リハビリ日記Ⅴ ⑤⑥  

⑤ 牛島春子と北村律子の手紙
 大通りを行くと、小さな八百屋さんがある。店頭にハイビスカスの赤花がいくつも咲いている。1鉢300円。濃緑の葉っぱたちは、密接している。うっとうしい。ちょっぴり不気味だ。先ごろ、店主におつりをごまかされた。買う気はない。スーパーマーケットへ。
 帰途、小道に入った。と、背後から、こんにちは、と声がする。誰だろう? あまのくんだった。小学4年生。リフォーム店の子だ。毎朝、別の道で会っている。口はきかない。下を向いている。でも、覚えていてくれた。うれしい。
 かばんをおろす。中身をとりだせば、いつもと変わりない食品ばかり。半額・20パーセント引きのシールが目だつ。なんだか、おかしくなった。
 ソックスを脱ぐ。リハビリ教室「健康広場佐鳴台」のクラスメイト、もりべさんからいただいたもの。キノコが描かれていておしゃれだ。
 〈あなた、これからすたすた歩けるようになるわよ。そういう人がいたもん〉もりべさんは、通所2年の観察をいう。室内を活発にあるく。からだも柔らかそう。もたもたしているわたしの左腕をさっと、とってくれる。たのもしい人だ。
 やっと、オリンピック、パラリンピックが終わった。期間中、ラジオをつければ、アナウンサーの絶叫。だれそれが金メダルをとったの、銀メダルをとったの、銅メダルをとったのと、跳びあがらんばかりだ。コロナ禍で、病んで苦しんでいる人も死んでいく人も困窮している人も、たくさんいるというのに。のぼせあがっている。

〈共産党のハウスキーパーをしていたって書かれたら、恥ずかしいわ〉と、北村律子はいった。しかし、書くなとはいわなかった。自分の考えをもった、しっかりした人だった。夫ががんの治療中だともいった。
 戦後のこと。昭和初期のプロレタリア解放運動に挺身した女たちは、その体験を業績として誇示し、活用もした。だが、ハウスキーパー体験者は沈黙した。隠したが、律子はわたしに語ったのである。
 中央から福岡にやってきた共産党中央委員のハウスキーパーを、律子は命じられた。アジトを借りる。食事を用意する。かれのシャツや足袋のほころびを繕う。そして性を、金銭を提供した。至れり尽くせりのサポートをしたというのだった。
 その直前まで律子と同居していた牛島春子の手紙も、わたしの手元には何通も残っている。春子は、律義な人だった。福岡でひとり暮らしをしていた。公民館の俳句の会に出席しているといった。  
 手紙のなかにはこう書かれている。〈非合法で追いつめられた共産党は、おかしなことをいろいろしている。その1つがハウスキーパー制の採用だった〉〈すぐれた女性がただハウスキーパーとしか見られなかったのか〉。
 春子の問題提起は、賢明だと思う。怒りももっともである。女活動家を対等とみない、男活動家中心の解放運動だったのである。
 律子の手紙にはこう書かれている。〈死ぬる覚悟で運動に参加したのに〉と。とりわけ律子の内奥には、疑問や屈辱や自己嫌悪が、生涯、消去できずにあったにちがいない。
 参考に、拙著『平野謙のこと、革命と女たち』(社会評論社)を読んでみてください。

⑥ 平野謙のおしえごたち、出世組
 とりわけ大臣は、みずからの顔には自覚と責任をもってほしい。河野大臣の、めがねの奥のくしゃくしゃした顔。知性も品性もない。元大臣、高市の傲慢な声。ぞっとする。元大臣、岸田の意地悪そうな目つき。前言をひるがえすなぞ卑劣だ。
 自民党総裁選挙の3人の候補予定者には、ここで、自筆の作文を公開してほしい。その文章にこそ、彼らの本来の姿は映しだされるにちがいない。弱者、貧者とどう向きあっているのか、どう救済しようとしているのか。他者への伝達としての日本語に誠実がこもっているか否かも、その文章は明らかにするはずだ。
 「健康広場佐鳴台」に行く。先日「辺見庸ブログ」を読んでいたら、「パラダイスジム」とあった。作家の辺見さんは、リハビリ施設に通っている。そこで出会うスタッフがみなやさしいとは、いつぞや、著書のなかに書いていた。ここ「健康広場」もパラダイスジムである。居心地がよい。藤田先生も戸塚先生も水谷先生もみな、心配りがこまやかだ。
 授業時間は3時間15分。その間に生徒は、いくつかの種目の体操を行なう。レッドコード運動は半分ずつに分かれて行なうが、あとの種目は個別授業になっている。生徒のからだ、症状にあった運動をそれぞれに、理学療法士の伊藤先生が指導する。
 きょうは新しい種目に挑戦した。3つのハードルをまたいで歩行。しっかり脚をあげないとハードルはたおれる。3往復して1回ミスった。せんだって、わたしは介護士に、脚があがらずつまずきそうになったと申しでた。わが要望は、伊藤先生にとどいたのであろう。
 9月15日。朝から気持ちのよい日だ。さらさらしている。気圧が安定しているせいか。めったにないこと。わたしのお天気病も影をひそめている。午後、問う人もない。電話のベルも鳴らない。あちこちへ手紙を書いた。
 今年もまた、はるひこさんの家の裏庭にミョウガの白い花が咲いた。

 北川正洋と斎藤尚也は、今、どうしているだろう。明大大学院時代の同窓生で、平野謙のおしえごだ。北川は英数研究所を創立して塾経営にのりだした。斎藤は都立高校教員、指導主事をへて、都の教育庁に勤務しているとは聞いていたが、すぐれた論文、作品をどこぞに発表したとは聞いていない。出世とともに、書きたい欲望も文学的才能も内面から遠のいていったのか。
 2人はたしかに、自分のちからで世に出ようとした。講師のポストがほしくて女先輩にすりよろうとはしなかった。みぐるしい男どもの姿を、わたしはしかと目撃している。
 いつぞやテレビに、三重県知事、北川正恭が映った。兄の正洋さんとまるでそっくり。びっくりした。北川家は政治家が多い。父は県会議員で、母方のおじは国会議員だといった。北川の修士論文は、女性解放の「青鞜」についてだ。自身の問題意識と結びついていないのではないか。と、女のわたしは率直に思ったものだ。
 1998年10月、拙著『本たちを解く―小説・評論・エッセイの愉しみ』(ながらみ書房)を刊行した。書評集である。斎藤さんにも案内の電話をかけた。購入してくれたが、ふと、斎藤がつぶやいたのだった。〈ぼくは、みなさんと立場がちがう〉と。しんみりした、かよわい声だった。都教育庁の指導部長として苦悩していたのか。55歳。国旗・国歌法を各学校へ徹底するため指導、管理を強化する、旗ふり役をしていたのだ。
 〈それはちがうぞ。やっちゃいけないことだ〉と、同窓生は斎藤を非難した。〈組織のなかのかれは、個人的にこれからどうするんだろうなあ〉と、心配した同窓生もいた。
 2004年春までに250名の教職員が、入学式・卒業式に義務を果たさなかったとして処分されているという。
 定年退職後、斎藤は東海大学課程資格センターの教授になる。いかにも、出世コースを順調に歩んできた人らしい。この見事な転身を天下りというのか。小柄でおとなしそうな人だった。ものをはっきりいう人だった。
 わたしはいま、先述した、斎藤尚也のつぶやきを噛みしめているのである。

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