ミャンマー、いま必要なこと

 ミャンマーでは軍事政権トップのミンアウンフライン最高司令官の地位が危ういという情報が飛び交っている。少数民族武装組織である(シャン州)北部三同胞同盟の「1027作戦」によって、中国と国境を接する政府支配地域は瞬く間に制圧された。これに力を得て他地域の武装勢力も進撃、ミャンマーの領土の円周部分は反政府勢力の広く支配地域になり、中央のイラワジ川を中心とする中央平地と、マンダレーやネーピードウ、ヤンゴンといった大都市のみを政府軍が支配しているという状況になっている。
 「彼は軍と国の歴史上最悪の指導者だ。彼のリーダーシップは軍の尊厳を破壊する」と、匿名を条件に独立系ポータルサイト「フロンティア・ミャンマー」に、ある空軍少将が語ったという。しかも伝統的に嫌中意識の強い国軍にあっては、「1027作戦」の裏で糸を引く中国に対する弱腰も怒りを買っているという。ミンアウンフラインは中国を刺激したくないので、反攻作戦にもともと乗り気ではなかったというのだ。軍高官筋の話では、タイムリミットは2月末、戦線のレッドラインはラショオというシャン州北部の中継貿易都市、ここが陥落すれば、ミンアウンフラインは終わりだということらしい。
 さらにこの間国軍の最も熱烈な擁護者であった、過激仏教僧侶もミンアウンフランを見放しつつある。さる1/16、シャン州北部にある戦略的な要衝であるピンウールインで、超国家主義者の僧侶パウク・サヤルダウは、ミンアウンフラインは軍の最高司令官を辞任し、副司令官のソー・ウィン副将軍に地位を譲れと集会で演説したという。奢れるもの久からず、ただ春の夜の夢のごとし――四面楚歌状態に陥った最高司令官には、命脈の尽きる日が刻一刻と迫っているようである。
 本日は、なぜこのような平凡で無能な人物が国軍のトップにすえられたのか、その背景を少し探ってみたいと思う。
 改めて設問すると、あれだけの国際的な逆風のなかで軍事政権を維持してきた「優れた」独裁者タンシュエが、なぜ平凡なミンアウンフランを自分の後継者として選んだか、ということである。
 1990年、総選挙でNLDが圧勝したにもかかわらず、その結果を認めず軍政を続けた軍評議会(SLORC)に対する国内外からの圧力はすざましいものであった。自ら設計し実施した総選挙の結果を認めず、そのうえNLDを非合法化し、アウンサンスーチーを自宅軟禁に処するという行動は、人非人の所業というほかない。自らがなしたこの蛮行に、当時のトップであるソーマウン大将は耐え切れず、精神に異常をきたした。それで急きょ代わったのがタンシュエ大将であった。若いころは誰が見ても、国のトップに立つような男には見えなかったという元郵便局員のこの男は、残忍さを厭わない暴君でありながら、中長期的な視野で軍政維持を設計できる優れた能力を持っていた。2000年代初めに発表した民主化ロードマップの策定、2008年憲法の制定、準文民政府の立ち上げとNLDの合法化という一連の流れは、この男の頭脳から生まれたものである。ちなみに2007年の「サフラン革命」の際、国民の尊敬する僧侶層に対して行った凄惨な弾圧は、タンシュエの政治計画の邪魔をするものは、だれであろうと容赦しないという独裁者の決然たる意志の顕れであった。―ミンアウンフラインは、タンシュエのこの残忍残酷な側面だけを受け継いだ。
 タンシュエにとっての政治的テーマは、ひとつには民主主義の薄化粧を施した憲法を制定し―それは国際社会の認知と外資を呼び込むには不可欠であった―、将来とも国軍の国政関与の特権的な地位と利権を維持できる体制構築と、もうひとつは引退後の自分と家族の安全を確保することであった。あの全能の独裁者であったネウインすら、権力を失った最晩年は家族もろとも危機に瀕した。命は取られなかったものの孤独死を味わい、家族は牢獄にぶち込まれた。それを命じたのが、ほかならぬタンシュエだった。前任者の末路を教訓に、タンシュエは20年かけて権力のスムーズな移行を画策した。そして最後の仕上げとして、表の合法面ではテインセインを首相の座にすえ、裏の暴力装置(軍と警察機構)のトップにミンアウンフラインをすえた。しかし事前にはこの人事はだれもが予想しなかったものであった。
 当時、タンシュエの後継者は軍事評議会ナンバー3のトラ・シュエマンであろうというのが、衆目の一致するところだった。トラは軍功の大なる経歴をもつ人物に授与される称号で、勇気がありかつ有能な人物の証である。しかし老獪なタンシュエは、自分の引退後シュエマンのような野心家で有能な人物は危険人物になりうるとみた。それでシュエマンを下院議長という名誉職に追いやって無害化し、自分の後釜には小柄で威厳もなく、上官には忠誠一本やりで自分に歯向かう怖れのない人物、ミンアウンフラインを選んだのだ。権威主義国家では、指導者選抜に劣性淘汰のメカニズムが随伴しやすいことの一例であった。
         
現役時代のタンシュエ、残忍かつ狡猾というイメージ 権力圏外に放逐されたトラシュエマン
 いずれにせよ、権威主義国家は常に権力の移譲、移行に難がある。独裁者は畳の上では死ねないというのが経験則である。独裁者は権力を移譲した後のおのれの身の安全に不安を感じる。そうである限り、終身独裁者でいるしかないという結論に至る。その意味ではタンシュエは、独裁者にしては引き際は上手だったと言わねばならない。ただしミンアウンフラインが、タンシュエが設計した2008年憲法体制をクーデタで破壊し、むき出しの暴力で全国民を敵に回してしまうところまでは、予測できなかったであろう。2008年憲法体制は、国軍と文民とがバランスよく権力を分け合うことで成り立つものであった――ただし国家の暴力装置と官僚機構は軍が独占し、文民支配は主に社会・経済分野に限られる。しかし一方は民主化を進め、軍の政治への関与を縮小させ文民統制を進めるべく努めているのに対し、もう一方は軍の既得権を死守せんとしているのであるから、均衡は早晩崩れる運命にあった。それを平和的に交渉によって再調整し、均衡を回復させるには、両方の側での禁欲と政治的成熟が必要であった。しかし半世紀に及ぶ独裁政権のもとでは、問題を暴力的軍事的に「解決」することが常態であったので、本来の意味での政治的能力はどこにも―反体制の側にも―育ってはいなかった。
 この歴史的なハンディキャップは一朝一夕で乗り越えることは難しい。アウンサンスーチーと言えども人の子である。氏は1988年の国民的総決起が生み出した指導者であることは確かであるが、しかし政治指導者としての経験には恵まれていなかった。国連事務局や研究者としての若干の経歴のほかは、純然たる主婦であった。したがって社会経験、民主的な組織運営の経験、政党指導者に必要な理論的,というか政論的な能力―政治戦略と人々の草の根の要求を融合させる能力―、若手人材の積極登用による人事政策、わけても少数民族や他宗教宗派との交流経験等において欠けるところがあった。その結果、新生NLDにおいても、トップ指導部は、元国防大臣ティンウー氏はじめほとんどが旧軍人で占められ、その経歴からいっても権威主義的な指導スタイルに傾くことは避けがたかった。ネウイン軍事独裁の徹底した暴力支配のもとでは、軍人以外の知的選良もテクノクラートも層として育つことはなかったこと――この負の遺産を反体制陣営も背負わねばならなかった。
 アウンサンスーチーの名声と圧倒的な権威は、民主的な組織づくりにはかえって障碍になった。党大会や中央委員会総会や常任幹部会(政治局)において、開かれた討議で政治決定を行うというスタイルは、ついに確立されなかった。公開性と説明責任というスーチー氏が強調していた法の支配の原理は、うやむやになってしまった。党にとって重大な決定である総選挙にあたっての候補者選定は、下からの要望はほとんど無視され、上意下達というかほとんどスーチー氏の一存で行なわれた。そのためビルマ族仏教徒に人選が偏り、とくに多数派仏教徒を意識してムスリムは意図的に除外された。
 時間がたつごとにスーチー氏の独断専行が、目立ってきた。その一例は、シュエマン氏との共闘である。タンシュエによって政権のトップ争いから脱落させられたシュエマン氏は、復権のチャンスをうかがっていた。それでスーチー氏と組むことで、突破口を開こうとした。しかしこれは一種の宮廷革命的色彩の強いやり方で、民主化勢力からみても唐突なやり方は、みなの理解を得られるものではなかったろう。シュエマン氏の方も時の勢いはスーチー氏にあると踏んで、乾坤一擲共闘関係を結ぼうとしたが、国軍をバックにするUSDP党から除名になり、事実上氏の政治生命は終わった。民衆の支持を背景に持たない権力政治家の弱さを露呈させたのである。

 私は、経営するレストランのあるアウンサン・スタジアムまで毎朝タクシーで通勤した。当時2000年前後は、NLDは徹底的に弾圧されていて、権力に屈服するまで親兄弟親戚にいたるまで嫌がらせを受け、職場にもいられないように締め上げられていた。毎朝、政府系の新聞「New Light of Myanmar」で、どこどこ区のだれだれが、NLDを辞めて帰順したと記事にされていた。なかには大物も少なからずいた。NLD党員でいることに、万にひとつとしていいことはなかった。しかしそれでもNLDは屈服しなかった。反体制派にとって政治的に重要な地域であった、アウンサン・スタジアムのある「ミンガラータンニュン区」にNLDの支部は残っていた。毎朝10時過ぎ、古びたマンションの5階のベランダに汚れた白い布にNLDと書かれた横断幕が掲げられた。政治的社会的迫害に屈することなく、民主化の旗を守り続けている人々がここにいるのだ、私は目頭が熱くなる思いであった。
 その後2016年に、私はミンガラータンニュン区にあるNLD支部事務所を訪れた。千客万来、2階建ての事務所には多くの人々が出入りし、活況を呈していた。有名な女性の国会議員と話をすることができたが、私が財政面での問いかけをすると、議員の俸給からNLD本部へ天引きされるし、国会のあるネーピードゥへの交通費もかかるし、活動に多く使うのでかつかつのやりくりだと正直に答えてくれた。私は些少だがと、わずかばかりのカンパをさせてもらった。
 つまり何が言いたいかというと、NLDという民主主義の熾火(おきび)が絶えなかったからこそ、次の時代の爆発的な社会変化がもたらされたこと。そして2010年代の10年間、NLDが合法化され、不十分ながらも市民社会が形成され自由な言論空間が拓けたことで、人々の間に権利意識が芽生え、政治的な勇気が陶冶されたこと、このことが2021年2月のクーデタに対する若者たちの総反撃を可能ならしめたのだ。私がヤンゴンで暮らし始めたころ生まれた子供たちが、多くの犠牲を払いながら国軍の暴力との闘いの最前線に躍り出たのである。私の知る、臆病で、自己中心で、人と何か共同で取り組もうとは決してしないミャンマー人とは別の世代が現れたのである。

国軍との戦闘後、大量の武器弾薬を手にポーズをとるアラカン軍部隊(2024年1月21日イラワジ
 ミンアウンフラインの誤算は、NLD治世下での国民意識の成長進化を読み取れなかったことだ。抑えつければ、屈服するという軍事独裁者の思い上がりが災いを招いた。しかしこれはミンアウンフラインに限ったことではなく、軍事独裁の受益者すべてに言えることだった。
 情勢は、軍事独裁後の体制構築を構想しなければならない段階に入りつつある。民主化抵抗勢力の側に立ってみると、軍事情勢の進展に政治能力が追い付いていないのが現状である。NLD政権では、少数民族勢力はわき役に過ぎなかった。しかし国軍との戦闘に勝利しつつある彼らは、一躍主役に躍り出てきた。ある意味、この事態は多数派仏教徒勢力にとって面白くない。この面白くないと感じる意識を克服し、多様性と複数主義を原理とする民主主義的な連邦制国家のなかに、遅れた意識を包摂し昇華していく努力が必要なのだ。この試みは、ロヒンギャの迫害に多数派仏教徒の政党であるNLDが加担したことを自己批判し、和解に踏み出したことで一部実現されつつある。NLD~国民統一政府NUGがアウンサンスーチーのカリスマ性に支えられた多数派仏教徒の政党から、真の国民政党へ生まれ変われるかどうか、まさに岐路に立っている。多民族多宗教のモザイク国家というハンディキャップを超えるための交渉と議論のための共通の土台は、クーデタ後に起草された新憲法草案であろう。闘いの経験と様々な政治勢力間での討議・交渉の結果を、新憲法草案に盛り込んでより良いものにしていく努力が、いま必要なのだ。政治能力は実践と経験によってのみ鍛えられる。内戦のさなかであるからこそ、前線で闘っている兵士、後方兵站を支える住民にいたるまで政治討議に参加できるような仕組みと政治教育に国民統一政府は力を注ぐべきであろう。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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