リハビリ日記Ⅴ 25 26

25 犬塚せつ子のこと
 ウエルシアへ買い物に行く。シオトンボが低空飛行している。後ろ姿を追いかけた。と、ケイトウが目にとびこんできた。えんじ色の花たちが歩道のほうを見つめている。幼少のころからなじんだ平凡な花たちだ。
 7月、唐津で農業をしながら執筆活動をつづけていた、農民作家、山下惣一が他界した。
9月になり、NHK「ラジオ深夜便」が生前の山下さんのインタビューを再放送。中学卒業後、独学で作家の道を切り開いてきたという。「誰にでも向学心はある」印象的な言葉だった。
三島利徳さんが贈ってくれた「農民文学」を読む。第330号だ。三島さんは現在、信濃毎日新聞社カルチャーセンターの講師をしていて、この雑誌の編集委員である。
 第65回農民文学賞が発表されている。受賞作品は、大嶋岳夫さんの小説「父よそして母よ」と、小森雅夫さんの小説「ナデシの恋」。
 「農民文学」は日本農民文学会の発行である。会長は間山三郎さん。長いこと続いている、伝統ある雑誌だ。文学の存在意義を考えさせられた。言葉との格闘をとおして人の生き方を探るのが文学だと、わたしはあらためて思った。

 わが取材ノートには、犬塚せつ子のことも書きとめてある。せつ子は、前号の松本正枝と同じく、女性新生を掲げた雑誌「婦人戦線」に集まった女たちの1人だ。
 東京練馬の自宅を訪ねた。せつ子は「万葉集百人一首」について研究していた。同人誌に柳田芽衣というペンネームで小説を書いている長女と住んでいた。
 せつ子はいちずな人だと思った。往時を語るのがたのしそうだった。とりわけ、交流のあった高群逸枝のエピソードがおもしろかった。せつ子は松江高女卒業後、上京する。購読していた「婦人解放」で名前を知った女性史研究家の逸枝を独りで訪ねた。小説家の、平林たい子でも中本たか子でもなかった。逸枝は歓迎してくれた。
 〈論文は書かないの〉と逸枝が訊いてきた。〈書けません〉などとやりとりのあと、せつ子は「婦人戦線」の編集会議に出席したり、逸枝の自宅を訪ねては読後感や恋愛観を聴いてもらったりした。
 そのころ、逸枝と夫の橋本憲三は世田谷の「森の家」に住み、逸枝は研究に没頭していた。平凡社に勤める橋本の企画した円本がブームになり、逸枝にも印税が入った。橋本は退職。妻の研究のサポートに専念していた。〈まれに見る夫のあり方だ〉と、せつ子は批評した。
 「森の家」の玄関には面会謝絶の木札がぶらさがっていた。が、せつ子は室内に通された。逸枝は10畳間の座り机の前にいた。着物のひざにはペットのニワトリを抱いていた。せつ子のみやげのナツミカンに頬ずりする。〈逸枝には、そんな純粋なところがあったですね〉と。〈逸枝はいつも鏡をのぞくナルシストでした〉とも、せつ子は回想した。
 ある日、橋本がベッドの上から逸枝に〈きょうはこれまで〉と、命令口調で言った。〈夫に支配されてるみたいで、かわいそうに思ったですよ〉とも、せつ子は語った。
 「婦人戦線」は翌1931年、廃刊。せつ子は、大宅壮一・昌夫妻の仲人で養鶏業の男性と結婚するのだった。かれはのちにサラリーマンに転身。

26 せつ子の孫は柳田大元
 台風一過の秋晴れである。残暑がきびしい。
 なんとか、わたしは「鷹野弥三郎」を書きあげた。弥三郎は小説家、鷹野つぎの夫である。明治生まれの人だから面識はないが、書くうちに、どこかで話したことのあるような気がしてくるから、不思議だ。かれは美人の妻を同僚たちの前でよく自慢したそうな。つぎと実際に会った老女によれば、つぎの美しさは〈女優の比ではなかった〉という。
 「健康広場佐鳴台」に出かける。週1回の体操日だ。生徒数が増えていく。評判のよいリハビリ教室である。おのださんが〈ここへ来るのがたのしみだよ〉とうれしそう。
 3時間15分のトレーニングコースに新種目が加わった。バックキック運動。わが症状から判断した理学療法士、大瀧先生の指導だ。両手は鉄棒をにぎる。片方の肢をうしろへ蹴りあげる。そしてもう片方の肢をおなじように。右の患足はあがりにくい。が、新メニューにどきどきした。お尻の筋肉が刺激されて鍛えられるか。
 次はハードル運動。これは入室当初から行なっているもの。でも、緊張する。あわててハードルをまたいでいくと息苦しくなる。伊藤先生が〈安定してきました〉と声をかけてくる。足をなるたけもちあげる習慣をつければ、外での歩行中も足をひきづらなくなるか。
 1つ運動を終えると、わたしはほっとする。体操はたのしいが苦手なのだ。きょうは体力測定もあった。深見先生がストップウォッチをもって構えている。はらはらした。テストも、いつまでも苦手種目である。
 作家の辺見庸さんが、ツイッターからブログに帰ってきた。辺見さんの同居犬は「のん」ちゃんというのか。「スナ」さんはどうしているのかな。

 犬塚せつ子は、郷里で失恋していた。英語教師は〈女には思想はいらぬ〉と言った。〈百年の恋もいっぺんに冷めた〉。
 養鶏業の夫とは見合い結婚だった。同志の女たちの破婚を知るにつけ、せつ子は平凡な人を望んだ。かれは、妻の向学心や思索に介入してこなかった。
 郷里の宍道湖近くの小学校で、せつ子は教師をしている。雪ふかい製糸工場の2階に下宿。朝7時になると階下から、カチャカチャ、女工たちのご飯をかきこむ箸の音がきこえてくる。仕事前のあわただしいひとときだ。
 経営者の妻は、アンサンブルを着ておめかししている。女工たちは、マユの中に手をつっこむため手があかぎれでひび割れている。〈搾取されている。世の中まちがっている〉と、せつ子は気づく。貧富の差を実感するのだった。女性の解放をせつに願う。せつ子の14歳のおり佐賀県庁の官吏だった父が他界。母は物産陳列所に勤務。そんな働く母によりそう気持ちも、せつ子の女性解放をねがう背後にはあったろうか。
 1930年上京。24歳だった。まず英文タイプを習得したという。そして、女性史研究家の高群逸枝を訪問するのである。
 取材後のことだ。ラジオから、ジャーナリストの柳田大元さんがアフガニスタンに潜入してタリバン政権に身柄を拘束された、というニュースがとびこんできた。すぐさま、わたしは、せつ子の孫のことだと直感した。
 大元さんも祖母のように、いちずな人なのだろうか。その母の柳田智江さんがこんなことを話した。〈野村さんの自宅前で、息子は、帰宅するのを2時間もじっと待っていた〉と。野村さんは、ノンフィクション作家、野村進さんのことで、智江さんの長女の夫である。

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