リハビリ日記Ⅴ ⑮⑯

⑮ 鷹野弥三郎のこと
 ナノハナはどこから眺めても、人の気持ちを明るくさせる。春をよぶ黄色い花。リハビリ教室「健康広場」の帰り道、介護士の水谷先生が車をゆっくり畑のそばを走らせた。ふと脳裏に、東武東上線にそって咲いたナノハナたちが浮かんできたのだった。
 3月中旬、3回目のワクチン接種をうける。空は晴れていた。風もなかった。田んぼ道をぶじに通過。医院の待合室には誰もいなかったが、定刻には高齢者が15人ほど集まった。今回は老院長が担当。〈服用している薬はありますか〉〈舌をみせて〉注射は痛くなかった。院長は椅子にかけていた。患者も。昨夏は腰かけた患者を横にならべて、看護師は立ったまま注射を打っていった。すばやい。大胆だ。
 15分がすぎる。診察室をでようとすると、女性がドアを開けてくれた。親切な人がいた。冬場は患足が斜めの棒みたいになる。ただうれしかった。
 4月になると、町内会の出費が多い。1年分の2万円を用意する。ここは太平洋に近い浜松市内だ。中旬には、年1回の排用水路の一斉清掃もある。参加しないと〈罰金1500円〉が請求される。わたしは後遺症のため毎年不参加だ。
 例年のこと。朝8時、町民は所定の場所に集合。30分もすると、組長がドリンク1本をもってわが玄関に現れる。恥知らずだ。わたしもしぶしぶ払う。情けないことだ。思考と想像がほしい。しかし、昨年は組長に文句を言った。弱い者いじめだ、思いやりがほしい、と。おなじ年頃のかれは、わが言い分をわかってくれたと思う。
 今年は事前に自治会長に問いあわせた。会長はタッチしていないという。〈なんでもお金の世の中とはいえ、罰金をとるとはねえ〉どうやら会長は罰金に賛同していないようだ。ついでに次期自治会長にも問いあわせた。タッチしたくないのか。検討するとは言わない。お金よりも人として大切なものがある。わたしは今年も参加できない。が、罰金は払わないことにする。自治会費、10440円にしても高すぎる。

 いつぞや、浜松のデパートで行なわれた展覧会「平塚らいてうと浜松の女性たち」で、わたしは鷹野弥三郎の書簡を見ている。弥三郎は作家、鷹野つぎの夫だ。作家の川端康成にあてたその書簡は、万年筆で一字一字、ていねいに書かれていた。
 弥三郎は時事新報社退職後、自ら出資して川端に雑誌「新思潮」を編集・発行させる。のちに弥三郎は、つぎの作品の売りこみを川端に依頼したのであろう。その礼状だ。
 川端の書簡もあった。「若草」に掲載するくらいの依頼だったらまた言ってくれ、と弥三郎に応えている。さらに川端は、つぎの『母と子の領分』(古今書院)をほめる。母として子育てしながら執筆するつぎの姿をたたえているのである。
 弥三郎は、南佐久郡に生まれた。
 新聞記者だったが、関東大震災にさいし時事新報社を辞める。再就職の話はあったものの〈あいつのもとで働くのはいやだ〉と拒否。独立自営の道を進むのだった。『都市経営上から観た市福島』(福島公論社)などの著書が弥三郎にはあるが、文筆家にはならなった。妻の文筆のマネージメントに徹するのである。
 子沢山の家計は苦しくなる。弥三郎は元同僚や親戚に借金をする。ふみたおす。つぎは書く。結核を発病。妻の、母の苦悩はどんなに深かったろう。つぎは、自身の内面にうごめくやるせない思いを、自然主義風のリアリズムで克明に描くのだった。
 弥三郎はこのころ、つぎの妹、つやの夫の村松道弥をつかい『美術年鑑』『演劇年鑑』『文芸年鑑』を出版している。『文芸年鑑』は現在のものの先駆だ。当時活躍していた作家たちに履歴や著書をこたえてもらったもので、この出版こそ、弥三郎の発案であって、かれの功績にちがいない。

⑯ 村松道弥のみた鷹野つぎ夫婦
 風もない、穏やかな日だ。ドラッグストアクリエイトに出かける。人通りもない、静かな日だ。のんびりした1時間だった。歩行もらくになった。
 帰宅後、パソコンを開くと、サイト、ちきゅう座の府川さんからメールがとどいていた。「ユリイカ」を読んだという。拙文「瀬戸内寂聴のこと」が掲載された3月増刊号である。文学愛好家の府川さんに読んでもらえて幸せだ。拙文のとりわけ、大庭みな子が発言した河野多恵子にかんするくだりに考えさせられた、とも。河野は、永山則夫の日本文藝家協会への入会希望についても異を唱えた人。府川さんも、彼女の〈かまととぶり〉はよく記憶していた。
 拙文がどう読まれるか。気になる。志木に住む松本直史さんからも、はがきがとどいた。松本さんは若いころから文学をこころざしている。拙文をていねいに読んでくれた。〈曼荼羅さながらに描かれた人間の縁の不思議さは、阿部さんも登場人物の一人である小説を読むような味わいでした〉と。うれしい批評だった。
 リハビリのため「健康広場佐鳴台」に行く。週1回の外出は前日からそわそわする。3時間15分がたのしい。あっ、もりべさんだ。スマートになった。再会に心がほかほかした。新人の介護職、深見先生が緑茶をいれてくれる。〈どうぞ〉ハスキーな声。今日までの体験がこの声を形成したのだと、彼女はおかしそうに笑う。
 種目の1つ、マシーン運動は、毎週行なわれる。4台のマシーンをそれぞれ利用しながら上半身と下半身を鍛えるのである。ほかのトレーニングで得た効果をさらに補強するのだ。
 まず、おもい荷物をもちあげるように腕を高くあげる。また前へのばす。肩まわりの筋肉が強化されるのであろう。つぎに、脚を開いたり上下にしたり伸ばしたりする。脚の裏側の筋肉が鍛えられる。それぞれ15回ずつ行なう。
 マシーンのちからを借りても、なかなかハードな運動である。くたびれる。しかし、手ごたえがある。伊藤先生など、かたわらで指導してくれる。安心なのだ。

 村松道弥は、焼津市出身の人。40年間、音楽・舞踊・楽器ジャーナリストをしてきた。
 『おんぶまんだら 別冊』(芸術現代社)と題する、非売品の著書がある。
 20歳のとき、村松は上京。水町京子の歌会に参加して歌人をめざす。若山牧水に師事する。同人雑誌「旅行と文芸」を平塚運一などと発行したともいう。
 村松宅は文京区にあった。1926年ころ、平林たい子と林芙美子が同居していた大極屋酒店の近くにあった。「平林たい子年譜」作成のため歩いていた地域だった。
 村松80歳。取材したときのことは記録してあるが、今でもわたしは覚えている。長身でハンサムな人だった。あのかたが、鷹野つぎの末妹、つやの夫になった人なのか。美人のつやは、鷹野宅につどう文化人の注目の的であったという。つぎの援助で東京の桜蔭高女に学んでいる。
 村松は、たい子が鷹野宅に寄寓していたことも、うっすら記憶しているといった。
 わたしは取材の最後に村松へ疑問をぶつけた。鷹野夫婦の子沢山をどう思うか。〈そこが問題だ。弥三郎に罪がある。つぎ姉さんも、もう少し考慮すべきだった〉と。かれの答えは明快だった。つぎは9人の子を出産。うち7人を早くになくしている。
 つぎは浜松高女(現、浜松市立高校)時代、「明星」の与謝野晶子にあこがれた。
 「撲たれる女」で文壇にデビューしたつぎは、35年の文学的生涯をまっとうする。
 その間、弥三郎は、つぎの執筆環境に心をくだいていただろうか。原稿の売りこみはまめだったが、つぎの内面、苦悩にはよりそっていなかったのではないか。
 つぎは、思索的な人だった。長編小説が書きたかった。その実力は充分にあったのに。
 弥三郎は、つぎの作家活動にすがって生きた、虚栄的な人だったのかもしれない。

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