リハビリ日記Ⅴ ⑦⑧

著者: 阿部浪子 あべ なみこ : 文芸評論家
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⑦島崎藤村の弟子、鷹野つぎ
 ヤエヤマブキの花が、道にはみでるように咲いている。黄色い花だ。有名な古歌が脳裏
をよぎった。七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき。
 友人のなつよさんに電話をかける。やっと通じた。〈病気をしていてたいへんなのよ。元気なのは声ばっかり〉。悲しい思いが伝わってくる。1人暮らし。いや、かたわらに大きな愛犬がいる。実家の甥夫婦がサポートしてくれているという。なつよさんは小学生のとき、知能指数が高かった。学年で1番だったと思う。幼少時代から聡明な人である。拙著を何冊も購入してくれた。うつくしいペン字の便りが、なつかしい。
 ふと、ある老女のことを思いだした。茅野駅前の公園でのこと。わたしは、フジ棚の下のベンチにかけていた。取材の約束時間を待っていた。黒いもんぺに男物のぞうりをはいた女性が話しかけてきた。〈のんべえの亭主はとうに死んださ。大工だった。さんざん苦労させられたよ。あんたも男には気をつけろ〉顔つやがいい。大きいおっぱいを手でゆらゆらさせながらしゃべる。
 〈10人の子を、産婆の手を借りずに産んだよ。陣痛を感じたら大工の弟子に、いまからぽんぽこ産むから湯をわかしてくれ、とたのんだ。どう聞きちがえたか、弟子はおまんまを炊いた。赤子のへその緒を麻のひもで結び、はさみで切ったさ。あとぶつは庭にいけたね。夫はなーんにも、手伝わんかった。あとで、おくさん産んだですかと、いったきっさ〉。
 いまにも、彼女の声が聞こえてきそうだ。たくましい、元気いっぱいの80歳だった。今は見かけない、おもしろい女性像かもしれない。なぜか、彼女のおしゃべりと笑い顔が、鮮明に思いだされたのである。

 鷹野つぎは、夫の鷹野弥三郎にともなわれて、文豪、島崎藤村の家をたずねた。小説家としての弟子入りだった。弥三郎は新聞記者をしていて、藤村とは交流があった。
 藤村は自ら主宰して文芸誌「処女地」を発行する。文学をこころざす女たちに発表の舞台を提供するのだ。なかでもつぎは、才能を発揮して、文学史に名をとどめるまでに活躍する。「処女地」は、「青鞜」のような華やかさも、業績への注目もなかった。
 鷹野文学は、地味な作風だが、女の、妻の心理や内面をこまやかに描出する。つぎは大恋愛し、結婚した。しかし、結婚生活は悲惨だった。自身の病弱。7人の子の死亡。家事、子育てにも苦悩する。作品群は、そんな実生活の反映だった。
 川越散策はたのしかった。わたしは気のむくまま、東武東上線の志木駅から12分の川越駅へむかった。菓子屋横丁でたいやきとやきいもを買う。帰途は道をかえながらぶらぶら歩いていく。通町(旧黒門町)にでた。「藤村ゆかりの地」「加藤家の旧居跡」とであう。マンションが建っている。
 1928年、藤村は加藤静子と再婚した。その翌年、この地を訪ねたという。静子は東京神田に生まれ、関東大震災後ここ川越に転居している。藤村は、静子の母を「川越の老母」とよんで敬愛した。茶人でもあった義母に茶室を贈ってもいる。「不染亭」と命名。現在「不染亭」は、中院の境内に移築されてある。
 この話を知って、もういちど、藤村の、文学志望の女たちへ舞台を提供したこと、鷹野つぎを育てたことを考えてみた。そして、義母への茶室プレゼント。いずれも、藤村の、女性の向上心にたいする支援ではなかったか。わたしはそう思うのだった。
 
⑧鷹野つぎの子、鷹野三弥子
 9月下旬、近代文学・プロレタリア文学研究家の大和田茂さんから、メールと添付ファイルがとどいた。添付ファイルは、大和田さんが所属する日本社会文学会の2021年度秋季宮城大会のポスターチラシだ。
 「東北・民主主義(デモクラシー)の源流―石川啄木・吉野作造、徳永直を中心に」と題する大会は、11月6日、吉野作造記念館で行なわれる。オンラインと併用の大会だが、主催者の大和田さんは、大崎市の大会会場へでかけるという。 
 秋田県立大学教員、高橋秀晴さんの「吉野作造と滝田樗陰」などの研究発表。作家、森まゆみさんの「東北のまつろわぬ人々」の講演がある。主催者の尽力と情熱あっての大会だ。まつろわぬ人々とは? 服従しない人々とは? 森さんはどんな話をするのだろう。わたしにも興味ふかい。すばらしい大会になると想う。
 「健康広場佐鳴台」に行く。週1回のリハビリ教室でのトレーニングだが、わたしは、前日からそわそわ、どきどきしている。
 後遺症がじつはとてもやっかいなのだ。よろめかず、すたすた歩きたい。小さい文字を手帳にすらすら書きたい。どちらも持続力が足りない。理学療法士の伊藤先生が、その機能回復への1つを指示した。ペットボトルのキャップを麻痺のある右手だけではずしたり、つけたりする。かたわらで、介護士が時間をはかる。わが手はだんだん速くなっていく。ボールペンの文字がらくに書けるようになれば、うれしい。
 1つテーブルを4人の生徒が使用する。テーブルの上に脳トレなどの教材をおく。クイズを解いては答えを書く。たがいに言葉をかわす。個別指導をうける。ここから立ちあがって、マシーンのある所まで歩いていき、運動と体操を行なうのだ。このスタイルが意外や、わたしたち生徒にやすらぎをもたらしているのではないか。介護士の先生たちのサポートがあって可能なこと。そして机と椅子。ありがたい存在だ。

 小説家、鷹野つぎは、9人の子を出産した。うち7人が早世。残る2人のうちの鷹野三弥子は、独り松原湖畔に住んでいた。父方の故郷である。30年間、地元の農協につとめていたという。わたしは2回、彼女を訪ねている。母、鷹野つぎの思い出を語るその表情は、じつに輝いていた。小説家の母は自慢の人だった。 
 〈アヒルが多いね〉子たちの通信簿をのぞきながら、甲ではなくて乙が多いと、つぎはいう。母子ののどかな風景であろう。三弥子が保存するアルバムを見れば、子たちの顔つきはみな利発そうだ。その子たちがつぎつぎと母の手から去っていく。やるせない。哀切な思いは、つぎのエッセイ群にリアルに書かれている。『鷹野つぎ著作集』(谷島屋)全4巻を読んでほしい。
 アルバムには、つぎの着物姿も写っている。美しい人だ。どこか淋しげでもある。
 アルバムや手紙は、現在、つぎの出身地の浜松文芸館に保管されているはずだ。
 三弥子は手紙などを、諏訪市に新設されたばかりの平林たい子記念館に寄贈しようとした。記念館をたずねるが、陳列のようすを見て〈非文学的な館内に飾ってもしようがない〉と思ったそうだ。三弥子は計画を断念している。
 松原湖畔の独り暮らしは淋しかったようだ。兄家族は東京に住んでいた。夕暮れになるまで庭の手入れをして淋しさを忘れるのだといった。最晩年、三弥子は〈こちらから電話をかけてもいいかしら〉というのだった。

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