モノグラフ-異論なマルクス・・・・階級論の陥穽

物神性の陥穽(1)にそのまま続けて書こうかと思っていたが、直近の流れに竿を差してちょっと階級論に寄り道しよう。といってもこの問題も物神性論と根源は同じところにあるのだが。

 

マルクス『資本論』は基本的に古典派経済学、特にリカード体系を直接の先行者としているため、賃労働-資本家-土地所有者からなる三大階級論に基礎を置いているのだから、もうそこからして、現実の資本主義を構成している知識労働、管理労働、流通労働などなどに関して適切な扱いを行うことが初めから阻止されてしまっている。階級関係の分析とそこから体制変革の主体の摘出を最大の課題とするマルクスの理論体系は最初から、そのコア理論ともいえる領域に致命的ともいえる欠陥を抱えていたのである。

 

今日においても階級論をマルクスの理説に従いながら体制変革を目指そうとする大きな流れは脈々と息づいているのだが、そうではありながら変革の主体をどこに見出すべきなのかという根本的で切実な問いに対する的確な答えをそこから汲みだすことが出来ず、資本主義の危機の拡大深化に対しての文字通りの階級的な反撃が要請されているまさにその瞬間に、戦略的な対応が出来ずに混迷ばかりが生まれてきてしまうことになる。

 

『資本論』では劈頭の商品の価値分析を商品章で行っていたのだが、そこでは私的な商品生産者の生産労働の抽象的人間労働という同質な側面が商品価値を形成すると説いていた。より強められた同時間内でより大きな価値を生み出す複雑労働についてもそこで言及されているとはいえ、それの社会的平均労働への還元については、日々おこなわれている社会的な過程で行われているとだけ規定されているにとどまり、還元の定量的な分析は一切示されていない。均質な労働が相互に向かい合うという平坦な世界像がそこに置かれていた。端緒のこうした基本規定が、全体系にそのまま持ちこされているといってよく、かつこれまた古典派経済学の規定を引き継いで、流通過程は労働時間で価値の大きさを決定された商品生産物の、価値通りの交換過程でしかないから、流通労働は全く不生産的な労働とみなされた。

 

いわば相互に無差別で均質化された労働者が、実物的商品を所与の生産技術体系のもとで機械の付属物として粛々と生産し続けるというのが、資本論が描く基本的な資本主義世界像なのである。

 

資本主義とは個別資本の無政府的な蓄積運動の経過に伴って、絶えざる生産力の向上と新たな市場の創出をその発展の駆動力に据えているのだが、そうした資本の積極的活動の諸相に対してどのように資本自身が処理をし、労働力をそこに配備していくのか、資本論にはそうした課題に対する理論的考慮は全くと言っていいほど見出すことが出来ない。資本主義のダイナミズムの根源を掘り下げることに完全に失敗しているというよりか、そもそもそうした領域に対する関心が希薄であると言わざるを得ない。

 

こうした資本主義のダイナミズムを支える労働は、果たして均質で無差別な労働にそのまま還元できるのだろうか。そこにさらに考究すべき課題があることは見えやすいだろう。

仮に複数の相互に異質で還元できない労働が存在するとしたら、その時資本にとってそれはどのような事態として現れるだろうか。もちろんその一方では、資本の作用として異質で流動化の困難な労働を、様々な手段を通じて均質化しようとする傾動を絶えず発揮するとはいえ、しかしながらそれにも一定の限界が存在するとしてよいのではないだろうか。

資本にとってはそのように異質な労働が複数存在しても、問題は労働市場で賃金を支払って蓄積の変動に対して柔軟な供給を確保できるかどうかがまず第一次的なものだろう。これはある景気循環の内部では、資本にとっては各労働種類の労働市場が与えられ、それぞれの供給弾力性の形で受け止められるほかはない。これはすべての労働が均質化した状態となんら変わるところはないのである。確かにある特定のたとえば極めて高度な知的能力を要求するような種類の労働の供給余力が限定されたものであるのではないか、と考えたくなるだろうが、それはその時々の事情によって必ずしも労働の質と労働市場での供給余力との関係が逆相関になるとも言えない。ただ各種の労働市場について好況の進展による需給ひっ迫が同時に同程度に起きるという想定は、一般的には置くことが出来ず、ある特定の種類の労働について急速な枯渇ということがおきさえすれば、その労賃も急騰し資本蓄積に急激な制約を加えることになるだろう。この点も均質労働を前提とした景気循環論に訂正を加える要因とはならない。
相互に異質で還元不可能な労働がn種類あるとすれば、資本賃労働関係も異質で還元できないn種類存在することになり、ここにn種類の階級闘争が生じてくることとなる。煎じつめれば、n種類の搾取とn種類の階級闘争が現出してくると見ることが出来るわけである。

まさに問題の根源はここにある。このn種類の階級闘争が自然発生的に合一していくなどという保証はどこにもないわけで、例えば労働集約的で低賃金国の製品と世界市場でダイレクトに競合する部面の直接労働者と、参入障壁が極めて高く、技術構成の高い部面での研究開発労働者とで、賃金はもちろん労働環境や景気循環への感応度などが大きく異なることから、斉しなみにその要求事項などが扱えないのは言うまでもないだろう。しかもこうした事態こそが現代資本主義を特色づける諸相の一つではないか。

 

それだけではない。資本主義的生産はいつの時代にもその周縁に半資本主義的であったり、伝統的生産関係に結びついて商品生産を広範に前提して存立している以上、そうした部面での様々な労働形態があり得る。資本主義的生産関係に主導される景気循環と連動しつつも、そうした部面での相対的過剰人口の様相も一括して取り扱えるわけでもない。資本賃労働関係に包摂しきれない部面でも、ある種の階級関係と軋轢が生じうる関係にあるだろう。

こうして見ると、マルクスが資本論で説いたような単質な資本賃労働関係などというものがいかに現実妥当性を欠いたものであるか、あらためて問題となる。ただマルクスとしては、n種類の階級闘争などというものに気付いたとしても、おそらく当時の労働運動をむしろ統合しなければならないという、実践的な課題からそれを理論的に考究することはなしえなかったのではないか。

 

しかし現代に生きる者として、この課題にどう応えていくべきなのか、その自己吟味を避けて通るわけにはいかないだろう。ここでは、まずは異質な労働の存在を前提とした場合の、資本賃労働関係の変容と階級闘争の客観条件を、ひとまずは原理的に考察する視界に自己限定して論述することを通じて、その先の課題の大きさを極めて間接的に予示したにとどまる。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  http://www.chikyuza.net/
〔study618:140617〕