リハビリ日記Ⅴ 27 28

27 石川すずのこと
 猛暑から解放された昼下がり。ウエルシアへ買い物に行く。サチコさんの小さな畑には、色とりどりの花が咲いている。彼女の愛情が伝わってくる。しばし見とれていた。オータムクロッカスの花が地面にせいぞろい。鉢植えではない。ピンク色の花びらが透明だ。可憐で美しい。サチコさんが図鑑で調べたら、別名コルチカムというそうな。
 男の女性蔑視と野蛮性は、旧態依然だ。元陸上自衛官の五ノ井里奈さんの、セクハラへの怒りのたたかいは、注目に値する。勇気ある行動であった。10月17日、五ノ井さんは、加害者の自衛隊員たちから直接謝罪をうけている。 
 男のセクハラは、その職業や学歴などとは関係がない。わたしが大学院生だったころのこと。院生2人が話しこんでいた。〈春休み、おれ、旅行して女を買ったよ〉〈そりゃおまえ、やばいぞ〉大学院修了後、1人は高校教師になっている。もう1人は大学の非常勤講師になっている。かれは、バイト先の大手予備校の女講師の父親に自宅へ怒鳴りこまれた。子供の認知をしろと。それもしないで、かれは教授に昇格してもセクハラをくりかえしてきたという。
 自衛官にしても院生にしても、女性の人格をまったく認めていない。女性も志望のもとに勉学や職業にまい進しているのだ、ということが、ちっともわかっていない。男優位の社会に、うぬぼれの強いセクハラ男たちは、あぐらをかいている。意識改革こそ必要だ。

 石川すずは、おっとりした人だった。小柄の、嫌味のない美人だ。女優の東山千栄子を想わせた。声が澄んでいた。作家、有賀喜代子の仲介で、わたしは、東京目黒の石川宅を訪ねたのだ。夫とも会っている。
 喜代子は、次女で心理カウンセラーの内田良子さんをとおしてすずと親しくなった。喜代子の『おらが蕎麦』(甲陽書房)の購読をいろんな人に、すずは勧めた。喜代子が主婦の立場で創作していることを尊重していた。
 すずは、第1回のメーデーから参加し、84歳まで1度も欠かさなかったという。〈目黒の赤いおばさん〉として有名だそうだ。目黒駅頭でビラ配りをする。婦人民主クラブの勧誘も熱心だった。書記長まで昇進したが、若い世代に意見を封じこめられ、折り合いが悪くなる。〈かつては中核だといわれ、こんどは反主流だと中傷されたわ。わたしは正しいことを正しいと主張しているだけなのに〉もう活動はしていない。婦民は、女性で構成する社会運動の団体だ。
 すずは、書斎から『平野謙全集』(新潮社)第6巻をもってきた。婦民の文学講座で購入し、著者の平野にサインしてもらおうとした。その日の講師は平野だった。しかし平野は不機嫌だ。新宿駅に迎えに来なかったといって。〈文学をやる女はみなブスだ〉と、生徒の前で暴言した。〈あなたの先生でしょ。病気で気持ちがいらだっていたのかしら〉と、すずは話すのだった。フェミニスト平野謙のこと。よほど、腹に据えかねていたのだろう。
 若いころ、すずは時事新報社に勤めていた。夫とは社内恋愛の果て結婚。退職後は、主婦として充実していた。片方で市民運動に専心している。
 すずは夫を〈お父さま〉と呼んだ。あったかさと愛情を感じたものだ。夫は妻の生き方に深い理解をもっている。かれは退職後、科学関係の論文を執筆していた。夫からは、同僚だった鷹野弥三郎のことを聴いた。弥三郎は作家、鷹野つぎの夫だ。

28 佐多稲子の猜疑心
 作家、瀬戸内寂聴の遺作が刊行された。9月下旬のこと。17編の自伝的短編集『あこがれ』(新潮社)。かわむら書店の女主人が配達してくれた。感じのいい人だ。30年以上営んでいるという。まちの個人書店は貴重な存在である。
 読了後、寂聴へのわが疑問が解けたようだ。なぜ、寂聴はかれと結婚したのか。そのことも書かれていた。かれは旧家の出身で、古代音楽史を研究する学者であった。寂聴は女学生のころ、学者の妻になることに憧れていたとのこと。しかし、かれとは離婚する。なぜだろう。直接は書かれていないが、全体を通読して、わかるような気がした。離婚は寂聴にとって必然の道だったのであろう。
 書評にまとめて「信濃毎日新聞」のデスクに送稿した。
 小春日和の静かな日。週1回の体操日だ。リハビリ教室「健康広場佐鳴台」に行く。会館の前まで車が迎えにきてくれる。運転は戸塚先生かな。道中、足がさっと前へ出た。わが進歩だ。歩幅もちょっぴり広くなっている。さらに、親指たちがしっかり開いて地面を踏みしめれば、歩行は安定してくるであろう。
 バックキック運動の成果か。足を後ろに蹴りあげる際お尻をしっかり閉める。注意して歩行の安定をさらにめざそう。
 藤田先生の指導で、床に置かれたタオルを足の指でつかむ運動をする。成功率は57回のうち1回。わが患足にはむつかしい。

 ロシア文学の翻訳家が、神学博士の夫と3人の子を捨てて、年下のロシア青年と烈しい恋をした。彼女は、ロシアに帰国したかれを追いかけるのだった。明治末年のこと。
 石川すずは、その新聞記事を読んで、瀬沼夏葉の強い情熱におどろいたという。
 歳月はすぎて、2人の間に生まれた娘がすずの前に現れたのだった。新聞記事を読んだとき以上に、すずは、大きな感動を覚えるのである。
 娘、金岡文代のことを誰かに書いてほしい。切望はふくらみ、すずは、知り合いの作家、佐多稲子を訪ねるのだ。文代を連れて。文代は2歳のときの、母と撮った写真を持っていく。
 稲子は、写真をじろりと見た。〈台紙がちがいますね〉と、ひとこと。
 後日、すずは稲子のはがきを受けとる。〈この話は持ちこまないでください〉と。作家の有賀喜代子も、このはがきを見ている。〈佐多さんは冷たい〉と言う。
 〈共産党を除名された人に冷淡な人がいますね〉とも、すずは話すのだった。
 稲子は戦後、作家の平林たい子のことを憶測の性格と非難している。
 猜疑心も憶測の性格も作家にありがちなものかもしれない。それは創作のモティーフになるものかもしれない。
 稲子は、創作は自身の内的モティーフによるものなのだ、と主張したかったのであろう。他人からの依頼によって書くものではない。すずの依頼は彼女の自己満足にすぎないと、稲子は思ったのではなかったか。

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