ミャンマー、迫真のルポルタージュ(3)

著者: 野上俊明 のがみとしあき : ちきゅう座会員
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―「日刊べリタ」に連載中の現地ルポルタージュを、引き続き編集部の許可を得て転載する。

「史上最悪のリーダー」はいかにして生まれたのか ミャンマー最前線からのレポート(5) DM生

 独裁者ミンアウンフラインについてミャンマー国民の大多数が「史上最悪のリーダー」「極悪非道の人物」という表現をする。悪名高かった前独裁者タンシュエの何倍も悪辣だという声もよく聞いた。筆者はここ四半世紀にわたって断続的ではあるがそれなりにビルマ/ミャンマー国軍をウオッチングしてきた経験から、ミンアウンフラインの登場と独裁者への道、現在の孤立について書いてみたい。 
▽独裁者が育てた「無能な」独裁者
 ミンアウンフラインがタンシュエの目に止まったのは2007─08年、民主化要求運動が高揚し国軍が容赦ない弾圧を強行した時期である。当時タンシュエは国軍司令官(上級大将)として全権を掌握していた。だが軍部には面従腹背の高官、批判的な軍管区司令官も相当数いた。
 2007年9月27日にヤンゴンの僧侶と市民の反軍政デモを取材していた長井健司カメラマンを殺害した軍兵士は、ヤンゴン軍管区所属ではなく地方から急遽駆り出された兵士であり軍靴も履いていない。当時ヤンゴンを含む軍管区司令官があの大弾圧に消極的、批判的であり、タンシュエの命令にすぐには従わなかったのである。
 とりわけ仏教僧侶を拘束し僧衣をはぎとり「お前はもう一般人だ」と言って逮捕、拷問するやり方には批判が集まった。そのなかで真っ先にタンシエの命令に従って僧侶弾圧を実施したのがミンアウンフライン(当時佐官)だった。
 ブルドッグのあだ名を持つタンシュエは、23歳も下のミンアウンフラインを引きたて軍史上例のないスピードで階級を特進させ役割を与えた。大佐―准将―少将―中将―大将―上級大将と毎年昇格させたのだ。
 タンシュエは軍人としての実績はさほど秀でたものはない。だが心理作戦分野の将校の経歴が示すように「人事は巧み」との定評があった。2007─08年の後で実施された軍人事で、自分に批判的な幹部を昇進、ある場合には二階級特進させ国軍をまとめてみせた。そして2008年には軍の特別の地位を保証する憲法を制定、2010年にはアウンサンスーチーの率いる国民民主連盟(NLD)抜きの選挙で確固とした軍主導体制を確立し、タンシュエは引退した。
 軍のナンバー2とナンバー3の実力者を道連れで引退させた彼は、ナンバー4のテインセインを大統領、子飼いのミンアウンフラインを軍統率に当たらせた。78歳になっても「院政」に意欲満々だった筈である。
 ところが、人事の軍神はしくじった。テインセイン大統領は国内外の予想に反して民主改革を断行していった。利権にはかかわらず、従って財に執着のないテインセインは、軍の職務に忠実であったように憲法で規定された大統領権限と職務にも忠実な人物だったのだ。
 それから13年経ち、91歳になろうとするタンシュエは子飼いのミンアウンフラインに「失望」しているという。独裁者が育てた独裁者は「鬼っ子」で無能だったと。

▽大統領への野望くじかれクーデター
 2021年2月にクーデターを起こすとき、国軍司令官ミンアウンフラインの最大の動機はどこにあったのだろうか。アウンサンスーチー政権によって軍の権益が縮小され危機感を抱いたという説や、スーチーが政府と軍の会議を一向に開かず軍はメンツをなくし怒ったという説もあった。
 だが筆者はそれらは本質を衝いていると思わない。ミンアウンフラインの大統領への道が完全に塞がれてしまった、このことが一番の要因だといえるのではないか。
 ビルマ/ミャンマー国軍の確固とした自己規定は「政治の指導組織である」ということであり、それを体現するシステムは軍人=国家元首つまり大統領(2008年憲法は事実上そのことを定めた)なのである。ミンアウンフラインは2015年選挙で25%以上の国会議員は親軍政党から出せると確信し、国軍指名の議員25%と併せ過半数を占めて自分が大統領に選出されると楽観していた。それがNLDの圧勝によって無残にも破綻したので「選挙に大量の不正があった」としてクーデターを決意したのである。
 ビルマ/ミャンマーは歴史的に三つの成文憲法を有する。最初の憲法は1947年「ビルマ連邦憲法」― 1962年ネウイン将軍のクーデターで廃止。二つ目は1974年「ビルマ連邦社会主義共和国憲法」― 1988年のクーデターで停止。そして三つ目が2008年「ミャンマー連邦共和国憲法」である。
 二回にわたる無憲法の時代(1962─1974年及び1988─2008 年)の計32年間は軍政にとっても統治しにくい長い年月であった。国内政治と国際関係を進める上でも憲法をもたない国はいかにも非法治国家、後進国の印象を与える。そして国の安定の要は「国軍が国家の指導組織であることを憲法に定めることだ」との総括に至った。国軍の悲願といってもいいだろう。
 2008年憲法によって選ばれた大統領のテインセインはその最上の原則をないがしろにして一般国民、平民に妥協しすぎた、とミンアウンフラインは見た。NDL政権の5年間でアウンサンスーチー支持の熱気もさめたし、事前の票読みで親軍政党が30%の支持を割ることはあり得ないと判断した。自分が大統領に選ばれたら「軍が国の指導組織」との大命題を公的に体現する史上初の栄誉に浴する。それが水泡に帰した時のとまどい、落胆、焦りと動揺を当時のミンアウンフラインの言動から読み取るのはそう難しくない。
 クーデターを敢行するにあたり、ミンアウンフラインはタンシュエはじめ軍の先輩の実力者、有力なクローニー(政商)等には決意を伝え、支持を得ようとし重大な約束をしたに違いない。治安の確保、経済活動の安定、利権の維持などである。
 だが三年たってどれ一つとして実現していない。それどころかすべてに八方塞がりとなっている。強面の行動とは裏腹に実は針のむしろにあり安眠できぬ日々なのではあるまいか。
                          (つづく)

スマホと銃、反国軍武装闘争で躍動する「Z世代」 ミャンマー最前線からのレポート(6) DM生
 西部チン州の山岳地帯と平野部のマグウエイ管区での取材で筆者は、各地の反国軍武装勢力間の相互連絡や協力態勢に注目した。目にしたのは民主派の国民統一政府(NUG)との提携も進み、国軍を「戦略的防御」に追い込んでいく光景である。それとこの共闘推進に、クーデター後の市民不服従運動(CDM)に参加したZ世代の若者が欠かせない役割を果たしている姿である。最新の通信技術と武器を駆使して躍動する彼らに出会った。
▽「文民統制」めざし新たな行政機構が始動
 2021年2月のクーデター後に反国軍武装闘争が開始されてから間もなくして、国軍、警察及び関係者に対する「報復」「行き過ぎた攻撃」、ある場合には「私刑」「虐殺」も行われ「内ゲバ」も発生したと伝えられた。もともと暴力行為全てに拒否反応がつよい日本国民のなかですっかりミャンマー民主化闘争への支援は途絶してしまった。
 現在ではその問題が解決しつつあるのか、それとも深刻化しているのか筆者は現地で確認したいと思っていた。結論からいえば、相当程度その行き過ぎは是正され、自制が利いて理性的な対応がひろがっていた。
 クーデター後最初に武装闘争を開始したCDF Mindat (Chinland Defense Forces)ミンダット地区では、新たな行政機構をつくり警察、法廷制度を村人の意見を聞きながら創設し、コメ生産、野菜栽培、家畜、石油ガソリン、バイク、車両、教育、幼児、病院等など細かい部門を担当する委員を決めていた。
 その部門のひとつに軍事があり、将来的には「文民統制」を実現しようとの意図が感じられた。村から国軍に加わる、あるいは援助する人がいても「制裁」行動は禁じられ、話し合いと説得で解決していこうとしている。
 そのCDF組織にYDF(Yaw Defense Forces)のメンバーが訪問して談笑しているのを目撃した。彼はマグウエイ管区のYDF本拠地から7時間バイクを走らせて来たといい自動小銃を携行している。カメラを向けると上気しながら説明してくれた。
 「Yaw族は主にチン州の山からマグウエイの平野部にかけて住む少数民族なのですが、稲作、上座部仏教、風俗習慣などほとんど全てビルマ族と同一なのです。なんで我々が少数民族とされているのか分からないくらいです」「現在では500名の戦闘員を擁し、8割のYaw民族から支持されています」
 交渉の結果CDF, YDFの戦闘員が筆者の警備兼案内役を務めて、古い四輪駆動車でマグウエイ管区まで連れていってくれることになった。
 7時間近く走らせ5か所のCDF、YDFの検問を抜けマグウエイ管区に入り、平野部の各町村のPDF(国民防衛隊)の検問所約十か所を通った。どの検問所にも武装したPDFが駐屯し道路を行き来するバイク、車両、通行人をチェックしている。薄暗くなっても目立つ武装車両、所属組織のバッチや肩章を確かめると、そのまま通行許可してくれ不審や警戒の姿勢はなかった。各武装組織の相互連絡や協力態勢がかなり整ってきたことを伺わせた。
 チン州と接したザカイン管区の要衝タイゲーン攻略作戦には四つの武装組織が合同作戦を展開し、国軍は敗走した。国軍は空から報復の砲爆撃でタイゲーン市を廃墟にしてしまった。
 武装勢力間の対立抗争に関する話は聞かなくなっている。もちろん完全に火種が消えたとはいえないだろう。チン州のなかでもCAN(Chin National Army)チン民族軍とCDFとの確執はまだある。創設1988年のCANと政治組織CNF(Chin National Front)はチン民族を代表する組織としてCDFを傘下に収めたい。一方CDFは、クーデター後真っ先に決起し大きな成果を挙げてきたし行政面でも先進をゆく自負があるし、「CANは国軍との和平を追求するなど優柔不断だった」とみる。
 この種の国軍と戦闘するか和平を重視するかの路線上の相違は多くの少数民族武装組織のなかにもある。あるいはあったと言ったほうがよさそうだ。
 クーデター以降は国軍に妥協せず戦闘で活路をきりひらくとの潮流が支配的となった。カレン族の武装組織の例はその典型だろう。1949年以来の「世界最長の内戦歴」をもつKNU(カレン民族同盟)とその軍事部門KNLAは国軍との和平協定を破棄して国軍との戦闘を強化した。また長年「国軍の別動隊」だったDKBA (民主カレン仏教徒軍) は昨年8月国軍から離れ、KNUと共同歩調をとることを決めた。そしてこの数か月連戦連敗の国軍がDKBAにソーウイン准上級大将(国軍ナンバー2)を派遣して「国軍側に戻ってくれ」と説得したが、失敗に終わった。(イラワジ紙2024.1.25)
 こうして少数民族武装組織がこぞって反国軍の戦線を築いたことは都市部、平野部のPDFを大いに鼓舞し、この間進めてきた各種の矛盾と部分対立を解消する取り組みに力を与えている。
▽「やむなき抵抗」から「勝ち戦」へ
 2021年まではこの種の矛盾も伝えられた。国軍の弾圧に抗しようと、まずは少数民族武装勢力の地域に保護を求め武装訓練を受ける都市部の若者が増えた。訓練を終えた彼らは、武装闘争に加わるため地元に帰りたいだが武器が無い。「面倒」をみた武装組織は「いま帰っても力にならないだろう。武器を与えるからここで我々の戦力になってくれ」とリクルート工作がなされる。
 その反対の例もあった。NUGはPDFを立ち上げたが圧倒的に経験ある戦士がいない。そこで少数民族兵士をリクルートしようとする。「三年契約で働いてくれないか」「三年は長すぎる、一年でどうだ」「給料や待遇はどうなるのか」こうしたやりとりもあった。国軍からの手あたり次第の武力弾圧が広まるにつれ、各地に自発的な反国軍の武装集団がつくられた。「NUGは掛け声だけ、当てにならない」との不満はひろがった。この時期は確かに軍警関係者への「報復行為」はあった。
 筆者はその時期にヤンゴンの工科大出身者らからなる「銃器製造秘密工場」をタイ・ミャンマー国境で取材したことがある。米国から支援にきた若者が中心となり、ミャンマーのエンジニア志望の青年らが昼夜製造作業に取り組んでいた。その中心メンバーの父親は国軍将校だった。父親は薄々気づいているだろうが、息子のことが明るみに出るとクビになるか逮捕されかねないと黙ってくれているという。それにしても、やむにやまれぬ気持ちは分かるが「絶望的な抵抗」のように感じたのも確かだ。
 それから二年余、事態は大きく変わった。びっくりするほど多くの場所で銃器、兵器の製造がおこなわれているのを知った。Siyinの民兵組織の指揮官は「我々は既にロケット砲の実射訓練を終え戦闘に使用できるところまできた」と語った。
 「負け戦」覚悟のやむなき抵抗ではなく、「勝ち戦」が見えてきたというのだ。
 その推進力をZ世代が担っていることを各地、各場面で目撃した。CDM(市民不服従運動)や国軍の弾圧への抵抗の時期に十代二十代の青年層がSNSやスマホの撮影機能をつかい運動を組織化していったのは良く知られている。その延長で武装闘争、反軍民主勢力同士の連絡、協力、共闘の活動においてもアンテナとなりコーディネーターとなって活躍している。スマホと銃を自由に扱うZ世代に国軍は頭を抱えているにちがいない。
 他の勢力メンバーともすぐに仲良くなりシグナル(Signal)はじめ安全度が高いとされるアプリを使い(ミャンマーでラインを使用する人は少ない)情報交換もメッセージだけでなく映像を送り合う。必要とあらば、武装組織間の連絡を取り持ち共闘を実現させていく。その行動力には目をみはるものがある。
 チン州の山岳地帯の村でも通信タワーがそびえているのを目にすることがあった。インターネット機能を駆使する反軍若者世代に大苦戦しているのに何故国軍はその通信ネットワークをつぶさないのだろう、筆者の素朴な疑問に対して彼らはあっけらかんと答えた。「軍は金欠状態、スマホビジネスの収益は絶対失いたくない筈だ」
 国軍を「戦略的防御」に追い込んだいまZ世代はよりのびのびと動き回っているのである。明らかな事実は、CDMに加わったその世代が、とりわけ先進的な役割を果たした若者の圧倒的部分が武装闘争断固支持となっているということである。
 われわれ三名の取材班の移動に多い時には6台のバイクが使われた。そのドライバーの一人は元ツアーガイドだった。実家がバイク修理屋をやっていたが彼はその技術がないので「外国人のツアーガイドとしてバイクで山々を案内して回った」。そしてクーデター後はすぐにCDMのデモに参加した。熱心に参加し腕に Spring Revolution(春の革命) と入れ墨まで入れた。が、警察にそれを見られたら捕まると思い、それならいっそ武装闘争を支援しようと決心したと語った。
 現在彼はCDF Mindat の情報収集、運搬役となっている。元公務員だったバイクドライバーは「ミンダット市では何千人もCDMに合流したけど、その内90%は武装闘争に参加するか支持している」と答えた。
 筆者が目にした現実は、ミャンマー西部の山岳地帯とマグウエイ管区の一部である。だがザカイン管区、ラカイン管区、シャン州でも国軍は敗走を続けている。既に国土の優に6割は国軍支配が及ばなくなりつつある。
                       (つづく)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion13519:240130〕