(1974年『MISSLIM』収録)
「山手のドルフィンは 静かなレストラン」――舞台は明確に横浜・山手であり、雨ではなく、むしろ晴れた午後の光が支配する空間である。語り手はそこで、別れた相手との過去を回想する。その別れは曖昧ではない。「あの時 目の前で 思いきり泣けたら」とある以上、決定的な別離の瞬間はすでに起きており、「今頃 二人」という仮定法が示す時間感覚からすれば、想起されているのはせいぜい二、三年前の出来事だろう。
ところが曲の終盤、唐突に語りは別の次元へ跳躍する。「やっと書いた 遠い昔」。ここで時間は、論理的な連続を断ち切り、十年近い隔たりを思わせる「遠さ」を帯びてしまう。これは構成上の精密さから見れば明らかな破綻であり、叙情の整理が追いついていない証拠でもある。
しかし、この時間軸の不整合こそが、この歌を凡庸な失恋歌から救っている。泣くべき時に泣けなかった後悔は、合理的な時間感覚を失わせる。「窓にほほを寄せて カモメを追いかける」という身振りは、感情が対象を失い、風景へと逸脱していく瞬間を示している。近いはずの過去が、主観の中で突然「遠い昔」に変質してしまう――そのズレは、若い書き手が自分の感情の処理速度をまだ持たなかったことの、ほとんど生の痕跡だ。
ユーミンはこの時期、感情を統御する技法よりも、思いついた言葉をそのまま走らせる勢いに賭けていた。その結果として生じたほころび、時間の粗雑な跳躍、情景と心理の噛み合わなさが、「海を見ていた午後」を完成度では説明できない名曲にしている。これはよく出来た歌ではない。若さが時間を持て余したまま書いてしまい、それでもなお聴かせてしまう歌なのである。
付記:再訪という不自然さ――勢いが論理を追い越す瞬間
この歌でもう一つ、どうしても引っかかるのは、「今日もまた一人来てしまった」という一行である。ここは本来、もっと心理的な抵抗があって然るべき場所だ。ここは楽しい思い出のカフェではない。目の前で泣けなかった別れが起きた、いわば感情的な事故現場である。普通なら、再訪にはためらいがあるし、まして元恋人と鉢合わせする可能性を考えれば、「気まずさ」が先に立つはずだ。
ところが語り手は、その違和感を一切処理しない。ただ、来てしまった、と言う。ここには覚悟も理由もない。あるのは、感情が向かってしまった、という事実だけだ。この無防備さは、計算された詩の態度ではなく、若さゆえの勢いと見るほかない。
つまりこの歌では、
・時間は飛躍し、
・感情は風景に転位し、
・行動は社会的な「気まずさ」を無視する。
それらは本来、削られ、整えられるべき「粗」だ。しかしユーミンはそれを直さなかった。あるいは直せなかった。その結果、「悲しい別れの場所に、今日もまた一人で来てしまう」という、現実的にはやや不用意で、しかし感情としては異様に正直な身振りが、そのまま歌になった。
だから「海を見ていた午後」は、後年の完成度の高いユーミン作品とは違い、心理の整合性や行動の自然さよりも、感情が先に走ってしまう瞬間の速度がそのまま残っている。時間が混線し、場所の意味づけが甘く、行動が少し不用心であること――そのすべてが、この歌を「若書き」として決定的にしている。
そして皮肉なことに、その勢いこそが、聴き手の側の記憶の不整合や、後悔の反芻や、説明のつかない再訪衝動と、奇妙に噛み合ってしまう。論理的には首をかしげるのに、感情的には否定できない。その居心地の悪さを含めて、この歌は今も生き残っている。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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