ミャンマー、ディぺインの大虐殺から20年 ―残虐さは続くも、追いつめられる軍事政権

2021年2月1日の軍部クーデタにより政権が奪取されて以来、本年3月のNLDの発表によれば、アウンサンスーチー氏―現在33年の禁固刑に服している―を筆頭に少なくとも1,235人の党員が拘束され、26人が尋問や拘留中に死亡し、63人が不法に殺害されたという。さらに各地の党の事務所が破壊されたばかりではなく、NLDの議員や党員、関係者所有の不動産が、1,000軒近く国軍に差し押さえられたという。米議会出資メディアのラジオ・フリー・アジア(RFA)が5月23日に伝えたところでは、押収されたり、売却された建物は住宅や事務所、レストラン、宗教施設、病院、学校、ゲストハウス、ホテルなど多岐にわたる。政治弾圧だけでなく、近代社会の原理である私的所有への公然たる侵害に、軍事政権の野蛮さや正当性(レジティマシー)の欠如が如実に表れているであろう。まさに軍事政権とは言い条、ごろつきギャング団というのが、その実体にふさわしい名前である。

2003年5月、ディペイン事件の直前、マンダレー管区を遊説するスーチー氏とNLDの車列を歓呼して迎える市民たち。                           イラワジ

今から20年前、2003年5月30日の夜、今日最も激しい抵抗闘争が行なわれているザガイン管区のディペイン地区で、当時遊説中だったNLDの車列を暴徒が襲い、少なくとも70名の死者を出した事件があった。いまなお秘密のベールに覆われている「ディペイン大虐殺」である。このとき車内にいたアウンサンスーチー氏は、運転手の機転で間一髪襲撃を免れたが、すぐに逮捕され、再び長い自宅軟禁の身となった。この事件については、その後スーチー氏自身口を閉ざして何も語っていないし、犠牲者に対する追悼式すらいっさい行われておらず、完全に闇に葬られたままになっている。当時私がヤンゴンにいて聞いた話では、暴徒はスワン・アーシンと呼ばれる民兵集団で、独裁者タンシュエの命を受けたソ―ウイン大将の指揮によって計画的に行われたものだということであった。残虐をもって鳴るスアンアーシンは、未確認情報であるが、犠牲者を道路に並べて身元が分からなくするため、頭をドラックの車輪で轢いていったという。ソ―ウイン大将はこの蛮行の論功行賞で、秘密警察のキンニュン首相失脚の後、首相の座を与えられたが、天罰か、数年後白血病で亡くなっている。
スーチー氏が率いるキャラバン隊をマンダレー管区やザガイン管区の民衆は熱狂的に迎え、日に日に反響が大きくなるのに恐怖した軍事政権は、襲撃殺人や逮捕という最悪の手段で運動の圧殺を図ったのである。こうした暴力性を、当時やむを得なかったにせよ、不問に付したままに合法性の枠組みを与えられて政権を獲得したNLDと民主派勢力は、はやりぬぐいがたい脆弱性を抱え込んでいたのである。スーチー氏は、自身の法律顧問であり、最側近のコーニー氏が、2017年1月、白昼ヤンゴン空港で銃で後頭部を撃たれて殺された時も、沈黙を守った。暗殺は、国家顧問という役職を設けることによって、軍部が何としても阻みたかったスーチー氏の大統領職への実質的就任を可能にしたコーニー氏への軍部の報復であることは明白であった。しかし事件に関する党としての一片のコメントもなく、スーチー氏はコーニー氏の葬儀にすら出席しなかった。軍との力関係上やむを得なかったにせよ、沈黙を守ることによって、国民の怒りに火が付くことを回避し、その結果国民が軍部への警戒心を高める機会を逃してしまったのではなかろうか。国民への説明責任という意味でも、スーチー氏やNLDに落ち度があったといえないこともない。指導者民主主義と言ったらいいのであろうか、権威主義的なカリスマの威光に頼る政治手法の限界が見え隠れしているように思われる。いずれにせよ、これらの事件は、クーデタに通じる伏線であったことは確かなので、今後も総括の重要なファクターになるのであろう。

<残忍な空爆、焦土作戦のエスカレーション>
反体制メディア・イラワジ紙によれば、5月22日から29日にかけてだけでも、カヤー州、カレン州、バゴー管区、マグウェ管区、サガイン管区で少なくとも22回の砲撃攻撃と空爆によって、民間人の多数の殺害を記録したという。

バゴー管区フタンタビン郡区ニャウンピンタ―ル村の虐殺と焼け焦げた遺体。 イラワジ
既報のように、軍事政権は地上戦では抵抗軍に勝てなくなっているので、その分空爆や砲撃、焦土戦術で村ごと破壊する作戦を展開している。4月中旬にはザガイン地域のカンバル地区で、行政事務所の開設式に参加していた住民たちに対し空爆を行なって、160人以上を殺害した。ミャンマー国軍は、日本の特務機関によって創設されたものなので、旧日本軍のDNAが生きているのかもしれない。旧日本軍が華北の八路軍殲滅のために採用した「三光作戦」―殺光(殺し尽くす)、焼光(焼き尽くす)、搶光(奪い尽くす)―に戦術思想がよく似ている。ミャンマー国軍の戦法は、「四断戦術(Four Cut)」と呼ばれ、武装勢力が根拠地とする村々から支援を受けられないように、村ごと破壊して「情報、資金、食料、新兵徴募」を断つことを眼目とする。
なるほど空爆によって、多くの村人が避難民となっており、クーデタ以降その数は150万人に達するという。空爆に対抗する軍事的手段として高性能な携帯ミサイルがあればよいのだが、アメリカや西側諸国は内戦への介入と非難されるのを恐れて、おそらく供与はしないであろう。中国とロシアが軍部に対し軍事援助を続けているのであるから、抵抗勢力に供与しても理屈は立つであろうが、地政学的に有利な条件を有している中国には対抗できないのかもしれない。話が跳ぶようであるが、スペイン内戦で反ファシズム勢力が人民戦線政府への援助にためらいがあったことが、フランコ反乱軍の勝利を許し、ひいてはヒトラーの侵略戦争に道を開いたのではなかったか。

4月、軍の空爆によって破壊された教会、カレン州        イラワジ
   
4月、軍の空爆によって燃え盛る民家。カチン州シュエグー郡区シータウン村          RFA

ザガインの人民軍兵士、抗議デモを防衛する。2022年9月。      イラワジ

<縮まる軍事政権への包囲網>
ミャンマー軍事政権にとって状況は日に日に悪化しつつある。目立ったところでいくつか拾い上げてみよう。
●まず軍事的方面からであるが、地上戦での敗北と軍隊からの逃亡の増加により、深刻な人員不足に陥っているという。日経新聞6/1号の「ミャンマー、変わる勢力図 国軍の人手不足深刻」と題する記事から。

――米シンクタンクの米国平和研究所(USIP)客員研究員のイェミョーヘイン氏は5月、「ミャンマー国軍は深刻な人員不足で弱体化が進んでいる」とする分析を公表した。民主派勢力との戦闘で推計1万3000人が戦死、8000人が脱走し、計2万1000人の兵士を失ったと推計した。
国軍の総兵力は従来、30万〜40万人と言われてきた。クーデター以前から部隊数の増大に人員補充が追いつかず「実際の戦闘要員は約7万人、支援部隊や海・空軍を加えても全体で15万人程度だ」(同氏)。バンコク在住でミャンマーの安全保障情勢に詳しいアンソニー・デイビス氏も陸軍の戦闘要員を10万〜12万人程度とみる。

実戦闘員7万人では、日本の1.8倍の国土面積をもち、北から南へ広大に伸び広がった戦線を維持できるはずがない。総国民を敵に回しての大義なき戦争、予期せぬ敗北に次ぐ敗北、軍官僚の恐るべき腐敗、軍部のフロント企業の不振による、危ぶまれる軍年金制度の維持など、兵士の士気を維持することも容易ではない。以前記したことであるが、軍の基地内では軍人家族も基地襲撃に備え、軍事訓練に参加するよう強制されているという。ミャンマーの軍基地の多くは、軍人家族も同居しており、保育園や学校、病院や商店など丸抱えして、軍人や軍人家族が外の世界と容易に接触できない仕組みになっている。

●次に外交関係にかんして。軍事政権は、中露両国とそれと友好関係にある一部のアセアン諸国―ベトナム、ラオス、カンボジア、タイ―の黙認によって、国際的孤立からかろうじて守られてきた。しかし先月タイの総選挙で野党勢力が勝利し、連立政権が成立することになって、外交環境は急変しつつある。タイのリベラル派である前進党(MFP)のピタ・リムジャロエンラート党首は、5月15日の選挙後の記者会見で、(ミャンマー内戦を停止させるためのアセアン首脳会議での)「5つのコンセンサスが実際に達成されるように推し進めたい」と、ミャンマー政策を明らかにした。アセアンにおけるタイの主導的役割を復活させ、ミャンマーでの暴力を軽減するために取り組むとし、そのために「すべてのステークホルダーと関わる」と述べ、和平に向けて反体制勢力と新たに関わる意向も示した。さらに昨年12月に米国議会で可決されたビルマ法―ミャンマーの抵抗勢力に対する非殺傷的な支援に米国が資金を提供することを許可したもの―を活用して、ピタ党首は紛争解決のための圧力をかけるとまで言っている。今までのタイ準軍事政権の、親ミンアウンライン政権・親中国政策からの大転換を図る意向を示したものであるが、さっそくミャンマーのミンアウンフライン総司令官は、全軍に警戒態勢に入るよう指示を出したという。ミャンマーとタイは長い国境線を有しており、過去国境で武力衝突が繰り返されてきた歴史がある。


  • 前進党のピタ・リムジャロエンラット党首とプータイ党のチョルナン・スリケーオ党首は、8党連立政権の成立を確認する記者会見でハート型のジェスチャーをした。 Bangkok Post

 

●イラワジ紙6/1によれば、為替レートが再び1ドル=3000チャットに下落し、ドル危機が再燃しているという。輸出と外国直接投資の減少による国際融資の不足が、ミャンマーに流入する米ドルの量を減らし、政権の外貨準備高が減少しているせいである。IMFによると、NLD政権時ミャンマーには77億米ドルの外貨準備高があった。しかしクーデタ政権は2年足らずの間に、ロシアや中国などから少なくとも10億米ドル相当の武器や関連資材を輸入している。また燃料、医薬品、食用油などの重要な輸入品には、毎年数十億ドルの費用がかかっている。昨年7月、政権スポークスマンのゾーミントン少将は、政権がローンの返済と利息で約7億米ドルを支払わなければならないことを明らかにした。直ちにデフォルトの危機にあるとはいえないにせよ、ドル不足はチャット安によるインフレを加速し、庶民の生活に破滅的な影響を及ぼすであろうことはまちがいない。
●日経産業新聞5/29によれば、インドの新興財閥アダニ・グループがミャンマーで開発中の港湾事業をわずか3000万ドル(約40億円)で売却すると発表したという。以前より国軍の傘下企業に資金が流れていると非難されており、欧米政府筋だけでなく、ESG(環境・社会・企業統治)を重視する投資家の厳しい圧力にさらされて、財務上の損失を伴う撤退に追い込まれたのだという。
日本のODA供与停止に。ミャンマーへの巨額融資の破綻明らかに。
外務省によると、ミャンマーですでに円借款を出す契約をして進行している事業は計34件、7396億円にのぼる。経済特区の開発や橋建設など大規模なインフラ事業が大半を占めるという。その円借款の返済が始まったという。過去の累積債務3千億以上をチャラにして、2013年から再開した円借款供与、契約高は1兆円にも近づき、事業の完成もみないまま破綻国家的症状を示す軍事政権下、債務問題が再発するのは必至であろう。国民血税数千億円をたびたびどぶに捨てるような援助政策の破綻――どれもこれも国民の監視がゆるゆるであるせいではないか。
朝日新聞5/31によれば、円借款拠出額2千億以上になると見込まれていた、ヤンゴンと第2の都市マンダレーを結ぶ鉄道改修事業は、現在予定の4分の1程度の進捗率であるが、日本政府は追加の資金供与の中止を通告したという。識者によれば、アジアで最大規模の円借款の中止だという。経済開発への支援で民主化を後押しするというのが日本のODAのあり方であるが、民選政府がクーデタで打倒された以上、これ以上援助事業を継続する意味はないのは当然である。いや意味がないどころか、継続すれば軍事政権を利することになることは火を見るより明らかである。
イラワジ紙5/30によれば、人権団体であるJustice For Myanmar(JFM)は、日本やEUの多国籍企業が実施する鉄道プロジェクトは、軍隊や武器、その他の物資の移動に列車を使用するため、軍事政権を利することになっていると述べているという。また大和ハウスの子会社であるフジタ、住友商事、日本信号株式会社は、線路や駅の改良、橋梁工事、信号、その他の通信機器などを提供しているという。政府開発援助の二国間協定では、プロジェクトは軍事目的に使用してはならないと規定されており、明らかにこれに違反した行為を日本政府は続けてきているのである。

<中国の急速な関与強化と民衆の反撥>
既報の通り、中国は停滞している「一帯一路」関連のプロジェクトを進めるために、軍事政権と手を組むことを決めたようである。アメリカがビルマ法を可決し、反体制勢力の支援に一歩踏み込んだとみるや、中立的な姿勢をかなぐり捨て、本格的な関与に動き出した。5月2日、泰剛外相はミンアウンフライン最高司令官と会談するとともに、かつての独裁者タンシュエのもとを訪れ、中国とミャンマーの固い絆を再確認したという。軍事政権へのテコ入れに本腰を入れ始めた中国は、日本が鉄道のインフラ事業から撤退するのを奇貨として、17年に覚書を結んだヤンゴン―マンダレーの交通インフラ整備を含む「経済回廊構想」の実現に前のめりになってくるであろう。鉄道整備事業はそれだけにとどまらず、沿線開発で工業団地や都市計画とセットになっている。「経済回廊」関連の事業は、新ヤンゴン市都市計画、イラワジ管区のミーリンギャイン・エネルギープロジェクト、ザガイン州のレッパダウン銅山、ラカイン州のチャオピュー深海港と経済特区など、35にのぼるという。
  
ザガイン管区レッパダウン地区の中国への抗議行動     イラワジ
しかし中国とて順風満帆なわけではない。過去、日本の巨額のODAが焦げ付いたし、また現在も焦げ付きそうな状況からみて、中国に代わったからといってリスクが減るわけではない。スリランカの例を見てもわかるように、事業や事業規模の必要性や合理性が事業地域になければ、成功しないこともある。
中国がミャンマー側に事業の進捗をせっついているのは、ベンガル湾に臨むチャオピューの深海港と隣接する経済特区の建設である。中国向けパイプラインの起点となっているチャオピューの事業を中国側は最優先の課題としている。しかし以前からこれらの事業が漁業に深刻な影響を与えるとして、地元住民は反対運動を展開してきた。港の建設予定のマデイ島の人口約3,000人のうち、約7割が漁業で生計を立てているという。また経済特区の建設によって2万人もの人々に移転を強いることになると予想されている。民主主義も人権も無視する点では中国と軍事政権は息が合っており、中国にとって軍事政権は好ましいパートナーなのである。

マデイ島にある中国の石油パイプラインプロジェクトの石油タンク RFA
かくしてミャンマーでは、中国にとって最大のリスクは、なんといっても国民の反中感情である。すでにベンガル湾から雲南省昆明に至る原油とガスパイプラインのステーションは、何回もゲリラ攻撃されている。ミャンマー国軍の脆弱化しつつある軍事力では、各所に広がったプロジェクトをゲリラ攻撃から守り切るだけの力はないであろう。もともと国軍すら中国嫌いには根深いものがあり、国民に支持されない事業が成功する見込みは不確かであろう。

<中国の政治的関与―軍事政権との和解仲介>
国境地帯に拠点を置く「ワ州連合軍」などのいくつかの武装集団に大きな影響力を持つ中国は、自らの事業展開のために必要な国境地域の安定と平和を確保すべく、しばしば軍事政権と少数民族武装集団との話し合いの仲介の労をとっている。イラワジ紙6/2によれば、「ワ州連合軍」の首都であるシャン州のモングラで、6/1に雲南省外交部の中国特使も同席して、アラカン軍(AA)、タアン民族解放軍(TNLA)、ミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)からなる三者軍事同盟と軍事政権との会談が行われたという。三つの軍事組織は強力な軍事力を有し、現在は停戦協定にしたがって国軍とは正面から戦っていないが、抵抗勢力に軍事訓練を施し、武器や物資の補給をおこなっている。会談の議題は、軍事政権が予定している総選挙への協力を要請する内容だったようであるが、三者がこの問題についての話し合いを拒否したため、何の成果も得られずに終了したという。
中国の行なう外交政策は、一見平和の使者面をしつつ、自己利益の最大化を優先する点ではウクライナ問題でもミャンマー問題でも変わらない。個人的な狭い範囲の体験ではあるが、目的のためには手段を択ばないというプラグマテイックなメンタリティは、どうも中国人に目立つように思う。かつて毛沢東が中国の解放戦争の経験を踏まえて言った「抑圧のあるところ、必ず抵抗がある」という重い言葉は、天に唾するがごとくいまの中国政府にかかってきているのだ。

<犠牲者を数ではなく、人として心に刻もう>
地元メディア「Myanmar Now」は、「沈黙は、ミャンマーで最も悪名高い尋問施設に身を置く多くの人々の運命を覆い隠す」と題して、特集記事を組んでいる。ミャンマーでは軍部独裁政権になって半世紀以上も前からであるが、当局の不当逮捕に続いて刑務所に送られる前に、「尋問センター」で多くの民主派人士が拷問によって殺されてきた。今回のクーデタへの抵抗運動でも、数多くの政治家、活動家が老若男女問わず、消されている。
写真左のユーワイミンは、家庭の事情で中学2年生で退学し、お針子さんになった。ミシンかけをしながら歌うのが好きな明るい女性だったという。祖父母や叔父のもとで育ったが、けっして自分の境遇を嘆くようなことはなかった。しかし2021年2月のクーデタで彼女の生活は激変する。せっかく手に入れた自由を手放してはならないと、街頭行動に参加した。弾圧が激しくなると、彼女は友人たちとFacebook「マンダレーの声」を立ち上げ、その管理者として軍の動きを活動家たちに知らせる活動を行なった。しかし昨年末、家の前で捕まってからは消息は不明のままである。唯一わかっているのは、ミャンマー王朝のあったマンダレーの宮殿内にある、悪名高き尋問センターに連れていかれたということだけである。法廷にも出廷しないので、生死不明というより、拷問で殺された可能性が強いとみるべきであろう。
  
Myanmar Now
女性は性的ハラスメントをうけ、しばしばレイプされるという。そしてその遺体は犯罪を隠すためにひそかに処分されてしまうと、ある弁護士は言い、クーデタ以降、マンダレー宮殿で尋問を受けた約1000人のうち、3分の1以上が女性だったと推定している。
同じような運命にあったのは、写真右のアイナンダーソーである。彼女は、2021年9月18日に反体制活動を理由に逮捕されたとき、ザガイン教育大学の3年生だった21歳だった。大学の学生組合の会長であり、ザガインのテーズ郡区の出身である彼女は、キャンパス内と、両親が素な農家であった故郷の村の両方で抗議活動を主導したという。マンダレーから帰る途中、エーヤワディー川の対岸、マンダレーとサガインを結ぶ橋の検問所でバスから引きずり降ろされた。1年後のユーワイミンと同様、マンダレー宮殿に連行され、以後、消息は途絶えている。
下の写真は、ミャンマー観光の最も人気のあるスポットである、マンダレー宮殿とマンダレー・ヒルの夜景である。1885年イギリス軍によって占領されるまで、最後の王朝であるコンバウン王朝の居城であった。

正面はマンダレーヒル。ここに立てこもった日本軍掃討のため、大量の砲爆撃がなされ、宗教施設は灰燼に帰した。
まさかこんなところに拷問センターがあり、多くの民主戦士が殺されているとは想像もつかないであろう。この種の野蛮さが仏教文化と併存するところに、この国の恐ろしさがあり、それゆえにそこから脱却し近代国家になるための苦難が、他国より何倍も重くのしかかっているのである。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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