リハビリ日記Ⅴ 31 32

31 北村律子の怒り

 今年もまた、わが庭のウメの花が咲いた。1月31日。青空を背景に梅の古木は力強い。小さな白い花たちはしっとりとしている。遠州の空っ風に吹かれて散っていくが、1か月は楽しめるだろう。
 こんなに寒い冬は、かつてなかった。右の患足が金属の棒のように硬直している。手の指がかじかんでいる。不安定な気圧のせいだろうか。ラジオの気象情報から「気圧の谷と寒気の影響」という言葉を何度聴いただろう。コロナ禍のストレスもかなりたまっている。
 「文藝家協会ニュース」の担当者に拙稿を送る。新聞社のデスクと部長をちょっぴり批判した。原稿を書きながら、あのときの編集者のことを思いだす。
 彼らは進化していない。こちらの原稿にいきなりイチャモンをつけてくるのである。その理由がおかしい。背後に何かあるぞ。本当の理由をかくしている。保身のために。彼らの言葉は荒っぽく、態度は傲慢になる。うそっぽい。言動には最後まで責任をもってほしい。ジャーナリストとしてのプライドをだいじにしてほしいものだ。
 玄関のブザーが鳴る。誰だろう? 町内の自治会の人だ。浜松まつりの寄付金を集めにきたという。2000円。自主性を尊重してほしい。わたしはお断りした。わが家の玄関に現れるのは集金係がほとんどなのだ。元気かね。買い物の手伝いをするよ。やさしい声をかけてくれるような人はいない。各家庭、年間2万円以上の出費。この物価高で家計の苦しいおりなのに。文句を言う人はいないのか。町民は言われるままに出費する。男中心の町だ。他人への思いやりや助け合いの心を忘れている。ここが住みよい町といえるか。

 北村律子は懐かしい女性だ。実際に会って取材している。取材できなければ、律子は平野謙の文芸評論に登場する人にすぎなかった。昭和初期、革命運動の盛んなとき、女性活動家、律子は、福岡で日本共産党の幹部、西田信春のハウスキーパーをしていた。また、西田など活動家を警察に売りわたしたスパイの男と結婚し、かれと生涯をともにしている。彼女の心中はいかばかりだったか。

 わたしはこの日記に律子のことを書いた。女性読者から〈その後律子はどうしたの〉と訊かれた。律子は浜松市内で夫の鉄工場を手伝って暮らしていた。わが生家から車で20分ほどの所だ。しかし、元同志の道義的追及と忠告は後年までおよんだ。〈墓場までもって行くしかない〉秘め事を、律子は生涯かかえていたのだ。
 西田は共産党の中央オルグとして九州地方委員会を成立させるため福岡にやってきた。ハウスキーパーが必要なので探している。地元の党側に要求してきた。金子千代が断り、律子が承諾する。党はハウスキーパー制を採用していた。律子はこの制度の詳細を認識していたか。西田と律子は、2階建ての2階部分を借り若夫婦世帯の格好をよそおった。当時
 共産党は非合法だった。警察、世間の目を偽らなければならなかった。
 すでに、拙著『平野謙のこと、革命と女たち』(社会評論社)のなかに書いた。律子はスパイの男との結婚で責められ、ハウスキーパーの件は検証されないできた。志木の第一ホテルでわたしの取材に〈書かれるの恥ずかしいわ〉とは言った。しかし、律子は西田の実態をあばいたのだった。
 ハウスキーパー体験は、人前で自慢できるポストではない。どの体験者も秘して語らずあの世へ去った。律子こそ唯一の証言者だ。スパイの妻になったことより、まず、ハウスキーパーの任務のほうが検証されなければならない。律子の怒りや悔しさに寄りそわなければならない。それは今日に通じる男女の力関係だ。少子化にも通じる問題ではないか。
 律子は性を要求された。さらに、700円もの大金を西田にわたしている。酒屋を営む両親のお金をもちだしたのだ。律子はわが取材をとおして初めて明らかにした。平野も富岡多恵子も論文のなかで金銭面には触れていない。さらに律子は炊事、洗濯を負っている。
 西田には男女平等の意識はない。いいこと尽くめの男優先の傲慢しかない。律子など女活動家の革命運動への純粋なこころざしを踏みにじった。女活動家は便利な道具なのか。律子の怒りはここにあったと思う。この傲慢こそ、この国の男女関係の構図によるものにほかならない。

32 同志、牛島春子
 倉見藤子さんは、リハビリ教室のクラスメイトだ。背中にかばんをしょって浜松中央図書館に出かける勉強家である。地元の句誌に自作を発表する俳人でもある。生活実感のこもった、感覚のこまやかな俳句を作る。若いころからボランティア活動にも積極的だった。
 ある日、倉見さんが国際報道写真家の岡村昭彦と面識があると話した。

 大学生のとき、わたしは、近藤忠義先生に岡村昭彦の『南ベトナム戦争従軍記』(岩波書店)をすすめられた。その著書のなかに岡村は、母が浜名湖畔の舞阪町で保育園を営んでいると書いていた。

 母は岡村順子。倉見さんは順子と親しかった。順子が保育園といっしょに営んでいた学習塾で小学生に全教科を指導もしていた。

 順子は東京人だが、離婚して舞阪町の別荘に住んでいた。昭彦は子ども連れで順子のもとを訪れた。倉見さんはカトリックの信仰をとおして順子とは親しかったが、他界する10日前のこと。順子は倉見さんの家を訪ねてきた。〈虫が知らせたのかもね〉と倉見さんはいう。わがクラスメートはみな、背後にかけがえのない人生をたたみこんでいる。
 「健康広場佐鳴台」に行く。伊藤先生が〈体操を1つ1つていねいにやっている〉と、ほめてくれた。うれしい。そのとおりだ。原稿を書くのとおなじこと。せっかくのトレーニングなのだから手応えがほしい。滑車運動にしてもマシーン運動にしても、そそくさと済ませる生徒がいる。
 新メニューにローラー運動がくわわった。4つのローラーの付いた台のうえに右足をのせて前後にうごかす。すべりどめが付いている。ひざとアキレス腱とふくらはぎが刺激される。伸びる。10回。柔軟にもなっていくのか。反対の足をさらに10回行なう。
 次のハードル運動はきつい。前歩きと横歩き。うつむきかげんで集中する。トレーニングのなかの一番の難所だ。と思っていたら、理学療法士の指示で来週から歩行回数が減るようだ。

 牛島春子もまた懐かしい女性だ。福岡からミニレターを何通も書いてくれた。わたしは東京の喫茶店で1回だけ会っている。元同志の北村律子よりも小柄で地味な人だった。後年「祝という男」と題する小説を満州(旧、中国東北部)で書いている。
 春子と前田梅香は、共産党幹部、西田信春が早朝アジトから出勤すると、かれのハウスキーパー、律子のもとを訪れるのだった。3人は雑談する。
 春子は西田の指示で党の機関紙「赤旗」の編集、執筆を担当していた。〈西田さんは私にも月給?をくれましたが、勿論資金源は全くわかりません〉と、春子は手紙に書いてきた。
 律子が西田に手渡した700円のうちのお金などとは、春子は終生気づかなかった。気づけば春子は別の視点を獲得していたと思う。春子の、スパイと結婚した律子にたいする道義的追及はきびしかった。律子の家まで何度か押しかけてきたという。
 女性はたしかに、男性から抑圧もされ差別もされ蔑視もされている。さらに、女性どうしは分断され階層化されている。律子と春子のポストの違いにしっかりと注目すれば、そのことはよく見えてくるはずだ。
 90年前の革命運動下のことではない。今現在もつづている、この国の構図なのである。

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