ミャンマー、敗色濃厚な国軍とこれからの展望

 既報のように、ミャンマー国軍は、中国と国境を接するコ―カン地区で、北部同盟を組むミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)、タアン民族解放軍(TNLA)ならびに人民防衛軍(PDF)との戦いで大敗北を喫し、かなりの領土を失った。そしてその領土は、中国の影響力が極めて強いワ州連合軍(UMSA)に併合された―漁夫の利!いったんは中国の介入で1月に停戦したものの、この6月に戦闘が再開され、ついにシャン州北東部の最大商業貿易都市ラショーが陥落した。8月3日、抵抗勢力は、ラショー防衛の重要拠点である北東部司令部を完全制圧したと発表したのだ。MNDAAによれば、北東部地域軍本部の最高司令官ソーティン少将らを逮捕拘留、さらに兵士と家族ら4000人が降伏したそうである。国内に14ある軍管区司令部のなかでも重要度の高い北東部司令部の降伏による国軍のダメージは、計り知れない。

MNDAA の部隊は8/3にラショーの国軍本部を完全に制圧した。/ The Kokang
 しかし戦闘はその後も継続拡大、ミャンマー第二の都市である旧王都マンダレーに、北部からと北東部から急速に迫る勢いである。タアン民族解放軍(TNLA)ならびに人民防衛軍(PDF)は、マンダレーの北に位置する宝石(ルビー)の産地で有名なモゴックを制圧、文字通り人民解放軍として住民から迎えられた。抵抗軍を迎える人々の笑顔が、なによりも革命の真実を物語っているであろう。
   
モゴックで、TNLAなどの抵抗勢力を歓迎する市民  (Khit Thit MediaのFacebookより)
 さらに北東方面の別部隊はシャン州からマンダレー管区へと3号道路に沿って進撃。シャン州のシッポーとナウンチョーの両町を抜いて、マンダレー管区の要衝ピンウールインに迫ろうとしている。ピンウールインには陸軍士官学校があり、国軍の上級将校たちの母校であるだけに、ここが陥落することになれば、国軍中枢にあたえる精神的ショックの大きさは、想像に難くない。軍事政権はピンウールイン死守の構えで、兵士の家族も動員して防備を固めているという。しかしもはや国軍に抵抗勢力の攻勢を止めるだけの気力体力は残っていないのではないか。8月10日過ぎ、抵抗勢力はピンウールインへの攻撃を開始したと言われているが、ここからはマンダレーまでは60キロ程度、辺境の高原地帯からイラワジ川流域の平原地帯―歴代のビルマ王朝の支配地域―へ抵抗勢力が進出するのもそう先のことではないだろう。
 ところで、今は昔であるが、旧ビルマ方面軍第28軍司令部の岩畔参謀長の有名なことばがある。「マンダレーはビルマの人心変換線だ。敵がマンダレーを越えて南進を開始するときは、ビルマの人心は一変して、敵側に傾くことを覚悟しなければならない」。人心の動向だけでなく、戦局のうえでも、旧王都マンダレーは分岐点となった。マンダレーの少し南に位置するメイクテ―ラという場所で、昭和二十年三月、連合軍との最後の会戦(イラワジ会戦)が行われ、日本軍は大敗北を喫してビルマ全土の全戦線が崩壊、雪崩を打つように敗走潰走を重ね、多くの犠牲者を出して敗戦に至るのである。
 この伝で行けば、抵抗勢力がマンダレーを落とした時点で、国軍は旧日本軍のように全戦線の維持が困難となるかもしれない。すでにイラワジ・デルタを除く西南部は、アラカン軍AAが制圧しつつある。国軍は戦線を整理して、首都ネピドーとヤンゴンとを結ぶ中央平原ラインに兵力を集中させて、政権を死守しようとするかもしれない。しかしネピドーには右側からカレン民族解放軍(KNLA)やカレン二―軍(KA))が徐々に圧力を強めており、ラインの中間点にあたる都市トングーが占領されれば、ラインは寸断される。そうなれば、軍事政権はヤンゴンという商業都市からのドルや物資の補給を断たれるであろう。万事休す、高級軍人や政商たちはそう判断して、タイや中国やロシアへ先を争って亡命する事態になるかもしれない―かれらはタイなどに大量の不動産を所有し、シンガポールや香港、スイスの銀行口座に隠し財産を貯め込んでいる。それは彼らの生みの親である旧日本軍が、昭和二十年の敗戦時に演じたことに重なる。イラワジ会戦に敗れ、敗戦は必至とみたビルマ方面軍の最高司令部は、自分たちだけ早々に飛行機でモールメインという南ビルマの都市に逃れておいて、その一方で恥知らずにも全軍にラングーン死守を命じたのである。
 さて、軍事組織としての旧日本軍とミャンマー国軍の親和性について。上級が下級に課する忠誠義務の厳しさはよく似ている。かつ上級士官と兵卒の待遇の差の甚だしさも似ているし、補給兵站軽視の度し難い体質もよく似ている。旧日本軍の「輜重(しちょう)輸卒が兵隊ならば、蝶(ちょう)やとんぼも鳥のうち」という戯れ歌ほど、近代戦の戦力概念の欠如をよく物語るものはない。※今回のミャンマー内戦でも、多くの国軍基地の降伏は、激しい戦闘の結果というよりも、補給が断たれて抗戦意欲を喪失した結果である場合が多い。
※現代の戦争の帰趨を決するのは、ロジㇲティクスという補給兵站部門である。ベトナム戦争時の国防長官であったマクナマラは、第二次大戦時この部門を担当して功績があったため、フォード社の重役に迎えられ、その後戦争責任者に抜擢されたのだ。しかしそのマクナマラが、ベトナム解放勢力のホーチミン・ルートをつぶすことができず、敗北した。ナチス・ドイツのバルバロッサ作戦における電撃戦は有名だが、しかしそこでも補給兵站は軽視されて十分機械化されておらず、後々その弱点を露呈することになる。

投降した国軍将兵たち。              Youtube

<ピンウールインという歴史的都市>
 この都市は、北シャン高原から下ってマンダレー管区の入口に位置する高原のまちで、戦前はイギリスの植民者が避暑地として開発したところで、以前は「メイミョー」といった。そう、ビルマ方面軍隷下の第15軍の司令部があったところで、ここからかの「インパール作戦」が発動されたのである。第15軍の最高司令官は牟田口廉也中将、旧日本軍のなかでの最大の愚将として悪名が高い。ミャンマーの国軍(タマドウ)は、その残忍さ、腐敗堕落、貪欲さ、無能さ、愚劣さにおいて際立っているが、それもこれも創設者である旧日本軍からDNAを引き継いでいるせいかと思われる。牟田口らは、インパールの前線から500キロも離れたここメイミョウで作戦指揮、もっと前線に近いところに指揮所を移すようにとの再三にわたる大本営や南方方面軍からの要請にもなかなか従わなかった。実はメイミョウには高級将校専用の慰安所「清明荘」が設けられており、毎夜毎夜各人好みの芸妓(慰安婦)にかしずかれての宴会が催されたという。第15軍の将兵たちがインパールやコヒマで、食なく弾なく死線をさまよっているときに、インパールへの突入を怒号する司令官たちは、内地から持ち込んだマグロの刺身すらあったという酒池肉林のただれた生活に溺れていたのである。旧大蔵省のノーパンシャブシャブ事件をたどれば、メイミョウに行き着くのではないか、当時私はヤンゴンにいて日本からの便りにそう思った。(ちなみに、のちに自民党の大物代議士となる前尾茂三郎は、ビルマ方面軍の財務担当であった。財務担当の役割は、様々な作戦ごとに大量の軍票を発行して物資を調達することであり、そのため戦後ビルマに深い傷跡を残すことになる)
 部下に極端な犠牲を強いる戦理・兵法を無視した作戦命令、補給兵站の軽視というか無視、かつ戦場の事前調査や偵察活動の軽視、主観的独断的な作戦指揮等は、旧日本軍に特有の病弊であった。この欠点をミャンマー国軍も受け継いでいると思われる。いや、日本軍以上に権威主義的であり、部下が戦場で裁量を働かせる余地はもっと少なかろう。しかも国軍の高級将校は、この30年間ほとんど実戦体験がなく、急激に拡大してきた軍事機構―15万人から40万人へ―にあぐらをかいて、政商と組んで権益をあさることに熱心だった。したがってかれらが戦い下手なのは当然なのである。その代わり、将軍クラスで、退職するまでにビルの1個や2個建てられなかったとすれば、それは無能の証であった。

ビルマの軽井沢と称された旧メイミョー。垢抜けした街並みが残る。
<人心の離反を促進する「伏せ鉢」>
 どんなに抑圧的な政権でも、抑圧一辺倒では長くは権力維持はできない。統治を持続可能にするためには、何らかの形で民意の調達、人心を掌握しておかなければならない。ミャンマーの軍事政権の場合、それは上座部仏教の守護者、(ビルマ)民族の守護者、国家主権の守護者というイデオロギーであった。そのなかでもわけても強力であったのが仏教の守り手というものだった。したがって国軍は仏教界を取り込むことに万全の注意を払い、潤沢な寄付を絶やさない一方、その統制に心を砕いた。そのためもあって、1988年の動乱や2007年の「サフラン革命」当時、軍事独裁体制に反旗を翻した仏教界の大物たちのうちにも、軍事政権に屈服する者も少なからず出た。そのせいもあるのであろう、今回のクーデタ以後の

托鉢用の鉢をさかさまにかざして、布施の受け取りを拒否する意思を表示する。イラワジ

抵抗運動における特徴は、若い仏教僧侶層の動きがやや鈍いということである。しかしようやくではあるが、今回の「春の革命」の激戦地であったザガイン管区ミャイン郡区の僧侶たちが、この6月「伏せ鉢」運動を開始した。上座部仏教においては、喜捨行為は信徒が功徳を積む行為として大変奨励されている。したがって托鉢僧に毎朝食事を提供する行為は、恵んであげる行為ではなく、信徒にとって功徳を積ませてもらっているという恩寵の意味を持つ。したがって僧侶から食事を受けることを拒否されることは、功徳を積む機会の喪失として、信徒にとって恐ろしい罰と受け止められるのだ。この「伏せ鉢」、パーリ語で「パッタニックジャナ」として知られる僧侶によるボイコットには、施しの拒否から始まって葬儀や結婚式などの宗教儀式を執り行なうことも拒否される。つまり人々がこの世に生きる意味を剥奪され、地獄に落ちるに等しいことなのである。この「伏せ鉢」行為を、軍人とその家族に対して行使することで、彼らを精神的なパニックに追い込むことになるのである。

<売国への道/中国・ロシアにすがりつく独裁者>
 ラショー陥落に慌てたのは、国軍中枢だけでなく習近平の中国であろう。この8月、中国アジア問題特使と王毅外相が立て続けにネピドーを訪問し、ミンアウンフライン総司令官と会談している。王毅外相に至っては、かつての独裁者であり、91歳にもなるタンシュエとも会談を行なっている。それだけミンアウンフラインの統治能力に不安を感じているのであろう。
 
王毅外相は、13年前に引退したタンシュエとなにを話し合ったのであろうか。バンドン会議の周恩来とつい比較してしまう。国富んで、浅ましさの増した国の現状を周はどう見るだろうか。 イラワジ

 会談内容は、およそ察しが付く。王毅外相は、中国と国境を接するシャン州の安全保障と総選挙実施の見通しについて、新旧の国軍幹部から手ごたえを得たかったのである。他方、ミャンマーの軍事政権は権力の維持に不安を感じ、中国に内戦への介入―北部同盟の攻勢を阻止すること―を遠まわしに要請したのであろう。国家主権の守護者が売りだった軍事政権は、いまや自らの延命のために、中国に国を売り渡そうとしている。彼らの大義名分はこうである。ミャンマーの民主派勢力なるものは、実はテロリスト集団にすぎず、したがって今行われている戦闘は内戦ではない。国際的なテロ組織の蛮行に対抗するため、われわれが中国やロシアと国際連帯を組んで戦うことになんら後ろ暗いところはない云々。中国側の狙いも透けて見える。国境地帯での紛争を早急に鎮静化させ、中国の巨大開発プロジェクトを推進すること。経済状況の悪化している今こそ、懸案のプロジェクトを進捗させて経済成長を取り戻して民意を調達し、共産党政権の正当性/正統性を確保しなければならない。しかしそこまでは理解できるとしても、ミャンマー国民のほぼ99%が敵対感情を抱いているであろう軍事独裁政権にテコ入れするとは、なんと近視眼的で見る目のなさであろうか。しかも軍事政権の命脈はどうみても尽きかけているのにである。毛沢東は、鄧小平のプラグマティズムを嫌って、有能だが社会主義が分かっていないやつと評したが、改革開放の成功の果てに、いやその行き詰まりが露呈しつつある今日、権威主義的締め付けで矛盾を乗り切ろうとしている。ロシア、北朝鮮、ベラルーシ、ミャンマーなどとは、理屈抜きに波長が合い安心感を感じるのであろう。しかしそうした中国に対し、世論調査では国民の圧倒的多数(華人も含め)が嫌悪感を示している。
<抵抗勢力は権力奪取に成功し、統一政権を樹立できるのか>
 アウンサンスーチーの唱える非暴力抵抗運動から武装抵抗運動への転換を促したのは、平和的な民衆デモに対する武装警察の残虐な弾圧であった。この転換を主導したのは、Z世代と呼ばれる20歳前後の青年たちであった。彼らは物心つくときから、疑似文民政府のもと、おずおずと中途半端ではあれ、改革開放の自由と民主主義の空気の中で育ってきた。それは半世紀以上にわたる軍事独裁のなかで苦しんできた諸世代の知らなかった、政治的勇気、精神的伸びやかさや公共的なマインドと言っていい。彼らは自分たちの抗議行動が武力で鎮圧された時、軍事政権を倒すには武装闘争以外にないという見事な見切りをして、武闘訓練を受けるために国境地帯に広がるジャングルに向かって行った。どこかに指導部があって、それの指示命令でそうしたのではなかった。SNSを駆使して何千人という青年男女が、少数民族武装組織の根拠地へと吸い込まれていった。1988年の国民的動乱の際にも、同じように学生たちがジャングルに逃れ武装闘争に走ったが、ジャングルの過酷な生活や仲間割れのため、むなしく敗北していった。
 それでは今回の場合、どこがちがうのか。まずはSNSの存在。1988年のときには存在しなかった双方向の通信手段を若者たちは駆使することができた。これによってかつてであれば、巨大な組織がなければ可能でなかったことができるようになっていた。さらに武装警察が衆人環視の中で若者たちの平和デモに発砲し、女性が殺されたことの衝撃が大きかったのではないか。自ら武装する以外に実弾に立ち向かうすべはない、若者一人一人が自らの決断で、武装闘争を選択したのだ。しかもそれだけではない、都市の街頭で若者が撃ち殺される様を見て―これも多くはSNSによる―、少数民族の人々は、ビルマ族の若者たちは死を賭して圧政に立ち向かっていると、その本気度に心打たれたに違いない。ジャングルを志向するビルマ族の若者の集団的決断と、その決断を真正面から受け止め、武闘訓練に手を貸した少数民族との和解と統一がそこに生まれたのだ。アウンサン将軍が取り掛かったものの、アウンサンスーチーには必ずしも引き継がれなかったもの――民族と宗教の違いを乗り越え、共に手を取り合って軍事独裁体制を打倒し、連邦制の近代的な民主国家を築くこと、そのための民族統一戦線がいま形成されつつある。

ミャ・トゥエト・トゥエト・カインさん(20歳)は、2021年2月9日にネピドーで行われたクーデタ反対デモの最中に頭を撃たれ、10日後に負傷により死亡。2021年2月以来の闘争である「春の革命」で治安部隊に殺害された最初の犠牲者となった。        イラワジ

2021年3月3日、マンダレーで行われた反体制デモに対する治安部隊の弾圧中の19歳のカヤル・シンさん。弾圧中に頭を撃たれた後のカヤル・シンさん。彼女は同日死亡した。   イラワジ

 しかしそれにしても、民主派抵抗勢力が、武装闘争にかんして直接的な 外部からの支援なしで、ほぼ自力で戦果を積み重ねてきたことに驚きを禁じ得ない。まさに竹やりなどの自家製武器から始まって、徐々に武器や戦術を急速にレベルアップさせてきた。それが可能だったのは、SNSを通じての情報交換があったればこそである。確たる知見があるわけではないが、ミャンマーの農村は昔の日本など違ってその凝集性が低いと思われる(※高橋昭雄「ミャンマーの体制転換と農村の社会経済史」2021年)。村の中心は地主などではなく―そもそもネウイン社会主義のせいで大土地所有者は存在しないー、文化精神的には仏教僧侶であり、経済的には(よそ者的)華僑であろう。したがって村の名望家を中心に、いざとなれば村全体がまとまって行動する構造を有していない。
 にもかかわらず、2/1クーデタ後に農村の大規模抵抗運動の策源地となったのは、最もビルマ的で仏教的といわれる北ビルマのザガイン管区の農村であった。この地域はアウンサンスーチーとNLDの牙城といわれたが、そこが非暴力の抵抗運動から武装抵抗運動へいち早く転換したのである。クーデタ当初は国軍も力があったので、ザガインの農村は徹底的な破壊と殺戮の犠牲になった。しかし注目すべきは、多大な犠牲を払いながら、抵抗運動が強力な地域では国軍官僚を放逐して、村機構の自主管理を始めたことであった。情報が乏しいので、現在ザガイン管区の状況がどうなっているのか不明であるが、万一国軍の暴力機構がなくなっても、民主化勢力は立派に地方統治できることを示しているのではなかろうか。
――ヤンゴンでは私は日本人の商工会議所の役員をしていたが、そのとき少なくない商社マンや研究者が、農民の民度からいって国軍が統治の中心にいなければ、ミャンマー社会は分解してしまうというのをよく聞いた。私は反発しながらも、それを反証するだけの材料を持ち合わせず悔しい思いをしたことを憶えている。
 さて、抵抗勢力が内戦に勝利する可能性が、50%ほど見えてきたのではないか。軍事的にみれば、国軍の制空権を打ち崩す高性能の武器が必要とみえるが、それは絶対的に必要とまでは言えないだろう。政治との関係で、人民防衛軍(PDF)と諸少数民族武装勢力との軍事的な連携がどこまで進むか。その軍事的連携を通じて相互信頼を醸成して行くことが重要である。中国が決定的な影響力を有するワ州連合軍などのシャン州を拠点に措く諸武装勢力との関係は、難問である。ただ民族統一戦線が進展して統一政府の基盤が固まれば、態度の変化も十分あり得るであろう。中国政府のプラグマティズムに付け入る余地も出てくるかもしれない。
 政府構想については、すでにその骨格は2021年3月の連邦民主憲章(FDC)の制定と国民統一諮問評議会の設立、そして国民統一政府(NUG)の創設で基礎がおかれている。要は、評議会参加者を拡大し、各論について議論を進めて、具体化を図ることであろう。中国政府はもちろん、アセアン諸国や西側諸国からより多くの支援を引き出し、外交的きずなの強化にも乗り出すべきである。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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