21 鷹野次弥のこと
セミは早起きである。今年もまた、彼らはかしましい。
アジサイの花は出番を終えて、萎れている。ここを通るたびに花たちの色が変わっていた。買い物の行き帰りが愉しかった。
みえこさんは今、どうしているだろう。6年前まで住んでいた新座でのこと。彼女はダイエー内の狭山茶販売店で働いていた。休日は近くの畑で野菜を作っていた。太った、濃緑のキュウリを彼女と一緒にもいだものだ。キュウリを背負うと帰路は重かった。母子家庭のきうちさんの家にとどけた。
ある日、みえこさんがこんな話をした。1人暮らしの母が詐欺に遭ったと。300万円も。すごい金額だ。みぢかにも被害者がいるのかと、わたしはびっくりした。
母は通販で買い物をしていた。個人情報はそこから漏れたらしい。彼女は、詐欺屋の脅しに独りで対応し、どんなに怖かったか。2度目の被害はくいとめられたという。親族の知れるところとなって。老いた母を孤立させてはいけない。詐欺屋の手口には文脈がないのだ。でたらめにきまっている。3人寄れば、そのうそはきっと見ぬけるはずである。
大和田茂さんの『日本近代文学の潜流』(論創社)を読む。大和田さんは近代文学、プロレタリア文学研究家だ。分厚い本には、大正期から昭和初期にかけて活躍したプロレタリア作家たちの作品と人生が書かれていて、興味ふかい。たとえば細田源吉。細田の養家は川越の和風レストラン、近長魚店だと、大和田さんは書く。観光スポットとして有名な「時の鐘」の真正面にある。わたしは何度もその店の前を通っているが、1人で食べに入るのは、ためらわれたのだった。細田の少年時代のドラマは哀切だ。大和田さんの調査はくわしい。
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これまで「リハビリ日記」に書いたとおり、作家の鷹野つぎは9人の子を出産した。うち7人をなくす。遺子は、二男の鷹野次弥と三女の鷹野三弥子である。
三弥子のことはすでに書いた。追加すれば、三弥子は〈鷹野つぎの遺族であることを極秘にしてきた。兄もおなじで、級友たちは兄に妹がいることを知らなかった〉という。なぜなのか。理由はわからない。
さらに、三弥子はこうも語った。〈東京丸の内の会社に就職するとき、給料はいくらでないといやだと、半日もねばった〉おしの強さと頑なさは、父、鷹野弥三郎譲りのものかもしれない。後日、上司から〈あなた鷹野つぎさんの娘でしょ〉と言われたそうな。
鷹野次弥については書いていない。1度だけ電話で、次弥の妻と息子とは話している。息子の鷹野真一郎は〈三弥子叔母さんの死後、まだ、松原湖の家を整理してないんです〉といった。
次弥は世田谷中学時代、禅の思想にふれて影響をうけた。多感の時期、母、つぎの内面をふかく汲みとったのではないか。きょうだいが苦しんで死んでいくのに、どうしてもやれない。その無力感と諦念を、次弥は母と共有したのだと思う。さらに、母の仏教的信仰をいだくようになる。法学者の長尾龍一さんの「ある学生課長の生涯」に詳細だ。
1939年、次弥は母校の英語教師に就いた。
そして1961年から東京大学の事務官になる。
教養学部学生課長に昇格。学生運動の盛んなおりだった。次弥は東大紛争に苦労する。学生と大学とのパイプ役として。学生との人間的対話をとおして彼らの精神の奥にあるものを汲みとろうとした。が、疲労がたたり3月「激症肝炎」で倒れるのだった。56歳。
意識をうしなう直前、次弥は、母、つぎの名をよんだという。
22 鷹野つぎと親族の対峙
雨あがりの小道を散歩する。歩行訓練だ。カラスの鳴き声がきこえる。救急車のサイレ
ンの音がする。そばを新聞配達員のバイクがとおる。早朝なのにあわただしい。
わたしの背なかは曲がっているかもしれない。先週、リハビリ教室の理学療法士、伊藤先生から注意があった。嫌なことがあったりすると、知らず知らず、うつむきがちの姿勢になる。悩みを忘れようと夢中で書くからだ。
リハビリ教室「健康広場佐鳴台」にでかける。準備体操からスタート。3時間15分の授
業の最初だ。このあとは、生徒は各人の症状に合わせた体操をおこなう。伊藤先生の考案によるもの。わたしは新たに、床にタオルを敷いて足の指でつかむ運動に挑んでいる。むつかしい。至難の技にも想える。少しでもつかめているか。患足には感触がない。
次は傾斜台運動。背筋を伸ばして台の上に立つ。台の傾斜は10度。姿見の前で直立不動すること30秒。深見先生がストップウォッチをにらんでいる。背筋が伸び、脚のアキレス腱が伸びる。
生徒のもりべさんが〈ここへくるのがたのしい〉という。わたしも通所するのがうれしい。体操と体操のあいだにしばしの休み。先ほどから雑談中。1つテーブルに5人。過日の、元総理が銃撃されて死亡した事件について。わたしたちは、元総理の功績、美談はいっさい語らない。容疑者に関心がむく。〈お父さんはいないのかしら〉〈旧統一教会に恨みがあったんだってよ〉人は政治よりも生活に関心があるのだ。しばらく聴きいった。
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鷹野つぎは、見合い結婚があたりまえの時代に、大恋愛して結婚したのだった。両親から勘当され、生家を出奔している。
つぎは浜松高女の第5回生。わたしは、第8回生の阿部三千世と幼少のころ言葉をかわしている。つぎは、そんなに大昔の女性ではない。大恋愛して、物を書いて、自らの意志をつらぬいた。しかし、夫、鷹野弥三郎の強引なやり方には、生涯、恨みをのこしていた。つぎは、生家に1度も帰っていないのである。
11冊の著書は『鷹野つぎ著作集』(谷島屋 全4巻)として復刻・刊行される。と、親族の老人が母校の浜松市立高校に抗議の電話をかけてきた。〈あの不良娘の本なんぞ出すな〉と。電話をうけた教員が鷹野三弥子に知らせてきたという。
つぎの3つ年上の姉、重は市内の時計店に嫁いでいた。1人の息子と7人の娘をもうけた。彼女たちはみな浜松高女の出身だ。母につぎの著作集の刊行を知らせたのであろうか。老人の抗議は、あるいは、重の指示だったかもしれない。重は最晩年の病床でも妹、つぎの恨みを言っていたそうな。〈あの新聞記者と結婚していなければ〉と。親族は、つぎ夫妻の窮状をみて、みぬふりをしていた。それが明るみにされたくなかったようだ。
つぎは、重には自著をかならず贈っている。わたしは、重の娘の1人に取材したおり、それら単行本を見せてもらっている。つぎの署名がしてあった。
不良娘だからこそ文学が書けたのである。世間の常識と見栄を優先する親族との対峙なくして、鷹野つぎ文学は成立しない。文学は人間の生きる真実を追求するものだから。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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