29 瀬沼夏葉のこと
ドアを開けると、青空が広がっていた。小さな、水色のチョウが、ひらりひらりと舞っている。意識しながら大股で歩いていく。先日、リハビリ教室の伊藤先生がこう言った。大股で歩けていることに自身気づくことが進歩だ、と。そういうことか! 四つ角の八百屋に鉢植えのシクラメンが並んでいた。もうこんな季節なのだ。師走。あわただしい。
ウエルシアのおにぎりは1個88円。据え置き。クリエイトは68円。こちらも据え置きである。しかし、多くの商品が値上がりしている。
夕食は、西隣のりえこさんが作ってくれたヒジキご飯。ほかほか温かい。とんかつにきざみキャベツが添えられている。ダイコンと油揚げの煮つけも、おいしかった。ほどよい味加減だった。
りえこさんの母、ちよこさんは夏に他界している。この地で生まれ育った。享年97歳。ときおり〈なみちゃ、いるけ。元気け〉と声をかけてくれた。律義の人だった。人間への関心と好奇心のつよい世代の人だった。会話は弾んでたのしかった。
ちよこさんが他界後、ほどなく、地域内の女性がなくなった。ほどなく、もう1人の女性が。つづけて3人。みな97歳だった。
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瀬沼夏葉は、明治・大正時代に活躍した、ロシア文学の翻訳家である。「桜の園」「三人姉妹」で知られるロシアの文豪、チェーホフを日本に初めて紹介している。
本名を山田郁子という。群馬県高崎の出身。山田家はロシア正教会の信者だった。1885年、郁子は10歳でニコライ女子神学校に入学する。トルストイ、ツルゲーネフなどのロシア文学に親しむ。さらにロシア語の研究を深めようとした。郁子の勉学を助けたのが神学校の瀬沼校長だった。
かれと郁子は結婚する。1901年、郁子は夫に連れられて小説家の尾崎紅葉の門をたたく。弟子入りを志望したのだ。鷹野つぎが夫の弥三郎に連れられて島崎藤村の門を、岡本かの子が夫の一平に連れられて川端康成の門をたたく。彼女たちは、夫のお墨付きで小説家のスタートを切っている。彼女たちの情熱と切望が伝わってくるようで、おもしろいエピソードだ。そして、彼女たちは文壇にデビューしていくのである。
尾崎は弟子の郁子に夏葉の号を与えた。郁子は文章指導を受ける。師、尾崎と共著で「あけぼの」などの翻訳を発表する。
女性解放運動の一翼をになった「青鞜」に賛助員として夏葉は参加した。チェーホフの戯曲を出版している。
30 瀬沼夏葉のひたむきな恋
作家の辺見庸さんがブログのなかで激しい口調の男性批判を発表していた。卑怯者。裏切り者。世故たけたアホなどと。言いえて妙である。男性は臆病者だ、とも、辺見さんにはつけ加えてほしかった。長い長い男優位の歴史がなせる結果なのであろう。わたしは最近、男の横暴に直面して立腹した。男のいない、1人暮らしの女を軽くみている。女を人として尊重していないのだ。起承転結のない請求をしてくる。従業員10人の社長だそうな。
新刊『私のことはわたしが決める 松本移住の夢をかなえたがん患者、77歳』(社会評論社)を読みおえた。著者は竹内尚代さん。定価は1700円。自伝的エッセイ集だ。
リハビリ教室に行く。欠席は2人。もりべさんは老人ホームからここに通っている。すたすた歩く。若いころから、ゴルフコースで足腰を鍛えていたという。男生徒たちはほとんど、歩行がおぼつかない。足が前へ出ないのだ。長いあいだの車通勤で歩くことから遠ざかってきたためか。
ハードル運動は毎週行なっている。3時間15分のすべての運動の中で、いちばん緊張する。片手で鉄棒つかみながら行なうが、緊張のあまり、うつむきがちになる。〈からだを立てましょう〉先生の声にはっとする。心臓がドキドキする。しかし、足を上げるためのよい訓練なのだから、がまんしよう。前歩きと横歩きをする。疲れてくると、ハードルを蹴ってしまう。担当の水谷先生が元の位置にもどしてくれる。〈後半は足が上がってましたよ〉ほめられると、うれしい。
次に足湯でひと休み。下半身がぽかぽかしてくる。至福の10分間だ。
理学療法士で施設長の伊藤先生は忙しそう。近所に姉妹教室が新設した。「健康広場佐鳴台南」両教室で伊藤先生は指導している。伊藤先生の給料があがるとよい。女の先生たちの給料もぐんとあがってほしい。
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市民運動家の石川すずに取材したときのこと。すずはこう語った。〈瀬沼夏葉について書く書かないは別として、彼女の存在を記憶にとどめておいてほしいわ〉と。すずは、夏葉の娘、金岡文代が目の前に現れたときは〈そりゃ、ビックリした〉という。感動のあまり、夏葉について書くことを佐多稲子と有賀喜代子に勧める。が、実現していない。
夏葉の恋人、ロシア人青年は当時、東大医学部に留学していた。ロシア文学を専攻する夏葉は、かれに近づき恋仲になる。ニコライ堂でデュエットしながら音楽をたのしんでもいたが、かれは母国へ帰っていくのだった。夏葉は妊娠していた。
夏葉はかれの後を追いかけた。かれの貴族という身分の両親は反対する。結婚を許さなかった。しかし、孫はかわいい。両親が孫と面会しているあいだ、夏葉は隣室で待っていた。
文代は日本人夫婦に育てられる。ロシアの父からは仕送りがあった。
その後、父は来日してロシアの国営通信社、タス通信支局に勤務する。
夏葉は1915年、急性肺炎で他界していた。
〈かれは夏葉の夫と仲良しだった。恋敵なのに男の人って不思議ねえ〉と、すずは文代の養父母から聴いた話をする。〈長身のかれは赤いルパシカを着て、中目黒駅で下車すると、すたすたと夜の家路を足早に急いでいた〉とも、すずは語った
かれは文代のことを心配して再婚するが、長くは続かなかったという。
『日本近代文学大事典』(講談社)第2巻のなかで、担当の柳富子さんは、文代のことには触れていない。
瀬沼作品については、瀬沼寿雄編『瀬沼夏葉全集 復刻版』(京王書林)で読める。2004年の刊行だ。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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