い風が吹いている。夜になるとなお一層風は強くなる。アイルランドを離れるときに、ロイは最初、アメリカに行くつもりだった。言葉も通じるし、アイルランド出身者も多く、何よりも新しい国としての希望があるように思えたのだ。だが、ロイはブルターニュを選んだ。「ケルトの妖精が見つかるかもしれないからさ。」ロイは一緒にアメリカに行こうとしきりに誘っていた友人にそう答えた。友人はストレート・ウィスキーを一気に飲み干し、アメリカに向かった。

異国での生活をする前にロイが心に決めたことが一つある。酒はウィスキーを飲まずにワインを飲むということだ。ウィスキーにはアイルランドの歴史が染みついているように思えたのだ。アメリカに行ってもよかった。だが、アメリカにもウィスキーがある。ウィスキーを一杯やるためのバーがある。ロイはウィスキーの国アイルランドを忘れることを望んでいた。フランスはワインの国。強い酒もあるが、それはコニャックやカルヴァドスであって、ウィスキーではない。そう決めてから、もう40年が経った。

 

ロイはフランス語でケルトの昔話をしていた。孫たちはロイの話に目を輝かせていた。「パパ、ヴァン・ショーでも飲む?」娘がロイに言った。「いや、今日はホット・ウィスキーにする。妖精たちに「生命の水」をあげるのをしばらく忘れていたからなあ。」娘はちょっと変な顔をした。そう、娘の前でウィスキーを飲むのは初めてだ。それもホット・ウィスキー。フランスでホット・ウィスキーを飲む人はほとんどいない。娘はこんな時フランス人がよく言う「何故?」という言葉を語らずに、ホット・ウィスキーをつくるためにキッチンに向かった。寡黙なケルトの血をおまえも受け継いでくれたことに感謝しようとロイは思った。

孫たちは「妖精」という言葉に反応していた。「妖精?妖精って森にいるんじゃないの?」「森にもいる。でも、ここにもいるんだ。」「ここにもいるの?」孫たちは可愛い目を大きくしてロイを見つめた。ロイが祖父に聞けなかったことをロイの孫たちは素直に口に出して言った。時代も、国も変わったのだ。でも、妖精に対するあこがれは今も変わっていない。

娘がホット・ウィスキーをもって来た。ウィスキーの香りが部屋中に漂っている。「このお酒は「生命の水」って言うんだ。コニャックもウォッカも強いお酒はみんな、昔、「生命の水」と呼ばれていたんだ。どうしてか判るかい?」「判らない。」「それは、こういったお酒はみんな神様が人間たちに贈ってくれたものだからさ。神様が人間に命を与えるために贈ってくれたものだからさ。」孫たちは真剣な眼差しでロイを見つめていた。「だが、「生命の水」は人間たちだけに贈られたものではないんだ。妖精たちにも贈られたものなんだ。とくにウィスキーという酒は。」ウィスキーと妖精。その二つの結びつきが判らずに、不思議に思い、孫たちは首を傾げた。「妖精たちは、普段、森に住んでいる。でも、「生命の水」が必要になるときには、町に現れる。こんな風の強い日は風に乗って森から町に一飛びできるからなあ。」孫たちはロイの話に夢中になっていく。「そして、「生命の水」の中でとくにウィスキーが妖精たちの好物なんだ。ウィスキーは森から遠く離れた海風の味がするから。でも、妖精は小さくて、すぐ酔ってしまうので、そのままウィスキーを飲むことができない。だから、こんな風に温めたお湯をウィスキーに混ぜて妖精たちに贈るんだ。そうすると、妖精たちはそのことに感謝して、人間たちを守ってくれるのさ。」ロイは頭の中に思い浮かんだイメージを素直に言葉にしながら孫たちに語っていた。

祖父が死んだとき、ロイは泣かなかった。祖父がどこかで生きているような気がしてならなかったのだ。孫たちに話をしていると、祖父が妖精になって今ここに来ているような気がしてくる。ホット・ウィスキーの湯気が立ち上る向こうで、祖父が穏やかな笑顔を浮かべて、「ロイ」と呼びかけている。そう、ロイは思った。「生命の水」が妖精になった祖父と自分とを結びつけてくれる。そして自分も妖精になって、孫たちと「生命の水」を通して結びつく。ロイはウィスキーを一口だけ口に含んだ。ウィスキーはアイルランドの潮の味がした。

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