37 本多秋五、中野孝次の写真
近所のはるひこさんの家の裏庭には、ミョウガが生えている。10月初旬のこと、わたしは、黄緑の葉っぱのなかに小さな花を見つけた。白い。少し黄色っぽい。かれんだ。ミョウガの花は初めてである。立ちどまり見つめていた。
菅総理大臣の「特高顔」と、辺見庸がいっているんだって。近代文学・プロレタリア文学研究家の大和田茂さんからメールがとどく。たしかに、作家、辺見庸はブログのなかにそう書いている。辺見庸は、前総理の顔についても、たとえて書いていた。どちらも、言いえて妙だ!
大和田さんは、官邸前のデモに同志とともに参加したという。菅総理が行なった、日本学術会議新会員候補6人の任命拒否に抗議すべくデモである。学問、人間、自由を尊重しない。人格を抑圧、排除する。人を取りしまるだけの、菅総理の「暴力」と「野蛮」は、その顔にもしぜんと現れるものだ。任命拒否は学者だけの問題ではない。独裁者の手はさらにのびて、国民におよぶような不安をかきたてる、いやなご時世である。
菅総理は日々、思索と読書の時間をもっているのだろうか。
真理子夫人は、夫の顔をどのように見ているのだろう。菅総理の目つきは陰険だ。リーダーにふさわしくない顔である。
「広報はままつ」10月号がとどく。イベントのページを見た。「三島由紀夫コレクション展」が、11月1日から2月4日まで、浜松文芸館展示室で開催されるという。11月25日は、切腹自殺をとげた作家、三島由紀夫の没後50年にあたる。浜松在住の小説家が30余年をかけて収集した、三島の自筆原稿や初版本などの資料が展示、紹介される。
1970年11月25日、わたしは、三島の自死のニュースをラジオで聴いた。瑤子夫人が外出先から自宅に車であわただしくもどったという情報は、せつなかった。高度成長期のさなかに起きた衝撃的な事件だった。三島45歳。
『潮騒』(新潮社)『金閣寺』(新潮社)などを読んでいる。三島はノーベル文学賞の候補にのぼったという大作家だが、三島文学の観念的な世界は、わたしにはなじめない。
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わたしの大切にしている、いわば記憶の写真が数枚ある。ときおり眺めている。阿部知
二、中村光夫、平野謙、本多秋五、山本健吉。在学していた明大大学院で見かけた。みな著名な文学者だ。なによりも風格があった。忘れがたい存在である。
阿部知二は、エレベーターの前で1回だけ見かけた。英文学の先生だが、小説「冬の宿」の作者でもあった。もの静かで知的な印象をうけた。廊下で1回すれちがった中村光夫は、色の浅黒い長身のどっしりした人だった。本多秋五は、怠け者の学生のリポートは見ないという厳しい先生だった。山本健吉は、充実した授業をおこなった。平野謙は、超多忙の人だから学生への対応はゆるやかだった。平野謙が明大のキャンパスを移動する姿は、映画俳優のおもむきがあった。
本たちの間からポトリと何かおちた。見れば写真だ。本多秋五と作家の中野孝次が写っている。武蔵野書房の社主が撮影したものだ。
本多秋五は、出版記念会であいさつをしている。背がすらりとのびて、顔が端正である。
中野孝次は、美人の妻と犬といっしょだ。中野には『ハラスのいた日々』(文藝春秋)という著書がある。写真の柴犬は、ハラスのモデルだろうか。子どものいない中野夫妻にとって、犬は家族のような存在であったという。
記憶の写真も紙の写真も、見ると、その人物のこと、そのころの自分のことが思いだされて懐かしい。
38 川上喜久子、萩原葉子の写真
10月下旬になると、急に気温が下がった。寒さを感じる。日も短くなった。バイクに乗った豆腐屋さんのラッパの音が聞こえてくるころは、あたりは薄暗い。追いかけて豆腐を買うには、まだ、わが患足は回復していない。浜松は雪は降らないけれど風が強い。寒さで右足がななめの棒になったらどうしよう。難儀な季節のおとずれである。
定期受診の日だ。すずかけセントラル病院に行く。待合室の患者は、コロナ禍の4月以降、いちばん多かった。90分待って、ようやく、受診できたのだった。
リハビリスタッフ室による。T先生は、12時ぎりぎりまで施術を行なっている。熱心な理学療法士だ。15分も早くきりあげる、ちゃっかり者の先生もいる。T先生が患者から信頼されるゆえんだ。車椅子の入院患者を食堂に移動させ、やっと、もどってきた。先生に中村文則の著作の文庫本をわたす。〈今月の「リハビリ日記」読みましたよ。総理大臣のこと、でてきましたね〉。拙文をいつも読んでくれている。T先生は、わたしが入院しているときリハビリを担当してくれたのだった。
デイサービスYAMADAに行く。通所者8人が体操を3時間する。〈がんばろう、がんばろう。ばっちり、ばっちり〉。室内に女先生の大きな声がひびく。ほかの日本語に変換できないものだろうか。耳ざわりだ。
ひざの屈伸運動が、わたしは好きだ。パワープレートにのる。両ひざに柔らかいボールをはさむ。スクワットのポーズで、からだをかがめたり伸ばしたりする。30秒間。マシーンの振動で細胞が活性化するという。〈もう少し、おしりを外へつきだして〉こうき先生が注意する。わたしは自分のミスに気づき、どきりとした。
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川上喜久子は、1936年、「滅亡の門」「歳月」がつづけて芥川賞候補にのぼっている。
わが手元には、喜久子の写真が2枚ある。御前崎に生まれ、少女時代を朝鮮半島の平壌ですごした。そのころ撮影したものか。聡明で美しい。考えごとをしているようだ。
中年の写真もある。めがねをかけている。つよい意思を感じる。ちょぴりさびしそうでもある。
〈宇野千代さんは、手をポンとたたいて女中さんを呼びつけていたわね〉女性作家が連れだって旅行したときのこと。自分にはそんなまねはできないわ、とでも、喜久子はいいたかったのだろうか。〈わたしは消極的で、出世べたでね〉とも。ものかきは、実力だけではない。たくましい処世術も必要なのであろう。喜久子の嘆きとくやしさを、わたしは、ちょっぴり聴いたようだった。
喜久子は、拙著『書くこと恋すること―危機の時代のおんな作家たち』(社会評論社)のなかに登場する作家の1人だ。「家庭内離婚」という副題をつけている。関心のある人は読んでみてください。
萩原葉子は、人一倍、仕事に愛情のつよい作家ではなかったか。詩人、萩原朔太郎の娘である。
『輪廻の暦』(新潮社)の拙評にたいして、萩原さんから、ていねいな礼状がとどいた。そのはがきの裏に、ダンサー、萩原葉子の写真がある。わかい男性ダンサーに高くもちあげられている。萩原さんの顔の表情は、真剣そのものだ。萩原さんは高齢である。何事にも意欲的な姿勢がすばらしいと思う。
わたしはときおり、2人の写真をとりだしては対話をしている。たのしいひとときだ。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔culture0939:201031〕