ミャンマー/二重権力状況下の闘い―市民革命はつづく

<最新の動き>
 4/24アセアンの緊急サミットがインドネシア・ジャカルタで開催され、ミンアウンライン将軍から確約とまでいえないものの、市民抗議者への暴力停止、人道援助、アセアン特使派遣、関係者間の対話促進などで一応の了解をとりつけたもようです。しかし国際人権団体は、スーチー国家顧問をはじめとする約3300名の拘留者の即時釈放、課題遂行のタイムライン、約束に違反した場合の対抗措置などが盛り込まれておらず、依然として確かな見通しが得られていないと批判しています。なるほどそのことは十分認めるとして、しかしクーデタ政権がアセアンから明確な政権としての認知を受けられず―ミンアウンラインは政権首班ではなく、最高司令官の扱い―、不利な約束をさせられた点は、700名余の血の代償による成果であり、ここからまた次のより高次の闘いが始まるとみていいでしょう。軍事政権が約束を履行しなければ、それはそれで国内外の包囲網は狭まり、反クーデタ政府(NUG)にとって有利な局面が開かれる可能性が高まるからです。
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2.1国軍クーデタは、この国の変化のスピードを加速させた。愚かな国軍が、20年かけ苦心してつくり上げた2008年憲法体制をわれとわが手で破壊したため、誰もがもっと先の、経済発展が進んでからのことと予想していた市民的な民主革命の主体的条件が急速に成熟しつつある。国軍のクーデタに対し、若者たちや公務員たちが直ちに街頭行動や市民的不服従運動を組織し反撃を開始した結果、運動がただちに全国に波及し、ミャンマー社会に驚くべき地殻変動を呼び起こした。40万人以上の兵力を保持しつつ、中央―地方政府・官僚機構、経済社会に深く食い込んだ国軍支配との全面対決の引き金が引かれたのだ。
NLDらの民主派勢力はクーデタに対する備えをまったくしていなかったため、情勢の進展に取り残され、指導の空白による民主派勢力の瓦解を招く危険性があった。しかし1988年以来の苦い敗北の経験からであろう、自発的な学生・市民・農民の下からの運動の盛り上がりに呼応して、NLDを軸に直ちに新指導部(連邦議会代表委員CRPH)が創設された。それからほどなくして反クーデタ運動を集約し、4/16に軍事政権への対抗政府となる「国民統一政府NUG」を迅速かつ効果的に立ち上げた。すでに4月初め、新憲法草案ともいえる「連邦民主憲章」を練り上げ、全国民と国際社会に開示していたので、新政府の方向性は示されていた。
 クーデタから2か月余でここまで到達できたことに、ある意味驚きを禁じ得ない。おそらくは第一次スーチー政権の統治の在り方や施政の内容に対する潜在的な不満や批判が、民主派内部でも鬱積していたのではなかろうか。しかし直ちに政権批判を行なえば、ただでさえ脆弱な政権を背後から匕首で刺すことになりかねないという危惧から、多くの改革派人士は自重していたのであろう。暫定政府へまず馳せ参じたのが、それまでNLD政権とは距離を置いていた88決起の英雄であるミンコーナインであり、有力な少数民族諸組織もそれに続いたのである。「連邦民主憲章」は、第一次NLD政権の下であいまいになりかけていた民主的改革の目標とその担い手をきちんと定義しなおすという点に意義がある。それは過度に中央集権化された統治機構への批判を表す「集団的指導」、少数民族の政治的自決権、マイノリティへの配慮などの文言や記述に容易に見てとれる――元国連事務総長ウタントの孫にあたる著名な歴史家タンミンウ―氏によれば、ミャンマーの歴史において少数民族が初めて主要なエージェントとして登場したのだという。

4/16 ミンコーナインは地下から統一政府創設発表

 現時点では過大評価のおそれなしとはしないが、何より画期的なのは、運動が高揚するなかでミャンマーという国の宿痾であり、植民地支配の後遺症(トラウマ)といえる<民族、宗教、人種、地理による差別と分断>を乗り越えようとする機運が醸成されてきたことである。特にロヒンギャ族への迫害の共犯者に仏教徒ビルマ族がなっていたということへの反省の兆しがみえることである。70万人ものロヒンギャが難民となり国外脱出を生じさせた国軍のロヒンギャ村への掃討作戦が、いかに無慈悲で残酷なものであったのか、いま自分たちが街頭で同じ目に会ってみて理解できたのだ。そうなれば当然のこと、スーチー国家顧問が国際司法裁判所で国軍をかばって見せたことがどういうことであったのか、理解しえるであろう。いずれにせよ、国軍に対し勝利するためにはミャンマー国民内部の連帯と団結の進展が不可欠である。ミャンマーでは二人いれば三つの政党ができる―A党、B党、AB 党―と識者が自嘲的に譬える、おれがおれがの分裂癖を克服する絶好の機会なのだ。
 対抗政府といっても、いまのところは擬制に近くシンボリックなものであるが、しかし国民の本気度はそれにとどまることは許さない。「次世代のために命を懸けるのは価値ある行為だ」と、何のてらいもなく言ってのけるZ世代の若者たちがみなを牽引する。1988年のときは国軍の反革命クーデタによって一夜にして国民的決起はつぶされたが、今回は東西南北、都市でも農村でも、あらゆる階級階層の人々が運動に参加し、支持を広げている。そのことによって軍事政権との二重権力状況が生まれ、社会の深部で力比べが進行している。勝敗のカギをにぎる要素のひとつが国際的支援である以上、我々の責任も重い。


大激戦地となっているサガイン管区、有名な宝石のまちモコク。若い女性が多い AFP

若い女性たちがヤンゴン市内を自転車で示威行進。10年前は自転車もなかった。AFP

サガイン管区カニ―郡区での農民の決起集会          Myanmar Now 

軍事政権に抗議するサガイン州インマビン郡区の農民たち      Myanmar Now

半世紀の軍事政権下、最も搾取され抑圧された農民たちも立ち上がった。 Myanmar Now

<先進ジャーナリズムの見事な報道姿勢>
 クーデタ政権から新聞社の免許を剥奪されながら、ひるむことなく果敢に「違法な」報道を続ける地元のポータルサイト各社である。彼らは、国外の我々が知りたいと思うところを察知し(?)、現場突撃で生のニュースを届けてくれる。日本の大手紙のように行き届いた編集で、小ぎれいな間接報道とはちがって、ルポルタージュ特有の迫力を持つ。(欧米でも日本でも、新聞社・通信社は現地でレポーターと呼ばれる通信員を雇って、彼らに現場の取材をやってもらう。多くの場合、レポーターは親から子への世襲制だという。そのおかげで特派員は、意地悪な言い方をすれば、一流ホテルにいながらパソコンで仕事ができるのである)
 その見事な例が、「Frontier Myanmar」紙の4/24の特集記事<We want democracy back: Despite hardships, Yangon’s urban poor vow to fight on>(「我々は、デモクラシーを取り戻したい」と、苦難があろうとも、ヤンゴンの都市貧民は闘い続けることを誓う)であった。簡略に紹介しよう。
 今回の反クーデタ運動が不当な政権簒奪への反作用にとどまらず、市民革命と呼んでもよい構造的な変革になっていることの証しは、都市のスラム住民が権力との攻防の最前線に立っていることである。500万都市ヤンゴンは、その衛星地区であるシュエピタ―区、ラインタヤー区、北オッカラッパ、南ダゴン区などに囲まれている。それらの地域には農村からの流民が徐々に住みつき、都市型スラムが自然発生的に形成されてきた。道路、上下水道など都市インフラもほとんど整備されておらず、衛生状態も劣悪である。のちに2000年代に入って工業団地が造成され、2011年の民政化以降は外資が進出してその勢いは加速した。スラムの住民のうち、若い女性たちは縫製工場に雇われ、若い男性たちはヤンゴン市の建築現場に吸収された。彼ら彼女らが、ヤンゴン市の労働者階級の主力を構成していった―女工さんたちは約70万人と言われていた。3月にラインタヤー工業団地の攻防戦で1日で50名もの死者を出したことから分かるように、ヤンゴンの労働者階級の居住区が国軍に対しもっとも勇敢に抵抗した。そのため軍事政権はこれらの地域に戒厳令を敷き、抵抗運動の中枢をつぶそうとしたのである。工業団地に隣接するスラムは、すでに昨年コロナ禍で2回の厳格な封鎖を経験して体力が落ちているところにクーデタに襲われたため、経済の落ち込みの被害の最も大きい地域となった。現在のところまでは、労働者階級のコミュニティは助け合って必死で抵抗運動を継続しようとしている。親たちは、民主主義のうちにしか子供たちの将来は望めない。子どもたちのためならどんな艱難辛苦もがまんするとして、抵抗運動に身を投じていくのだ。とはいえ、弱い子供たちや老人たちへの影響は避けられない。ドイツの新聞Tageszeitung4/23 によれば、仕事の中断と食糧の欠乏のため、5400万人の人口のうち、340万人は次の6か月でもはや十分に食べることができないであろうとする、世界食糧計画(WFP)の警告を伝えている。人道的見地からみて、食糧や医薬品など緊急の国際的な援助が必要であることは論をまたない。まずはアセアン諸国や東アジア諸国が、隗より始めよで直ちに軍事政権に圧力をかけながら援助を実行すべきであろう。

ヤンゴン郊外シュエピタ区のスラム街  Frontier Myanmar

ATMに並ぶ市民と、夜間ごみ箱をあさる女性。      AFP

 上記の工業団地が隣接するラインタヤ―地区は、土盛りもされてもいない湿原地帯にあるスラムであるが、その近くにはパンライン・ゴルフクラブという国際級の立派なゴルフ場がある。日本の企業マンや国際援助団体や国連の職員らもよく利用するのであるが、熱帯の気候下広大な芝生を青々と保つには潤沢な水撒きを必要としている。そのために隣接するスラム貧困層の確か1000~2000世帯分の水を毎日消費するという。もちろんスラム住民には水道施設などなく、雨水や天然のたまり水を利用する以外にないのである。多くの日本人は、このコントラストに全く気付かないでヤンゴン生活をエンジョイする。
<試論―市民革命という規定>
 私は「影の政府」CRPHが創立宣言をした頃から、2/1以降の反クーデタ運動を「市民革命」の始まりだと性格付けてきた。ブルジョアジー(市民階級)が不在の市民革命などありえない、そういう反論があることは百も承知だった。しかし役者がフルキャストでなくとも、芝居は成り立つのではないか、そういう思いで以下つたない持論を展開してみよう。
1. 市民革命における政治的な構造の変革という側面では、国軍のクーデタ権力を認めず、選挙に勝利したNLD政権の復活を目指す闘いが中心課題となる。しかしそれはクーデタ以前の状態にたんに復するというのではなく、市民革命の歴史的課題である国民国家の建設という線に沿って行われるべきものである。多民族国家において統一国家を打ち立てるためには、少数民族の政治的権利を平等に認める連邦制を採用すべきである。連邦民主国家の樹立というスローガンは、その意味で理にかなっている。
 そして文民統制の理念に基づき、国軍の権力行使は本来の安全保障と国防の任務に限定される。国軍の
支配下にある秘密警察は解体され、本来の市民警察の姿を取り戻す。
加えて政治的市民的自由、とくに言論の自由の実現が問題になる。第一次スーチー政権でもこの分野では民主派の人士が拘束・起訴されたりする後退局面すら見られたので、闘いの重要度は増していた。
2. 政治的のみならず社会革命の意味をもつ平等権として、民族・人種・宗教・地理による差別の解消をめざさなければならないし、そのために有効な措置を特別に講じなければならない。
3. 経済的な分野では、まずは土地改革であろう。ネウイン社会主義の下で、土地の所有権はもとより耕作権すら奪われて、農奴以下的な状態にあった農民の状況は、スーチー政権でも抜本的には改善されなかった。農地に対する農民の権利をあらためて定義しなおし、憲法において確定することは新政府の重大な任務である。新しい権利関係に立脚して、農村の近代化を推進する。そのためには農民(協同)組合への組織化を促し、農村のインフラ整備のために努めることが喫緊の課題である。
 国軍の経済支配を廃止するために、国軍傘下の巨大コングロマリットを文民政府のもとに接収し、公営化あるいは民営化を行なう。国軍系企業やクローニーが享受していた各種の経済的特権の廃止。国軍が保有する土地の国家への接収。それにしても腹立たしいのは、反クーデタ運動が全面展開されるようになってはじめて、ミャンマー経済の専門家や研究者が国軍の経済支配を言い出したことである。国際NGOが国軍と各国の官民との結びつきを暴露し始めて、ようやく経済改革に立ちはだかる国軍の存在を指摘しだしたのである。アジア経済研究所などの政府系シンクタンクは、その意味で罪は軽くない。国軍の経済支配のもつカントリー・リスクの過小評価によって、政府の援助事業も民間企業活動も大きなダメージを受けているのである。社会・経済分析も上からの視点だけでなく、庶民の日常生活に密着した微視的観点で行なうことの重要性に気づくべきであろう。後者に身を置いて日常を経験すれば、政治抑圧だけでなくどれほど国軍の経済支配がこの国を歪めているかが、人肌感覚で分かったであろう。
 以上、きわめて粗い分析であるが、市民革命は今進行中の闘いとは別軌道にあるものではなく。その極点にあるものであることが分かるであろう。労働者階級、農民階級、都市中産階級という市民革命の立役者は、不十分ながらも闘争過程に登場し、不退転の決意で闘い抜こうと決意しているのである。ミャンマーで暮らしてみての感想になるが、市民革命の任務は一言で言えば、「法の支配」の一社会全体への貫徹といえるであろう。それは市民社会の形成とそれによる国家の下からのコントロールと同義なのである。

<独房19年―青い囚人服のメッセージ>
 先日4月21日は、NLDの共同創立者で不屈の闘士であったウィンティン氏(1930~2014)の命日であった。氏は1988年9月の軍のクーデタの後、NLDの実質的な組織指導者として困難な状況のなか采配を振るった。しかし1989年に囚われ、2008年までほとんど独房で19年間耐え抜いた。すでに60歳になろうとする身での獄中生活で、拷問を受け歯のほとんどを失い、身体は深刻な病いに侵されながら、つねに知的な探求心旺盛で、獄中仲間に会うと何かニュースはないか、何か読むものはないかと必ず訊いたという。氏はおそらくビルマでマルクス主義の理論に触れて影響を受けた最後の世代であろう。長く続く軍政の体制側イデオローグたちの用語も、ほとんどはマルクス主義由来のものであったところをみると、一時は青年たちの多くがマルクス主義かぶれになっていたのであろう。しかしその信念を最後まで貫いたのは、ごくごく少数であり、ウィンティン氏はその一人であった。

ウィンティン氏は、スーチー女史に直言できる数少ない一人だった。イラワジ紙

 氏は2008年に出獄したが、すべてを失っていて、支持者たちが用意した小さな掘っ立て小屋で独居することになった。氏は生涯囚人服である青いシャツを身に着けていた。獄中に同志たちがまだ囚われている間は闘いは終わらないとして、ビルマ式「臥薪嘗胆」(がしんしょうたん)で青い服を通したのだ。また氏はスーチー女史の国軍との距離の取り方に批判的だった。スーチー女史があまりに和解にこだわり、国軍に妥協的すぎると、2013年4月にロイター通信の記者に語った。またNLDの党としての在り方も危惧していた。スーチー女史は、「民主主義に悪いと思われる方法で党員から尊敬されている」として、指導者と被指導者の権威主義的な関係にも注文を付けたのである。スーチー女史への畏敬の念が昂じて個人崇拝を思わせるふるまいが海外の支持者の間にもみられたが、日本も例外ではなかった。ミャンマーから戻った私の目にはそれはかつての左翼の誤りを再現しているようで不愉快だった。しかしともかくその気になれば、ウィンティン氏と話せる機会があったにもかかわらず、無知ゆえにそうしなかったことがいまなお悔やまれるのである。私は堕落しがちな自分に鞭打つべく、ウィンティン氏の写真を書棚に掲げている。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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