③ 本多秋五と埴谷雄高のはがき
ひとつの茎にひとつの花。ヒマワリの花が今年もまた、さちこさんの家の庭に咲いた。ヒマワリの花は、7月から通っているリハビリ施設「健康広場佐鳴台」の内壁にも、いっぱい咲いている。なぜか沈みがちな気持ちを浮きたたせる花かもしれない。
法政大学時代の同級生、川田正美さんから『歌でたどる昭和』(展望社)がとどく。著者名は想田正だ。価格は1650円。川田さんは現在、美空ひばり学会の代表をしている。
わが元住まいの最寄り駅は、東武東上線の志木駅だった。東口から5分ほど歩くと、歌
手の松平直樹のパブがある。近くにスポーツセンターがある。松平はそこの会員のようだ。地元のお金持ちの女性と恋仲にあるという、うわさを聞いたこともあった。
わかいころ、中学時代の同級生とともに、新宿のどこであったか、和田弘とマヒナスターズの歌謡コーラスを聞きにいった。松平と三原さと志の高音にうっとりしたのをおぼえている。
最近のこと、オリンピック開会式の楽曲制作を担当するミュージシャン、小山田圭吾がとつぜん辞任して、話題になった。かれは三原の息子だとネット上で知って、さらにおどろいた。ある人のブログには、かれの過去のいじめの告白が再録された。ひとでなしの、じつに残酷なことをしたものだ。被害者のトラウマは、はかりしれない。
『歌でたどる昭和』を読むと、和田弘とマヒナスターズのデビューは「昭和32年」。「歌謡曲の黄金期のなかで誕生した」という。著者は、戦後から昭和末期までのヒット曲を年度ごとに挙げて、その背景の社会状況や世相についても紹介する。想田正の論評はクールで、おもしろい。
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4通のはがきは、今の人には書けない、立派な文字とていねいな文面だ。文芸評論家の本多秋五と作家の埴谷雄高からのもの。2人は、わが指導教授、平野謙の生涯の親友だった。はがきをうけとった当時、わたしはかなり感動したものだ。いま、そのはがきを手にしつつ、こしかたの幸せなひとときを思いうかべたのであった。
本多秋五のはがきには、平林たい子の、鷹野つぎ家寄寓について藤枝静男と話しあった、 と書いてある。わたしは「平林たい子年譜」の抜き刷りを本多秋五に送っていた。『平林たい子全集』(潮出版社)第12巻に発表したものだ。それへの返事である。
たい子は女学校を卒業すると、すぐに上京している。親族よりも、血縁のない他人の手を借りたのである。つぎのほうも、それに応えたのだ。2人とも、この事実をのちのちまで記録していない。
わたしは、埴谷雄高の『雁と胡椒』(未來社)の書評を「信濃毎日新聞」に発表した。はがきは、掲載紙をおくったその返事である。埴谷雄高は〈12月19日で81歳になる〉という。〈平野君は忘れがたい友達で、あなたも恐らく忘れがたい師となることでしょう〉とも、書いてある。
どのはがきも、わたしへの激励にちがいない。
④ 中本たか子の封書
8月5日午後。炎天下、医院へ急いだ。2回目のワクチン接種がある。雨が降らなくてよかった。風がなくてよかった。田んぼに転がりこんではいけない。患足を気づかってそろそろと通りぬける。
診察室に、8人が横にならんで椅子に腰かける。白衣の女先生が立ったまま、手際よく注射をうっていく。隣は同窓生のおぐすさん。かれは1回目の接種の日、そわそわしていた。声をかけると、副反応が怖いのだという。緊張のあまり、歌をうたいだしたのだった。きょうは落ちついていた。無事に終了。翌日、かったるい感じがした。
ガストにうなぎ弁当の出前を依頼する。20分で、いつもの男性が配達してくれる。ウナギを食べる。何年ぶりだろう。うれしい。〈昼ごはんは。家からもってくるお弁当ですか〉〈いや、ガストの弁当です。もう飽いちゃったよ〉〈そう。お仕事は夕方まで〉〈いや、夜の12時までです〉。あったかい。やわらかい、おいしい。
「健康広場佐鳴台」へ行く。きょうは通所者10人。きめられた椅子に腰かける。机の上には脳トレの、数字と言葉のクイズのプリント。3時間15分のうちに解けばよい。介護士の藤田先生に誘導されて、レッドコードのあるところへ。椅子に腰かける。天井から下がる2本のコードをそれぞれ手でにぎる。まずは、両腕をひろげつつ深呼吸。次は、からだを前方へ、左右にたおす。そして、のばす。両股を開いたり閉じたりもする。
右半身のまひで萎縮した胸、腕、手、足が、のびてくる。腰の辺りがすっきりする。この自主的な体操が、わたしは気に入っている。
レッドコードをはずす。所定の机へもどる。介護士の戸塚先生が、さっと、手をさしのべてくれる。〈歩き方が上手になったねえ〉生徒のすずきさんから声がかかる。〈上手にならなけりゃ、ここに来るかいがないもんね〉とも。おっしゃるとおりである。
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中本たか子の2通の封書を、わたしは、あらためて読みなおしてみた。たか子はきまじめな人だが、政治的な人でもある。本音は隠している、とも思った。
たか子は、新感覚派文学からプロレタリア文学に転向した作家だ。新感覚派の作品では、
男性器を野菜のひとつにたとえて、大胆な表現をしている。プロレタリア文学への転向も、大胆で、じつに駆け足だった。
たか子に尋ねたのは、昭和初期のプロレタリア文学と、そこに参加していた文学者についてだった。
その返書のなかで、わたしは2点だけ注目した。
1つは宮本百合子の存在。1930年7月、たか子は、他の共産党員とともに投獄される。翌年10月、未決の身で仮出獄。心身の消耗がはげしい〈病気保釈〉だった。11月ころ、百合子の家に招待され、〈大勢の婦人作家〉の歓迎をうけたという。
百合子の、リーダーシップと他人への思いやりについて、わたしはあらためて考えたのだった。
もう1つは、自身のハウスキーパー体験を否定したこと。自分のことにかんして、どこか文献に書かれているとすれば、〈それはうそです〉。1930年の春3か月あまり、党の人たちのために住宅を提供し、食事を与えた。しかし〈それは私の私費でやったこと〉で、〈ふつうにいうようなハウスキーパーではありません〉というのである。〈ふつうにいうような〉とは、いったい何を意味するのだろう。ここは正直に語ってほしかったと思う。
本音で語るには、党での自身の立場がじゃまするのかもしれない。
党のハウスキーパー制については、くわしくは、拙著『平野謙のこと、革命と女たち』(社会評論社)を読んでみてください。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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