東洋大学国際哲宅研究センター主催連続講演会
2012年7月4日(水)17:30〜20:30
東洋大学白山キャンパス
連続講演会第一回では、次の講演がなされた。一ノ瀬正樹氏(東京大学教授)による「放射能問題の被害性−−哲学は復興に向けて何を語れるか」、ジャン=ピエール・デュピュイ氏(スタンフォード大学名誉教授)による「破局的な状況を前にした合理的選択」の二つである。
一ノ瀬氏は、哲学が現実的復興について無力であることを認めた上で、長期的には有意義と思われる役割があるとすればそれは「問題の整理」と「考える視点の提示」であるとする。そして、災害一般について長期的視点から考える形而上学的アプローチと、今回の東日本大震災という特定の災害について短期的に考える認識論的アプローチのうち、後者を選択する。日本における低線量被曝問題を扱っている氏は、放射能漏れと放射線被曝、さらにはそれによる被害を分離して考えるならば、今回の震災による「被害」の大きな部分が「放射線被曝によって癌死するかもしれないという不安感」に起因し、風評被害等もこうした「負の感覚」に由来するものであるとする。そしてその不安感のうち、「実体性」(=根拠)のあるものについては原因となる現実を取り除き、「実体性」のないものについては、それが実体のない不安に過ぎないことを提示するべきであるとする。
一方、デュピュイ氏は、「いかに破局を回避するか」ということから出発して自身の破局論を組み立てているように思われる。我々は通常、ある出来事が起こるか否かを考える時、ツリー状に分岐する選択肢を含む時間構造でを考える。これはデュピュイ氏が「歴史的時間」と呼ぶものだ。これでは、未来のことを考えるに際して、どの選択肢が破局を回避しうるのか、知ることはできない。どの選択肢が破局を回避しえたのか、知ることができるのは、破局が生じた後なのである。それゆえデュピュイ氏は、「破局を回避しうる未来」を設定することを提唱する。それは氏が「計画時間」と呼ぶ構造の中に成立している。この「計画時間」においては、「破局を回避しうる未来」を設定することが、現在に影響を与える。すなわち、現在は、「将来において破局を生じない現在」に変更されるのである。現在が変更されたなら、次には、そこを起点として、「より破局の生じない未来」を設定することになる。この円環構造の繰り返しにより、破局の生じる可能性を縮小していくことができる(ただしゼロにはならない)。
「ポスト福島の哲学」という総題のもとであったが、二つの講演のスタンスの違いは、対照的と言ってもよいものであった。一方は「起きてしまった震災に対し、哲学は何もできない」として、現実を変えるのではなく人々の認識を変えようとするもの−−すなわち、根拠が十分でないと思われる未来への不安を縮小し、「どのみち人はいつか死ぬもの」であるから交通事故や通常の病気等の死のリスクの中で放射線の影響を特別視する必然性はない、今後の危険は、起こったら避ける、という方向性を示唆するもの。他方は、破局の起こるリスクを現実的に減らす道を探る形而上学を提起するものであった。デュピュイ氏は、フランス放射線防護原子力安全研究所(IRSN)倫理委員会委員長を務めるだけに、現実を変えるための形而上学を語る氏の発言は、力に満ちていた。ただ、福島で今も原子炉の調査・管理にあたっているIRSNの同僚から毎日情報を得られる立場にある氏に比べ、あまりにも限られた、しかもまったくリアルタイムでない情報しか得られない我々では、破局の起こらない未来を設定する力が違うことが痛感され、その点が残念であった。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0931:120709〕