リハビリ日記Ⅴ ⑰⑱

⑰ 八木秋子と永島暢子のこと
 春の青空は澄んで、はてしなく広がる。
 〈タマエさん、この花なんていうの?〉ホソバの木の下にひっそり咲いた青紫色の花。白色も混じっている。〈ルビナスですよ〉別名、のぼりフジ。上にむかって咲いていく。見れば8枚の葉はまるい。ここには、昨春はなかった。はじめて見る花だ。タマエさんは植物を育てるのが好きだという。
 夕方、リハビリ教室「健康広場」の送迎車をおりる。運転は大瀧先生。助手席に水谷先生が同乗していた。車中では話がはずんでたのしかった。
 そうだ。きょうはタケノコご飯が待っている。きのう、西隣のりえこさんから知らせがあった。りえこさんは約束どおり、タケノコご飯に、タコとキュウリの酢の物、焼き肉、キャベツのドレッシングをもってきてくれた。うれしい。食後、心のこもったレシピにわが細胞はご機嫌だった。
 翌日、友人のあつこさんが自転車に乗って現れる。荷台からタマネギ、サヤエンドウ、レモン、キンカンをおろす。おもかったろうに。自家製の野菜と果物。みな新鮮なもの。あつこさんが丹精こめて作ったものだ。気づかいの気持ちがありがたい。レモンの大きさが不揃いでおもしろかった。色も市販の黄色より薄かった。
 翌日、宅配便がとどく。熊本の「卵黄にんにく」で知られる会社、サン・プロジェクトからだ。わたしは毎月、目によい「ブルーベリーエキスカプセル」を注文している。小包みをあけると、ニンニクの芽の贈り物だった。4日前、鹿児島の契約農家の畑で収穫されたばかりのものだという。長さ30センチで太さは3ミリくらい。完全無農薬。サヤエンドウの卵とじに入れてみた。すぐにやわらかくなった。噛めば、ニンニクの芽は、独特の味がする。おいしかった。
 旬の物が旬の物をよびよせたような、幸福の3日間だった。食をとおして、わたしは人の生き方を考えさせられた。銭もうけだけの悪辣な人がいる。自分だけがよければよいと、他人を踏みつけにする利己的な男がいる。人が人として尊重されない時代だ。もっと、心のゆとりとやさしさを大切にしてほしいと思う。

 4月15日付の「TBSニュース」を見る。ロシアのウクライナへの軍事侵攻がつづくなか「ロシア兵による性暴力が深刻化している」というのだ。兵士3人で16歳をレイプした、と。男の蛮行はいまだに。
 はっとする。わが脳裏には「マルキスト永島暢子との思い出」(『八木秋子著作集Ⅰ』)という、八木秋子の回想文がひらめいたのだった。
 「一軒残らず被害を受けた。悲惨であったといいます。このことだけは口を割らないって約束をしたっていいます。だから彼女が自殺した時、なんてことだろう、みんなでこうやって何もなかったことにして帰ろうといっているせつなさったらなかった。死ななくたってよかったのにって。当時、女の人には、まさかのときのため薬をくばってあった。それを使ったということです。」
 秋子は1945年12月、満州(現、中国東北部)から日本に引き揚げている。翌年暮れ、東京神田でばったり、満州での友人と出会う。その友人の話を秋子は回想している。文中の「彼女」とは永島暢子のこと。秋子は、満州においてきてしまった友人、永島のことが気がかりできた。彼女の自死を初めて知るのだった。
 アナキスト、秋子とマルキスト、永島は、昭和初期「女人藝術」に寄稿している。革命運動に挺身していた。運動が崩壊すると秋子がさきに満州に渡った。満鉄につとめる。当時、満州には転向者が大勢いたという。永島も秋子に連絡をとり渡満する。2人は、1年ほど同僚として交流するのだった。
 「永島さんは戦後延京の幼稚園で、ハッシンチフスが流行し、親と死別した子供たちを収容して、懸命に世話をしていたんです。そうしたらそこへ、ソ連の兵隊が入ってきて、皆が犯された。みすみす夫のいる前で奥さんを犯すというような状態であった」とも。
 1945年8月8日「ソ連、対日宣戦布告。北満州方面を中心に侵攻開始。関東軍総崩れとなる。」8月15日「日本無条件降伏し、第2次世界大戦終る。」
 永島暢子が自死したのは、昭和史年表の事実に明らかなように、日本の敗戦直後のことであった。

⑱ 八木秋子の戦後
 新座中央通りのコブシの木々も新緑の季節をむかえ、道ゆく人の目をたのしませているだろう。志木駅前のカフェは、今もそのまま在るだろうか。駅前の風景はすっかり変わってしまったという。カフェにはよく早朝にでかけ、原稿の下書きをしたものだ。
 ここ田園地域には、カフェはひとつもない。つまらない。
 「健康広場佐鳴台」に行く。週1回、3時間15分のリハビリ教室である。
 毎回かならず行なうトレーニングに、バイク運動がある。どこの教室にもあるマシーンを用いて、下半身を鍛える運動だ。10分間、ペダルをこぎつづける。ほかの生徒のように、わたしはすいすいとはこげない。右の患足にちからが入らないのだ。少しずつ浮いた感じになり、足が内側にむいてくる。4分までの道のりがたいへんなのだ。しかしそれを過ぎると後半はらくになる。
 クリエイトまでの買い物に20分かかっている。10分とは、その道のりの半分の距離だ。トレーニングが終了すると、戸塚先生が酸素濃度をはかる。数値96。戸塚先生の落ちついた仕事ぶりがたのもしい。次は、場所を移動してレッドコード運動を行なう。

 八木秋子は、永島暢子の満州での自死を日本にもどり初めて知った。それから30年後、秋子は婦人雑誌の編集者に語った。その回想文は、秋子の真実の気持ちをぶつけたものにちがいない。いつ読んでも、せつなくて哀しくなるのである。
 「永島さん」は「どんなに絶望したろう。」「どうしてとんで行かなかったのか。悔やまれて」「だから戦後、積極的に職を求めてどのように更生しようなんて、それどころじゃない。永島さんを裏切ったことの自責の念。」「積極的に生きる意欲がなくなった」(『八木秋子著作集Ⅰ』)と、秋子は回想している。
 永島のふところには、自分を裏切った同志・夫の写真があった。永島はソ連を信じていた。夫、ソ連、秋子と。信じていたすべてのものに裏切られた。永島の絶望の大きさと深さを秋子は想うのだった。自らの戦後が永島とのことで決まった、と思うゆえんだ。
 わたしは秋子をなんども、東京都養育院(老人ホーム)にたずねている。小柄な人だった。さびしげだが、ときおりのぞく笑顔がわすれられない。木曽なまりも素朴だった。6人部屋をはなれて図書室にいることが多かった。いつも何か書いていた。かたわらには風呂敷包みがあった。書きためた自伝の原稿を入れていたのか。
 秋子は、若いころ離婚している。息子とは死別している。社会的地位もない。金もない。
 しかし、生涯手放さなかったのは、弱者、貧者へのやさしいまなざしだった。そして、社会への鋭い視点だったと、わたしは思うのだ。
 秋子がうけたという、永島の自死へのショックは、また素川絹子のショックだったかもしれない。素川は永島から夫をうばった人だ。永島は1年ほど入獄して出獄後、友人の熱田優子から夫、猪俣の不倫をつげられた。わたしは熱田から聴いている。素川は〈獄中の猪俣の救援に熱心だった〉という。永島は〈夫と話しあったがとりもどせない〉と悟って、秋子のいる満州へ渡るのだった。

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