ミャンマー“民政”民主化のステップ繰り出す -軍部はどこまで民主化を許容するか-

昨年11月の国会総選挙を経て今年3月軍事政権から文民政府に移行したミャンマー(ビルマ)では、テイン・セイン大統領自ら反軍政・民主化運動指導者のアウン・サン・スー・チーさんと直接会談、政治犯を含む多数の受刑者への恩赦実行、ウェブサイトへのアクセス解禁や検閲の大幅緩和など、軍政時代には考えられなかったような民主化のステップを続々繰り出している。

テイン・セイン大統領はまた、北部カチン州のイラワジ川上流で中国が工事中の水力発電用の大型ミッソン・ダムについて「大多数の国民の要求に応じて建設を中断する」と発表した。同ダムの建設計画をめぐっては、生態系や住民の生活環境に与える影響が大きいとして、自然保護団体や地域住民が建設の見直しを訴えていた。軍政時代には中国のミャンマーに対する影響力は圧倒的で、中国の意向に反する建設中断なぞ考えられなかった。

軍政下の2008年5月に国民投票で成立した新憲法は、選挙で選ばれる2院制の国会を国権の最高機関と規定している。しかしその新憲法は、国会の定員のうち4分の1は選挙を経ない軍人に割り当てている。しかも昨年の総選挙では、民政移管に備えて軍部がお手盛りでつくった翼賛政党「連邦団結発展党」(USDP)が議席の約8割を獲得した。このため民政回復と言っても外形だけで実質は軍政の継続ではないかという見方が専らだった。

民政移管後の半年間、こうした見方は新政権が繰り出した民主化ステップによって裏切られた。だがこれらのステップが今後本物の民主化につながるものなのか、それとも実質軍事政権が「衣の下に鎧を隠した」だけなのか、テイン・セイン政権の今後を注意深く見て行かなければなるまい。

この国が第2次世界大戦後、スー・チーさんの父君アウン・サン将軍らの対英反植民地闘争を経て1948年に独立した当初は、東南アジアでは有数の豊かで未来のある国とみられていた。しかし同将軍が独立達成前に暗殺されたことが、ビルマ国軍をゆがめる結果を招いた。アウン・サン将軍亡き後、国軍を率いたネ・ウィン将軍は1962年に軍事クーデターで政権を握って1988年まで軍事独裁を続け、ビルマを貧しい「世界の孤児」に陥れた。

4半世紀を超えるネ・ウィン独裁政権に対する国民の反発が1988年に爆発、学生運動を主導とする全国的ゼネストに発展した。ネ・ウィン将軍は同年7月に退陣したが、国軍は9月に新たな軍事クーデターを起こして権力を握った。しかし新軍事政権は総選挙の実施を公約、総選挙後の民政移管までの暫定政権であることを宣言した。この年老母の看病のため英国から帰国したスー・チーさんは、民主化を求める国民の輿望をになって国民民主連盟(NLD)の書記長に就任した。軍事政権は1989年スー・チーさんを「国家破壊分子」と決めつけて自宅軟禁とし、政治活動を禁止した。

スー・チー書記長の軟禁による不在のもと、NLDは1990年30年ぶりに行われた総選挙で圧勝、約8割の議席を獲得した。しかし軍事政権は民政移管の公約を反古にして権力を手放さず、しかも当選したNLD議員たち多数を政治犯として投獄した。スー・チーさんは昨年11月の総選挙後に3度目の軟禁から解放されるまで、延べ15年間も自由を拘束された。このような民主主義に反する軍事政権のやり方に国際的な反感が高まり、欧米を中心にミャンマーに対する制裁が強化されていった。

こうした中で北隣の大国である中国だけは軍事政権の味方となって、ミャンマーとの貿易や経済交流を続けてきた。ミャンマー国軍の武器・装備はほとんど中国製で占められているという。このようにミャンマーの対中依存が深まるのを警戒したのが西隣の大国インドだった。このまま放置すればミャンマーは中国の属国になりかねず、それはインドの戦略的国益にマイナスとなる。インドの働きかけによって、ミャンマーはインドとの協調関係を深め、そのことで対中依存度を軽減することができるようになった。

東南アジア諸国連合(ASEAN)が国際的評判の悪いミャンマーを抱えながら、ミャンマーに対する制裁を行わないできたのは同じ理由からである。ミャンマーを域内で孤立させればさせるほど、ミャンマーは中国への依存を強めざるをえなくなるという関係だ。もっとも、ASEANの有力国タイはミャンマーから天然ガスや水力発電による電力を大量に輸入しており、国産エネルギーの輸出がミャンマーの孤立を防いでいるという事情もある。

さて「ミッソン・ダム」建設中断の件である。新華社通信によると、この巨大ダムの建設を進めてきた中国の国有企業「中国電力投資集団」の陸啓洲社長は「ミャンマー側の突然の中断表明は理解できない」と反発した。陸社長によると、ミャンマー側は税収や無償電力供給などで540億㌦の直接的利益を得るほか、施設や道路の建設などで4万人以上の雇用が得られるはずだという。建設工事は2009年に開始、36億㌦を投資、完成後は中国側が50年間にわたって運用し、発電量の90%を中国に送電する計画だった。

ダム建設に伴い、カチン州では多数の住民が移転を余儀なくされた。ダムに反対するNGOなどは、住民が軍政当局から圧力を受けて不利な補償条件に合意させられたなどと批判していた。スー・チーさんもダム計画に懸念を示していたが、テイン・セイン大統領の中断決定に「あらゆる政府は国民の望みや懸念を真剣に聞き入れて問題を解決すべきであり、この決定を歓迎する」と語った。

ミャンマーのティハ・トゥラ・ティン・アウン・ミン・ウー副大統領は、今月20日前後に訪中してダム建設中断問題を中国側と協議する予定である。バンコクに亡命中のミャンマー筋によると、副大統領はテイン・セイン大統領とは一線を画す「守旧派」の代表格とされる。中国側は副大統領を懐柔して建設中断方針の見直しを迫りそうだ。一方テイン・セイン大統領は同じころインドを訪問する予定だ。中国を牽制する共通の思惑のためにミャンマーとインドの接近を誇示する構えだ。

バンコクのミャンマー筋によると、テイン・セイン大統領は副大統領とは対照的に「開明派」だという。大統領はもともと士官学校出のれっきとした陸軍中将。軍事政権では序列第4位で2007年から首相を務めていた。首相在任中は軍事政権トップのタン・シュエ議長のイエスマンと言われていた。ミン・ウー副大統領は軍事政権では序列第5位の副首相だった。バンコクのミャンマー筋はテイン・セイン大統領に対抗する「守旧派」とみなしているが、この両者関係は本当のところはわからない。わざと「開明派」と「守旧派」の対立に見せかけているのか、それとも本当に対立しているのか。

スー・チーさんは8月19日に、軍事政権が遷都した首都ネピドーでテイン・セイン大統領と初めて直接会談した。政府は8月19~20日にネピドーで経済改革に関するシンポジウムを開き、そこにスー・チーさんを正式招待した。いわば初の“与野党首脳会談”の後、スー・チーさんは「(会談に)満足している」と述べ、今後も大統領との対話を「続けたい」と語った。さらにヤンゴン(ラングーン)の自宅に帰った後のインタビューで、大統領が主導する政治改革への取り組みを「充分に信頼している」と明言、民主化に向けて新政府と協力する姿勢を明らかにした。

このトップ会談に先立ち、8月前半にはこれまで禁止されていたインターネットのサイト閲覧が可能になり、反政府系のサイトやミャンマー政府を批判する欧米メディアのサイトも自由に見られるようになった。さらにこれまで禁止されていたスー・チーさんの写真や記事、スー・チーさん自身の書いた文章も解禁された。情報省の検閲責任者が米国の自由アジア放送のインタビューに答えて「検閲は民主化と相いれない」と語り、検閲制度の廃止を示唆するに至った。

こうした民主化ムードの中で10月11日、大統領恩赦として6,359人の受刑者釈放が発表された。翌12日釈放された中には207人の政治犯が含まれていた。この中には、2008年に軍政を批判して投獄された著名なコメディアンのザカナー氏とシャン族の指導者サイ・サイ・タン氏が含まれていたが、1988年の学生運動の指導者、10年以上も入獄しているNLDのメンバー、2007年の反軍政闘争で捕まった僧侶の指導者などは釈放されなかった。スー・チーさんはあらためて、NLDが数えている残り約400人の政治犯全員の釈放を要求した。

テイン・セイン政権が軍政から脱皮しようとしていることは間違いない。中国、インド、ASEANだけでなく、世界中の国々と交流したいと思っていることも間違いないだろう。そのためには民主化を進めることが先決だ。だが1962年から39年間もこの国を支配してきた軍人たちが、本心から民主化を進めることができるのか。そのあたりはまだはっきりしていない。今後の民主化の動きを注目していかなければならない。

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