野上敏明氏が「マルクスの人間性」について書いていましたが、私は彼の「学問上の個性」についても感じるところがあります。例えば、モーゼス・ヘスに対するマルクスの学問上の態度です。
廣松さんの指摘するように、『ドイデ』の執筆者はマルクス・エンゲルス・ヘス・ワイデマイヤー(清書担当)の4人でした。ヘスは、『ドイデ』第2巻第5篇の「『ホルシュタイン出身のゲオルク・クールマン博士』あるいは真正社会主義の預言」の元原稿を執筆しています(マルクス・エンゲルスによる改訂あり)。ところが、マルクスは、同じ第2巻第4篇の「カール・グリュン『フランスとベルギーにおける社会運動』(ダルムシュタット、一八四五年)あるいは真正社会主義の歴史記述」の中では、カール・グリュンとその思想的師匠ヘスを猛烈に攻撃しているのです。
つまり、執筆者の一人が別の共同執筆者を批判しているというわけです。まったくわけがわからない(だからこそ『ドイデ』は、内部分裂で日の目を見ることはなかったとも言えるのですが)。
先輩のアイデアは徹底的に吸収して、先輩そのものは徹底的にやっつける―その限りにおいては、こうした態度は学問的には非難されてもしかたがないでしょう。いや、私はこれで話を終わらせるつもりではないのです。それでは、マルクスの人間性をあげつらってマルクス主義を非難する、単細胞の反共主義者と変わらなくなります。
私はここに、よきにつけ悪きにつけ、マルクスの学問上の個性を見て取るのです。つまり、マルクスは「偉大なる独創性」の持ち主というよりも、先輩たちのアイデアを徹底的に吸収しこれを自家薬籠のものとするという「偉大なる総合性」の持ち主だという個性です。松尾匡氏は、その著『経済学史』(日経BP社 2009年)の中で、経済学者を「創始者」と「総合者」とに分類し、マルクスを「総合者」に位置づけていますが、まさに同感できる見解だと思います。