内容怪しげな放射線被曝に関する新刊書が,いわゆる[リベラル人士」執筆により発刊されたそうです。今回ご紹介申し上げる下記転送メールで批判されている新刊書とは下記です。
●Amazon.co.jp: 放射線被曝の理科・社会 児玉 一八, 清水 修二, 野口 邦和 本
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4780307430/jugem-22/ref=nosim
http://honto.jp/netstore/pd-book_26467376.html
下記メールにご紹介いただいたことが本当なら、全く驚きの新刊書です。私はまだ読んではいないので、100%間違いないと断定することは避けておきます。しかし、今回コメントをお送り下さった山田耕作さんや渡辺悦司さんは信頼の置ける方々だと思っていますから、読ましていただいた内容にショックを隠せないのが正直なところです。
著者3人のうち、児玉一八という人間のことは全く知りませんが、あとの福島大学の2人については3.11以降にある程度知りました。うち、野口邦和(元日大教授)の方は、実は3.11以前から、原子力の平和利用を主張していた人間で、3.11以降は、安斎育郎(元立命館大学教授)らとともに、放射線被曝について、その科学的実証的根拠に乏しい、いい加減な「楽観論」を広宣流布して回っている「困ったおじさん・おじいさん」というイメージを持っておりましたから、今回の著書についても、また、やってんだべ、という印象です。こういう人物が「日本科学者会議」の要人だ、というのはいかがなものかという感じもします。日本科学者会議には自浄力のようなものはないのでしょうか?
一方の清水修二福島大学教授(財政学)ですが、この人物はもともとは理系の人間ではありません。ですから、下記のようなテーマについて執筆をする場合には、放射線被曝(防護)対策や被ばく医療に関しては、今の政府や福島県がやっていることについて、批判的に、そのおかしさや至らなさ、あるいは「上から目線の乱暴さ」を社会論的に論じているのであれば問題はないと思いますが、そうではなくて、下記のように、はっきりと放射線ムラ、及びその代理店政府やその下請け自治体が今現在強引に進めていることを肯定し合理化・正当化する立場に立って、福島第1原発事故による放射能汚染や被ばくを懸念する人々を叩くための、しかもかなりレベルの低い内容の議論を情緒的に展開していることには、あきれるというほかありません。論じるスタンスがまさに真逆です。
清水修二福島大学教授(財政学)は、聞くところによれば、自称他称で「リベラルな(地方財政学)学者」だと聞いていました。しかし私は、彼が3.11事故後に福島大学の副学長をしていた時、その大学内での運営をめぐり、若手の革新的な准教授クラスの研究者からの様々な問題提起に対して、まともに対応できず、もっぱら逃げ回るか、権力的な手段を使って押さえつける方に回るか,あるいは傍観者的態度をとっていたか,いずれにせよ,きちんとした対応をとっていなかった様子がうかがえたことから、その「リベラル」看板に「疑問符」を付けてきました。年齢も定年間近となり、副学長の地位にまで上り詰めた人物なら、福島第1原発事故という未曽有の事故の後の大学運営は、文字通り「リベラル」であってしかるべきだったのでしょうが、彼はどうもそうではなかったようでした(かつての大学紛争時の「リベラル学者」に似ていますね)。
その後も,批判されてメンバーが交代した「福島県民健康調査検討委員会」に新たに委員として参画した後も,福島県の子どもたちの命と健康を放射能と被ばくから守るための積極的で抜本的な提案やイニシアティブは,彼からはほとんどなく,[リベラル委員」として期待されていた役割はほとんど果たしていないと言っていいでしょう(それどころか,検討委員会終了後の記者会見などで時折見せる彼の発言は,首をかしげたくなることも少なくありません)。ですから,今回の新刊書執筆で批判されていたとしても,清水修二の場合には「差もありなん」という印象です。
そして今、ここに至って、その「疑問符リベラル」は、はっきりと「似非リベラル」に色あせたというべきなのでしょうか(今回の新刊書を読んでいないので,100%間違いないとの断定はしないでおきます)。
化けの皮がはがれた2人、とでもいうべきなのかもしれませんが、しかし、そんな皮のはがれたグロテスクな生の姿は見たくないものです。辞めて、染めて、薄めて消えて、と、大阪じゃりんこ言葉で罵倒しておきましょう。
この新刊書は間もなく手に入れて目を通すとして(読みあわせ勉強会をやって、書かれていることを逐条的に徹底批判するのも面白いと思いますが)、これに関連してちょっと触れておきたいことは、この3人に限らず、日本の市民運動・社会運動をしている人の中には、脱原発=脱被ばく=被害者完全救済が「等価同値関係」にない人が少なくないことです。彼ら・彼女らは、たいていの場合,脱原発>脱被ばく>被害者完全救済の順で、尻つぼみになっていくのです。しかし,これははっきり申し上げて、ダメです。
(たとえば、少々なら被ばくしてもいい、というのなら、少々なら原発・核燃料施設もあってもいいことになりますし、過酷事故の前は被ばくはダメだけれど、事故後はかまわない、などというのはご都合主義です。医療被ばくや携帯電話の電磁波は危ないし、放射線照射食品も危ないが、原発事故による恒常的な低線量被曝(外部被曝・内部被曝)はやむを得ないし、飲食物の放射能汚染はほとんど調べなくても安全だと断言できる、というのも、全く訳が分かりません=つまり、単純に、社会の傾きのようなものに情緒的に流されているだけだと、私は思います)
そして、それを言い訳するご都合主義的な屁理屈が「フクシマの人たちに寄り添う」「フクシマの人たちとの絆を大切にする」です。私は、こういう言い訳の仕方、こういう言葉の使い方が大嫌いです。原発事故の被害者に寄り添うくらいなら、その被害者に代わって差し上げたらどうですか、少なくとも放射能が低減するまでの間でも、住むところを交代すればいいのです。自分たちは放射能の汚染の大したことのないところにいて、他方では「放射線管理区域指定基準」を超える猛烈な汚染地帯に居住を余儀なくされている人たち=その大半の理由は経済的なもの=つまり加害者・東京電力や事故責任者・国が被害者に対して賠償・補償・再建支援をまともにしないことの結果にすぎない、のこの理不尽な状態をそのままにしておいて、寄り添って、絆を、大切にする、というのです。冗談ではありません。それは、福島の被害者の方々に寄り添っているのではなく、放射能汚染に寄り添っている=いや、むしろ、今現在、原子力ムラ・放射線ムラが必死になって打ち立てようとしている(原発安全神話に代わる)放射能安全神話・被ばく安全神話・放射線安全神話に「寄り添っている」にすぎないのです。その欺瞞性たるや、噴飯ものだと思います。
なすべきことは、まず賠償・補償をきちんとさせて,被害者の方々の経済的な条件をきちんとさせる、そのうえで、「放射線管理区域指定基準」以上の地域の人たちは「強制退去」(もちろん万全の移住対策を用意した上の話ですが),ですし、それ以下の地域では、放射能や被ばくの危険性を十分に説明した上での「移住または徹底除染付居住継続の選択」を被害者の方々にしていただく、というものでなければなりません。寄り添うだの、絆だの、そんな耳触りのいい美辞麗句は後回しでいいのです。巧言令色鮮仁ですから。
この、なすべきことが、ほとんどなんにもなされないまま、被害者という一人一人の人間の命と健康、人格や人生や、幸福追求の権利や、その他さまざまな権利が踏みにじられている、その状態が3.11以降、ずーーーーーーーーーーーーーーと、続いているのです。なされていることは、放射線被曝など気にせずに、放射能汚染地帯に戻ってきて、住み続けろ、つべこべ言うな・心配するな、です。鼻血なんか、カンケーネー、と突き飛ばされているのです。何が、寄り添うですか!! いったいどんな絆ですか!!
表現力の乏しい私には、活字ではまだまだ書ききれませんが、こうした3.11以降の出鱈目八百と、重大かつ大量の人権侵害が、耐え難いほどに積みあがっている中での、今回のこの新刊書です。そして、それは、今上記で申し上げた、一般の人々を含む市民運動・社会運動の中にも存在している、私には看過できないほどに欺瞞的な「善意的情緒」のようなものと通底しているような気がしてならないのです。しかし、私は、そんなものでは、今私たちの目の前に立ちはだかる巨大な極悪権力としての原子力に対して、対抗することはできないだろう、打ち勝つこともできないだろうと思っているのです。
放射能と被ばくを断固として拒否し、汚染させた者たちは絶対に許さない、放射線被曝は差別と表裏一体であり、嘘八百・隠ぺい・矮小化・歪曲の塊のようなものであり、放射能汚染や原発過酷事故などと生物・生命の「共存」などあり得ない、人間の命と健康が何よりも大切にされなければならない、核と人類の共存などあり得ない、これが徹底されて初めて、原子力という「悪のくびき」から私たちは解放されるのだと思っています。
伊勢昭三のフォークソング「22才の別れ」のセリフ=「目の前にあった幸せにすがりついてしまった」は、原子力・核と放射能の世界では「幸せ」が続かないのです。すがり付いた先をよく見たら、それは「悪魔の施策=フクシマ・エートス」で、その足元の上から、国際原子力マフィアたちが薄笑いを浮かべて、にやにやと、大丈夫ですよ、などと微笑みかける、といったことになりかねません。
自分の体に、あるいは自分の周囲に、健康被害が出始めるかもしれない、そんな不安を持ち続けながら(私は使いたくない言葉ですが、恒常的な低線量被曝(内部被曝・外部被曝)による「確率的影響」下に入るとはそういうことです)、人間は幸せにはなれないし、万が一、被害が出たら、猛烈に後悔してしまうことになるのは必定だからです。そして、その確率度合=健康被害が出る割合・率は、どれほどなのか、原子力ムラ・放射線ムラの連中のために研究が妨害され続け、未だに定かなことはわかっておりません、というか、実証的に裏付けされておりません。万が一は,万が十かもしれませんし,万が百かもしれません。しかし、一定割合は、必ず被害が出ます。それが自分ではない、自分の家族ではない、という保障はどこにもないのです。
<追>
下記メールは非常にタイムリーに適切にこの新刊書をご紹介してくださっているとともに、端的ですぐれたコメントをも付してくださっているように思います。日々をつまらないことで忙殺されている無能な私のようなものにとって、このご紹介&コメントは、非常にありがたい感謝申し上げたいものです。ところで、その内容で、1か所、「5.福島原発事故により遺伝的障害は生じないという主張」のところには、コメントがありませんでした。書き出しますと、次のような短い文章です。
5.福島原発事故により遺伝的障害は生じないという主張
山下俊一氏や今中哲二氏ら「50人の専門家」による広島・長崎の被曝二世の調査結果では「親の放射線被曝の影響は確認されなかった」となっており、「50人の研究者が共謀して真実を隠蔽していると考えるような政治的ないし党派的な見方をしない限り、この調査結果の信憑性を否定すべき理由はありません。瞬間的に高い被曝線量を浴びた被曝者のケースにあってさえそうであるならば、長期間にわたって低線量放射線を被曝している福島の被災地ではなおさら、遺伝的障害を心配する根拠は希薄だと言うべきです」(134ページ)。
そこで私から、次の2点を、この遺伝的障害について申し上げておこうと思います。
(1)長崎の被曝2世の調査結果は、被ばく2世、長くても3世、までしか調査できておらず、また、その悉皆性や統計的な有意性も怪しいように思われます。日本社会に特有の遅れた状況=被ばく被害などを隠す、いじめにあう、などの社会的要因も十分に考慮されているのか、怪しいところが無きにしも非ずのような気もします。そもそも遺伝的障害については、3代目(孫世代)以降に出ることが多いと言われていますから、人間に関する限り、よくわからない、とすべきです。そして、寿命の短い動物実験では、遺伝的障害や、エピジェネティクス的な異常(ゲノム不安定性、バイスタンダー効果、ミニサテライト突然変異など)などが見られることから、人間においても放射線被曝による遺伝的障害は十分に考えられると思っておいた方がいいと思われます。
(2)上記では、高線量瞬間被ばく(原爆による外部被曝など)の方が恒常的な低線量被曝(外部被曝・内部被曝)よりも、健康被害は大きいのだ、という、いわゆる「線量・線量率効果係数(DDREF)」の議論にアプリオリに立脚し、それについて何の疑問も持っていないことが奇異に感じられます。国際放射線防護委員会(ICRP)によれば、DDREFは、何らの科学的実証的根拠も示されないままに「1/2」とされ、前者は後者の2倍の危険性(後者は前者の1/2の危険性)とされています。しかし、実際には、物事は逆、つまり、高線量瞬間被ばくよりも、恒常的な低線量被曝(外部被曝・内部被曝)の方が、常に放射線被曝環境下にあるという点で、より危険である、というのが本当ではないかと、昨今では言われるようになっています。いずれにせよ、無批判に国際放射線防護委員会(ICRP)のDDREF概念を使っていいことにはなりません。
以下、本文です(メール転送です)。
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児玉・清水・野口『放射線被曝の理科社会』について/検討の呼びかけ
皆さま
すでに田島様のメールで指摘されておりますが、児玉一八、清水修二、野口邦一著『放射線被曝の理科・社会 四年目の「福島の現実」』かもがわ出版(2014年12月刊行)について、以下の文書を作成いたしました。どうかご検討くださいますよう、お願い申し上げます。また広く拡散していただき、できるだけ多くの方々に、この本の危険性について、関心を喚起していただければ幸いです(PDFファイルを添付してあります)。
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児玉一八、清水修二、野口邦一著『放射線被曝の理科・社会 四年目の「福島の現実」』かもがわ出版(2014年12月刊行)について
山田耕作 渡辺悦司
2015年3月25日
私たちは、原発と被曝に反対して闘っておられる皆さまに、上記の書籍について最大限の注意を払うように呼びかけます。
この本は、福島原発事故の結果としてがん、鼻血、下痢、遺伝障害など「目に見える」健康被害は出ないと評価し、それに対して脱原発の側が被害を「誇大に言い立て」ていると主張し、さらにそのような「被害が大きければ大きいほどよい」という脱原発側の傾向こそが被害者の「不安をあおり」「多大なストレスを与え」て「放射線以上に」「福島の人々を苦しめている」とまで述べています。同書は、政治的性格が極めて強く、危険で深刻な内容を含んでおり、著者たちが真意をいかに説明しようとも、原発と原発事故によって生じた放射線被曝とくに低線量・内部被曝の危険性を指摘し訴える人々全体に対する、最も控えめに表現しても虚偽の言説によるいわれなき不当な攻撃であると言わざるをえません。現在、政府と原発推進勢力は、福島原発事故によって放出された放射性物質による健康被害を全面的に否定し、重大事故が生じて被曝しても何の被害も問題もない、健康影響が生じているとしても原発事故とは何の関連も確認できないと強弁し、将来の重大事故の発生をいわば前提にして、この夏から原発を次々再稼働し、もんじゅや核燃料サイクルさらには最終処分場建設や原発新増設も含めて、原発を強行的に推進しようとしています。このような切迫した情勢の下で、政府・原発推進勢力と真正面から闘うべきまさにその時に、このような本がしかも脱原発の内部から出版されたことは、衝撃であり、極めて遺憾であるのみならず、事態を深く憂慮せざるをえません。いま、脱原発を望み被曝の危険性に注目するすべての人々が、同書の内容を共同して検討し、批判し、それに反論する必要があると考えます。皆さまが、ぜひともこの点にご配慮いただくよう要請いたしたいと存じます。
同書の内容の簡単な紹介に入る前に、著者集団について言及しておきます。著者たちは、3名とも日本科学者会議原子力問題委員会の委員および委員長(代表)と記されています。そのうちの1人(清水氏)は「福島県民健康調査検討委員会」の「副座長」であり、他の1人(野口氏)は事故後に「福島大学客員教授」に就任するとともに「福島県本宮市放射能健康リスク管理アドバイザー」を務めているとされています。その意味で、同著者集団(少なくとも2人)は、被曝問題において基本的には行政側の当事者でありインサイダーでもある点を指摘しておきたいと思います。
同書の社会的・政治的性格(著書の題名によれば「社会」の側面)に関わる基本的主張の概略は以下のとおりです。煩雑にはなりますが、できるだけ原文を引用することにし、私たちのコメント([ ]内に記載)はできるだけ少なくします。科学的な(「理科」の側面の)検討は別項に譲ることといたします。
1.福島原発事故によってがんや病気が目に見えて増えることはないという主張
「福島原発事故では、放射線被曝による病気が生じるかどうかは『これからの問題』です」が「将来、被曝による病気が生じない可能性があると私は思っています」(6ページ)。「福島第一原発事故によって福島県民の皆さんがあびた放射線量と、そういった線量域で細胞の中で起こることをふまえると、放射線被曝によってがんになる人が目に見えて増えることはないだろうと私は考えています」(55ページ)。「私は福島原発事故に起因する放射線被曝によってがんになる人が目に見えて増えることはないだろうと考えています」(173ページ、この主張はそのほか176ページなど、何度も繰り返されている)。
[この点で同書は、国連科学委員会および日本政府の見解と同一である。これらはICRPの集団線量の概念さえも否定している。「目に見えて」という限定詞の具体的な意味は説明されていない。このことから、がんは、被曝によっては「目に見えないほどわずかに」増えるだけであって、現実にがんが「目に見えて大きく」増えた場合には、それは放射線被曝によるものではないとする回避的論理が示唆されているのかもしれない。]
2.福島原発事故の規模はチェルノブイリ事故に比較して極めて小さい(70分の1から数千分の1を示唆)という主張
同書は「国連科学委員会2013年報告書」を引用して「チェルノブイリ原発事故の大気放出量と比較すると、福島原発事故ではヨウ素131は10分の1、セシウム137は5分の1と推定されています。これから、福島原発事故ではチェルノブイリ原発事故の10分の1または5分の1の放射性物質の放射能が放出されたと考えるとすれば間違いであり、チェルノブイリ事故を著しく過小評価することになります。あるいは福島原発事故を著しく過大評価することになります」と述べる。具体的には、「ストロンチウム90はチェルノブイリ原発事故の70分の1、プルトニウムは数千分の1と推定されています」として、日本政府や国連科学委員会のようにセシウムとヨウ素を中心としたスケール(INES)ではなく、ストロンチウムやプルトニウムの放出量をベースにすべきであり、福島事故はチェルノブイリの70分の1から数千分の1の規模と評価すべきであると示唆している(73~74ページ)。「福島第一原発のごく近傍を除けば、ストロンチウム90沈着量は過去の大気圏内核実験のフォールアウト由来のストロンチウム90沈着量と大きな違いはなく問題にならないと考えてよいでしょう」(79ページ)。「福島原発事故によりプルトニウムが放出されたことは間違いのないことですが、その沈着量は同原発近傍であっても過去の大気圏核実験由来のプルトニウム沈着量と大きな違いはなく、すでに述べたストロンチウム90の場合と同様に決して問題になるものではありません」(81ページ、ほかに44ページも)。
[著者たちは、こうしてセシウム137・134の危険性を無視しており、セシウムによって促される心臓疾患の増加についても、とくに福島における心筋梗塞による死亡率の急速な上昇(日本で最高である)についても、まったく取り上げていない。また甲状腺がんの議論においても、ヨウ素131放出量(同書に引用されているデータによっても福島事故は最大でチェルノブイリの約3割になる)にまったく触れていない。福島の放出量を低く印象づけるために、恣意的に放出量の少ない核種を選んだ可能性が否定できない。しかも、プルトニウムとストロンチウムについても過去の核実験由来の残存沈着量と同程度の降下量が「問題になるものではない」というのだから、福島だけでなく核実験の残存放射能も「問題になるものはない」というのである。「問題になるものではない」という表現も曖昧であるが、結局、「被害が出ない」という意味付与をしているようである。著者たちは福島原発事故によって放出された放射性物質が全体として「問題になるものではない」すなわち「被害は出ない」と評価している、と考えざるをえない。また、汚染水中に流出した、あるいは海水中に直接流出した、放出量も無視されている。福島原発事故による放射性物質の放出量およびヨウ素131の放出量については、私たちの論文を参照いただきたい。
論文は http://blog.acsir.org/?eid=29、 http://blog.acsir.org/?eid=35 から見ることができる。]
3.内部被曝は問題にならないという主張
「内部被曝は、事故直後から食品の放射能監視体制を整備して検査にあたってきた日本ではほとんど問題になりません」(83ページ)。「福島県内といえども、避難指示地域を除く居住地域においては食品の摂取に起因する内部被曝は問題にならないといってよいのではないでしょうか」(123ページなど)。呼気による放射性微粒子の吸入についても、「ホットパーティクルによる(内部)被曝と発がんとの因果関係に否定的な結論が下されています」「ホットパーティクル説は疫学調査により否定されたと思います」(いずれも43ページ)。「粒子状であるから特段に危険になる理屈はないと思っています」(46ページ)。
[放射性微粒子とその健康影響の問題については、以下のサイトにある私たちの論文を参照のこと。http://blog.acsir.org/?eid=31 ]
4.福島の被曝量では鼻血は出ないという主張
「鼻血が出た人はいるだろうし、もしかしたら増えていたのかもしれません。問題は『被曝によって鼻血が出た』のかということです」(61ページ)。「どれくらいの放射線をあびると、血小板の減少にともなって鼻血が出るなどの症状がでるようになるのでしょうか。… 血小板がほとんどなくなるのは、かなり大量に放射線を浴びた時です。ど
のくらいの被曝かというと、2Sv(2000mSv)以上と言われています」(63ページ)。下痢については「7~10Svという大量被曝です」(68ページ)と述べた後に、「福島原発事故による被曝で鼻血も下痢も起こらないことは明らかです」(69ページ)。
[致死量に近いほど大量の放射線を浴びるのでなければ、鼻血も下痢も起こらないというのである。]
5.福島原発事故により遺伝的障害は生じないという主張
山下俊一氏や今中哲二氏ら「50人の専門家」による広島・長崎の被曝二世の調査結果では「親の放射線被曝の影響は確認されなかった」となっており、「50人の研究者が共謀して真実を隠蔽していると考えるような政治的ないし党派的な見方をしない限り、この調査結果の信憑性を否定すべき理由はありません。瞬間的に高い被曝線量を浴びた被曝者のケースにあってさえそうであるならば、長期間にわたって低線量放射線を被曝している福島の被災地ではなおさら、遺伝的障害を心配する根拠は希薄だと言うべきです」(134ページ)。
6.低線量の確率的影響は「分かっていない」、だから「分かっている」高線量の確定的影響だけを認めるべきだという主張
「高線量の放射線被曝が急性障害を引き起こすケースにあっては議論の生じる余地はほとんどありません。しかし低線量被曝の影響となると…なかなか見解の一致を見ることができません。…マスコミなどでは、この件(放射線の影響)については『分かっていない』という扱いにするのが一般的です。…ジャーナリズムで『分かっていない』という言葉が好んで使われる理由は、ひとつにはそう言っておけば何の責任も生じないからでしょう。もうひとつの理由は『分かっていない以上、リスクを大きく見込んで対処するのが正しい』という主張が、そこに成立するからだと思います」(8ページ)。「住民が迫られているのは、大きなマイナスと小さなマイナスとの(放射線被曝のリスクと住民避難にともなうリスクとの[どちらが大でどちらが小かははっきりしない])間の選択です。…そのときに頼みの専門家が『分かりません』では困るのです。『分かっていない』で済まされるんだったら世の中に学者なんかいりません。学者の仕事は『どこまで分かっていて、どこからが分かっていないか』を明瞭に示すことです」(9ページ)。「まだ分かっていなくて論争が続いているのは、低線量領域での確率的影響についてです。…すでに分かっていることまで無視して、『分かっていない』と片づけるのは、科学の冒涜であり、福島原発事故の被災者の不安を煽るものでしかありません」(69~70ページ)。
[この議論は、「(すべてが)分かっていない」とするジャーナリズムの見解を批判する形で展開されており、極めて曖昧で分かりにくいが、要するに、高線量被曝による確定的影響だけを「分かっている」として認め、低線量被曝による確率的影響は「分かっていない」のだから提起してはならない、それにもかかわらず低線量被曝による確率的影響を提起する者は、「分かっていないこと」をことさらに論じて「被害を誇大に言い立てている」のであるという主張であるようにしか読めない。また「予防原則」もこの議論の中でジャーナリズムの無責任な態度として「福島原発事故の被災者の不安を煽るもの」として否定されている。結局、被曝の問題はすべて、「分かっていない」低線量被曝を排して「分かっている」高線量被曝による確定的影響に還元すべきであるということになるのだが、さらに同書では、この「分かっていない」がいつの間にか「影響がない」ということにされる。文面では「閾値なし直線(LNT)モデル」を認めているが、実際には高線量と低線量の境界で「閾値」が設定されていることになる。また著者たちは、避難中に死亡した「関連死」と被曝との関連を認めておらず、それを主に避難にともなうストレスによって説明し、ジャーナリズムと脱原発派が低線量放射線の危険性を強調し住民の避難を求めていることも「関連死」の一因だと示唆している(159ページ)。]
7.福島でいま生じている小児甲状腺がんは放射線被曝に起因するものではないという主張、および被曝による小児甲状腺がんは事故後10年間は出ないという主張
「(小児甲状腺がんが)ベラルーシでは…小さな子供に集中して発症していることが見てとれます。…(これに対し)福島では5歳以下の患者は1人も出ていないのです。このことを持ってすれば、いま福島で見つかっている小児甲状腺がんは放射線被曝に起因するものではないと言ってまず間違いない、と私は判断します」(156ページ)。「被曝が原因で甲状腺がんが発症に至るまでに要する期間に関しては…平生からヨウ素の摂取量の多い日本人であればおよそ10年を要するということです」(157ページ)。「事故から10年後に、事故当時幼かった子供たちの甲状腺がんも当然ふえるでしょう。それが被曝の結果なのかそれとも無関係なのか…福島事故では被曝量が小さいぶん、その判断が難しくなるでしょう」(157ページ)「数千人の子どもが甲状腺がんになるということは、日本ではあり得ないと予想して差し支えないと思います」(158ページ)。
[著者たちによれば、小児甲状腺がんの潜伏期間は10年であるが、「10年後に」小児甲状腺がんが増えたとしても被曝が原因かどうかはおそらく判断できないだろうというのである。ちなみに、アメリカ疾病予防管理センターによると小児甲状腺がんの潜伏期間は1年である。この点についても私たちの放射性微粒子に関する論文を参照のこと。http://blog.acsir.org/?eid=31 同書が採用しているヨウ素131放出量とLNTモデルからは、同書の引用している放出量をベースにしても、チェルノブイリのおよそ2割から3割程度のがんが発生する可能性があることは容易に推測されるが、この点はまったく伏せられている。]
8.県民調査の信頼を落としたのはマスコミの罪だという主張
「(県民健康調査について)マスコミの批判の『罪』のほうは、専門家に対する信頼を回復不能なまでに失墜させてしまったことです。調査の内容や結果を冷静にどう見るかという以前に、調査そのものに対する不信感が、一種の先入観として社会に根を張ってしまいました」(152ページ)。「概して危険を重視するサイドにマスコミや世間の同情は集まり、リスクを甘受せざるを得ないと判断して生活しているサイドはまるで加害者であるかのような視線を浴びることさえあります」(185ページ)。
[県民調査の信頼が失墜したのは、あくまで放射線の影響を認めない「専門家」の方ではなく、マスコミが批判したことに責任があるというのである。]
9.被曝問題では原発賛成の人々の見解が科学的であるという主張
「(私たちは)原子力発電に対して明確に批判的な立場に立っている」(5ページなど)が、「健康被害の有無・大小の問題は、原発の是非の問題とは切り離して客観的・科学的に論じなければならない」と言う。「私(同書著者)自身ははっきりと原発には反対の立場なわけですが、放射線の問題については、原発賛成の立場の人とも科学的な見解を共有することがあっても何ら問題ないと考えています」(177ページ)。
[これも曖昧である。この表現は、原発賛成の立場の人の主張にも「科学的な見解」が一面的あるいは断片的にではあれ含まれている場合がありうるという内容とも解されるが、そのような自明の理をわざわざ一般的に確認しているだけであるとは考えられない。また、「原発賛成の立場の人」には、当然、安倍首相も自民・公明政権も経産省も環境省も電力会社や原発メーカーも含まれることになる。したがって、著者の述べている通りだとすると、放射線被曝の問題については、著者たちが「見解を共有」しているのは、安倍政権と原発推進勢力とであり、政府と原発推進勢力の見解こそが「科学的」であると認めて「何ら問題ない」と考えていることになる。また次に見るように、実際に、国連科学委員会の健康被害は「ない」という福島事故評価(したがって日本政府の評価)を高く評価している。]
10.脱原発派が、被害が「なかった」と言ってほしいと願う被害者の「心情」からかけ離れ、放射線被曝の影響を「誇大に言い立てている」という主張
「原発の再稼働に反対しそこからの撤退を求める人たちの中に、放射線被曝の影響を誇大に言い立てる傾向が顕著です。…それ(こうした傾向)は被害者の心情からかけ離れています。低レベル放射能の汚染地域に多くの人々が現に居住しています。それらの人々は、放射線の健康被害については『なかった』という形で決着することを心から願っています。それは当たり前のことです。ですから、たとえば世界保健機関(WHO)や国連科学委員会(UNSCEAR)が福島事故の放射線影響に関して比較的楽観的な観測をしているといった報道は、福島に居住している多くの人々にとって朗報です」(7ページ)。「国連(科学委員会)イコール推進派という政治主義的な公式だけで一刀両断にするような行為は正しくありません。あまりそうい!
うことばかり言っていると『反原発派は福島の被害が大きいことを望んでいるのか』と被害者の反発を買うのは必至です」(7ページ)。「脱原発を実現するために放射能被害は大きくなければならないという歪んだ発想を、捨てるべきだということです。そのことをはっきりしない限り、『反原発』はいつまでたっても被災者の心からの支持を得られないでしょう」(136ページ)。「原発に賛成する人たちも反対する人たちも、同じテーブルについて肝を据えた議論を行う必要があると思います。このことを行う上で大きな壁になっているのが、(反原発の人々にある)「『放射線影響が大きければ大きいほど脱原発にとって都合がいい』という心理です」(177ページ)。
[脱原発の立場に立つ人々は、福島事故による被害が「現実として」大きいということを主張しているのであって、決して「被害が大きいことを望んでいる」とか「被害が大きければ大きいほど都合がよい」と主張しているのではないことは明白である。著者たちの主張は、明らかに脱原発・反被曝の運動に対する虚偽の非難であり、誹謗中傷と言っても過言ではないであろう。他方では、著者たちは、願望と真実とを取り違え、真実であってほしいと願っていることを真実そのものと思い込みあるいは人々に思い込ませようとし、欺瞞と自己欺瞞に陥り、それによって真に責任を問われるべき東電・政府・原発推進勢力を免責し、賠償や裁判その他における被害者の真の利害に背反し、かえって被害者の素朴な心情をもてあそぶ結果をもたらしていると批判されても仕方がないであろう(135ページで著者たち自身がこれらの批判に直面していることを認めている)。]
11.福島の健康被害の主因が脱原発運動側にあるという主張
「いま福島の人々を苦しめているのは、事故による放射線そのものである以上に、放射能の影響に関する見方の差から生まれるさまざまな対立や摩擦です」(185ページ)。「チェルノブイリ事故にともなう健康被害や死亡の原因を、放射線被曝よりも『放射線への恐怖』に求める見解があります。放射線への恐怖が過度にあおられたせいで、あたら落とさなくてもいい命を落としたり、生活が荒れて病気になったりした人がいっぱいいるという『情報災害』への警告です。これがどの程度あたっているか明確には判断できませんが、福島の経験からしても、十分にあり得た話というべきでしょう」(159ページ)。
[すなわち、著者らは、「福島の経験」では、脱原発運動による反被曝の主張こそ被災者の健康被害や死亡の主因であるとする見解が「あたっている」というわけである。その通り読めば、福島事故による健康被害や死亡は、放射線被曝「よりも」、放射線被曝の危険性を指摘する人々が主要な原因であるという主張になっている。また上記の内容と合わせると、著者たちのいう「原発賛成の立場の人」には当然安倍首相も自民・公明政権も経産省も環境省も電力会社や原発メーカーも含まれるのであるから、放射線被曝の問題については、著者たちは、安倍政権と原発推進勢力と「見解を共有」し、それに基づいて健康被害の主因であるところの、脱原発の内部にある「放射線被曝の影響を誇大に言い立て」「放射線への恐怖を過度にあおる」傾向に対し、政府や原発推進勢力と共同して対抗するとしても「何ら問題がない」と読まれても仕方のない表現になっている点に、とくに読者の注意を喚起したい。しかし、このような虚偽の論理によっては、「美味しんぼ」批判の際にはっきり現れたような、著者たちと安倍政権との間の、「風評被害防止」を名目とする、脱原発運動とそれに近いジャーナリズムを攻撃するための協力関係を正当化することはできない。]
12.国民的議論の結論であれば原発推進の容認もあり得るという主張
同書は、「原発をどうするのか、…エネルギーや電力をどうするのか、国民が肝を据えて議論しなければならない」「原発に賛成する人も反対する人も、腹を割って真剣に議論して、もう十分にものは言った、だから結論は自分の最初の思いとは若干違っているかもしれないが、みんなで議論して決めたのだから最終的にはその結論を尊重する」「最終的に出た結論で手を握れる」(176ページ)と述べている。
[つまり自分たちは「原発に反対だ」と言いながら、条件によれば(つまり国民的な議論の結果原発推進が決まるならば)原発推進での協力もありうると示唆しているのである。]
以上が同書のざっと見た概略ですが、どうか原著にあたってご確認いただき、ご検討くださるようお願いいたします。
ただ、お読みになる際の注意点として、同書の記述上の特徴が、一貫して、概念を明確に規定せず、あいまいなままに議論し、自分の依拠する典拠をはっきり明示せず、さらに他者を批判する際には、自分が批判する対象の文章をそのまま引用せず、自分が少し極端化したり、ゆがめて紹介し、それを批判する傾向にあることなどに留意していただければよいかと思います。たとえば、概念の曖昧さについては「目に見えて増えることはない」「問題になるものではない」「分かっていない」などのところですでに述べました。典拠の不備の一例としては、何の典拠も示さずに「2ミクロンぐらいのセシウムボール」は「大部分が鼻腔粘膜にはほとんど付着することなく」したがって「鼻血が起こることはない」と断定している箇所(46ページ)があります。「鼻腔粘膜にはほとんど付着しない」という点は明らかに事実と異なります(私たちの放射性微粒子に関する前掲論文をご参照ください)。また、歪曲の例としては、内部被曝の強さが距離の2乗に反比例するという議論があります。著者らは、内部被曝を強調する人は「距離ゼロまでそれを用いて無限大の強度としている」と批判しています(41ページ)。しかし極限として例を示すとしても、誰も原子や細胞の大きさより小さい距離をまじめに議論することはないと思われるにもかかわらず、一面化して戯画化してみせるのです。
お読みいただきご検討いただければ、この本の持つ危険性はおのずと明らかになると思います。ご検討や議論の結果など、ぜひお知らせいただければ幸いです。
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〔opinion5265:150327〕