リハビリ日記Ⅴ 33 34

33 木俣鈴子の屈辱
 青紫色のブドウのような花。背丈が10センチほど。これがムスカリなのだろうか。先ごろラジオで耳にした。地中の球根が知らないまに増えていく。さちこさんちの庭の片隅にひっそり咲いていた。
 夕暮れになるとさちこさんの家の庭には、5台の車がならぶ。家族の専用車だ。最近、赤い新車がお目見えした。たてに長くて高さが低い。ボディがしなうようだ。赤の落ちついた色合いも素敵だ。ホンダのディーラーをする長男の車だという。
 さちこさんはこの家の主婦である。幸せそうだ。午前中、家族の干し物が朝の陽とさわやかな風を浴びて気持ちよさそうである。
 6年前の退院直後のこと。散歩していたらリハビリ用の靴のベルトがはずれた。直そうと腰をかがめるや、さちこさんが飛んできてくれた。わたしはよろけずに済んだのだった。
あの時の親切は忘れない。その後も彼女のやさしい気遣いがうれしい。
 「文藝家協会ニュース」2023年4月号がとどく。「書評に思う」と題する拙文は掲載された。拙文のなかに作家で評論家の日野啓三のはがきの一部をを引用した。すべての引用は法的にできない。わたしは、引用しつつ日野さんの激励の言葉をあらためて噛みしめた。

 先の号に、ハウスキーパー体験者、北村律子のことを書いた。女性読者から〈律子がかわいそう〉〈ハウスキーパーのこと初めて知ったわ〉という感想がとどいた。律子は旅行することが好きだとも語った。文学書を携えて一人旅をする。若いころのハウスキーパー体験への怒りは、忘れられるものではない。孤独になり律子はどのように思っていただろう。
 律子の住居がわが生家の近くに在ったのは偶然のこと。もう1人のハウスキーパー体験者に木俣鈴子がいる。「日本共産党スパイ査問事件」の関連で知られる。鈴子はわが母校の先輩だ。これも偶然のこと。浜松高女(現、浜松市立高校)の出身者である。
 鈴子は、党の中央委員、秋笹政之輔のハウスキーパーだった。2人は夫婦をよそおって2階建て貸家に住んでいた。京王線幡ヶ谷停留所から7、8分の辺ぴな所にあった。治安維持法下、活動家への権力、警察の弾圧はひどかった。
 1933年12月下旬。貸家2階で「共産党リンチ事件」が起きるのだった。党は大泉兼蔵と小畑達夫へ特高警察のスパイの嫌疑をかける。中央委員、宮本顕治が主導し、2人は査問にかけられた。その過程で小畑は気絶し、死亡する。こん棒で殴られるなどリンチが加えられたのである。
 鈴子は階下で「赤旗」のガリ版をきったり、男たちの朝食の用意をしたりしていた。残忍きわまりない事件とは直接関係ないとはいえ、鈴子の心のショックは深かったろう。
 秋笹はこの事件後、40歳で獄中死している。
 〈思いだしたくもない〉。鈴子は市原正恵に応えたという。市原は女性史研究家で静岡に住んでいた。1979年ころ鈴子に取材を申しこんだが拒否された。〈自分のしたことはたいしたことない〉くだんの事件から45年がすぎていた。ハウスキーパー体験は、律子とおなじく、他人に自慢できるものではない。鈴子自身の言葉を市原さんに聴いてから、わたしは、鈴子の絶望と屈辱感をよりつよく感じるようになった。
 市原は〈1度だけ鈴子を遠望している〉とも語った。市原の元夫は歴史学者の原口清だ。原口の親友に鈴子の甥がいる。50代で他界。その葬儀に市原も参列し、そこで叔母として出席していた鈴子を遠くから見かけたのではなかったか。
 市原は、松本清張作品から鈴子の存在を知る。〈鈴子は長いこと岩波書店につとめて、岩波茂雄に拾いあげられたんでしょ〉とも語った。創業者の岩波は鈴子を解雇しなかった。その進歩性を感じる。鈴子はのちに重役に昇進。岩波新書の編集製作に尽力したという。
 平林たい子のことで「東京朝日新聞」縮刷版を順次調べているとき、わたしは鈴子の存在を知った。「赤の三姉妹」という小見出し。1934年1月の記事だ。木俣鈴子、てる子、郁子の父は、浜松市の「資産家」。鈴子は「27歳」で「東京女子大出身の女党員」とあった。
 帰宅して市立高校の同窓会名簿を開いた。3人の名前はあった。長姉の貞子がいるので4人姉妹だ。うち3人が革命運動に関わったのか。鈴子は、良妻賢母の堅苦しい校風をうち破りひろい海へ出た。新しい思想を獲得し自らの可能性に挑戦したかったのだろう。
 姉妹の同窓生にたずねることもしてみた。〈口数が少なく、成績優秀な姉妹でしたね〉という。妹のてる子は昭子と書く。さらに、郁子は幼少のころ親族の養女になっている。新聞記事には「従妹」とあった。姉妹は東京女子大、日本女子大を出ている。鈴子は1908年3月生まれである。父は地場産業・繊維問屋「木俣物産」を経営しているなど、わかった。
 郁子に電話取材もした。郁子は鎌倉に住んでいた。率直に応えてくれた。つよい口調であった。男中心の革命運動下での傲慢さを痛烈に批判した。踏み台にされた女活動家の悔しさは底ふかい。怒りとともに、他人にわからせたい寂しさも、郁子は心に沈めていたのではないか。わたしは、郁子の言葉から鮮烈な印象をうけたのを忘れていない。
 拙著『平野謙のこと、革命と女たち』(社会評論社)も読んでほしい。

34 木俣鈴子の結婚
 近代文学研究家の大和田茂さんから送られた「群系」49号と冊子「顕彰会通信」25号は、貴重な文献だ。前者に大和田さんは「志賀直哉と松江」を発表し、研究を継続している。名和哲夫さんの「藤枝静男評伝」なども掲載される。
 後者の通信は「堺利彦・葉山嘉樹・鶴田知也の三人の偉業を顕彰する会」が発行。思想家・小説家の在りし日の姿に接するのはたのしい。鶴田の第3回芥川賞受賞決定当夜の写真には親族一同がならんでいる。興味ふかいものだ。
 リハビリ教室「健康広場佐鳴台」に行く。きびしい寒さで家にこもりがちな日々から解放される。外は陽気だ。出席者は多い。みんなうれしそう。体操することの効果をだれもが実感しているみたいだ。
 いちばん難儀していたハードル運動の回数が今週から減った。これくらいが適当かな。数多くを、がむしゃらに行なえばいいというものでもなさそうだ。臨機応変という自覚を、伊藤先生から教わった。
 授業は3時間15分の体操。わたしより年長のくらみさんは物足りないという。わたしは充分だ。毎週のくり返し効果に期待している。10分間のバイク運動が、いまのところわくわくする。ヘルメット着用の努力義務はさぼって、わたしはすいすい漕いでいく。
 介護職の藤田先生が〈「リハビリ日記」が更新されてませんね〉と、声をかけてきた。

 これも女性史研究家の市原正恵の教示だ。〈木俣鈴子は、堀江正規(まさのり)と結婚しました〉という。堀江は〈マルクス経済学者で、せいきと呼ばれて、その分野では有名でしたよ〉とも。鈴子の結婚を知り、わたしはなぜだか理由もなく安堵した。
 堀江と鈴子は、思想的に共感したのだろうか。戦後のこと。堀江は日本福祉大学の教授をしている。『堀江正規著作集』全6巻(大月書店)がある。
 さらに調べていくと、2人は同郷人なのだ。正規の父は浜松舞阪町出身の堀江耕造。浜松工業専門学校の教授で、実家は茗荷屋旅館である。正規の下に2人の弟がいた。堀江忠男は早稲田大学教授で、サッカー選手、指導者としても知られる。
 正規の従妹がこんなことを話してくれた。77歳。寺の住職夫人だといったが、ざっくばらんな女性だった。〈正規は読売新聞社に勤めていて妻がいた。婦人雑誌の記者をしていた。あっさりした人だったのにねえ、どうして別れたのか。その後会ってません。正規は左寄りの人と再婚したというけど。戦後、勢いがついて一緒になったんでしょ。正規はいい男ではなかった。2人の弟のほうがよかったです〉と。
 住職夫人には正規と鈴子の結婚には異議があるみたいだった。しかし鈴子は、かれを自身の意思で選んだのだ。そこには中年の恋物語があったのかもしれない。
 鈴子最晩年のこと。正規は64歳で他界している。東京八王子のキリスト教関係の介護病院に入院していた。誰とも会えないと受付係は応えた。わたしは鈴子とは会っていない。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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