35 藤原ていのこと
新緑のあちこちに白いリボンが結ばれている。ハナミズキの花たち。隣家のその高木は年ごとに伸びている。むかしはカシワの木が植わっていた。
5月5日。ウエルシアの柏餅を食べる。餅は本物のカシワの葉っぱに包まれていた。なつかしい。幼いころ姉と作った柏餅は、あんこがたっぷり入っていた。わが庭のカシワの葉っぱで包んだ特製のでかい柏餅だった。それに比べれば小さくて、お上品なウエルシアの柏餅。ほおばりつつわたしは浜松まつりを想う。
いまごろ、浜松駅前の大通り800メートルを「家康公騎馬武者行列」が通過しているだろう。NHK大河ドラマの家康に扮した松本潤が見たくて市民は集まるのかもしれない。夕方のニュースでは、松本は68万の来場者に呼びかけたという。来場者が68万人も? 浜松市の総人口は79万人。5月は野良仕事で多忙な時期だ。市の広報課は厳密であってほしかった。ほらを吹いてはいけない。沿道の観覧エリアには2万2千人。これとて多すぎる。リハビリ教室の先生は、立ち見席から松本の騎馬姿をちゃんと見ることができたそうな。
長野の三島利徳さんから文芸誌「農民文学」をいただく。三島さんは編集委員だ。日本農民文学会発行の333号。第66回農民文学賞の受賞作が発表されている。受賞作は、鬼伯の時代小説「茂左(もざ)」。終章まで読ませておもしろい。作品舞台は江戸だ。飢え死にだなんて、大人しく死んでたまるか。大殿さまに訴える農民の憤りには真実味がある。貧者、弱者のやるせなさは、なんともせつない。
この直訴をめぐる人間ドラマを現代版として読めば、そこには作者の心情が色濃く投影しているのではないか。1948年生まれの作者は元校長。本名は須藤澄夫。日本の食糧事情をないがしろにする政府、官僚の怠慢を批判する。だが自分はどうすることもできない。せめて農民の側に愛情を寄せたかったと、鬼伯さんは執筆動機を「受賞のことば」のなかで語る。
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その日は晴れていた。講師の藤原ていは、紺と白のチェックの上着に水色のブラウスを着て初秋の装いだった。わたしは女性セミナーに参加した。「生きる―私の歩んだ道を通して」と題する講演。聴衆はメモをとり熱心であった。
ていは、1949年刊行『流れる星は生きている』(日比谷出版社)の著者である。
直木賞作家、新田次郎の妻だ。数学者でエッセイスト、藤原正彦の母でもある。
『流れる星は生きている』は、満州(現、中国東北部)からの引き揚げ体験を書いた自伝記録だ。戦後の大ベストセラーになる。わたしは中公文庫で読んだ。諏訪高等女学校(現、諏訪二葉高校)出身のていは、先輩の平林たい子とおなじように、その文章は簡潔で平明だ。壮絶な体験はじつに衝撃的である。
1943年、ていは、日本統治下の満州に赴任中の夫のもとへ2人の子とともに渡る。夫は中央気象台に勤務していた。そして翌々年、1945年8月8日、ソ連軍侵攻。36歳、課長の夫は玄関から引きずられていく。死なないで子どもたちのために帰ってきてくださいよ。妻は呼びかけるが、夫は連行されてシベリアに抑留される。
終戦後、ていは残された3人の幼な子を連れて内地に帰る。1946年ころから病床のなかで体験を記録するのだった。
満州から引き揚げる収容所でのこと。ていは500人を率いる団長だ。長男と次男がいない。探すとよその食卓の前で指をくわえて見ているではないか。その家族はたまごはんを食べている。さっと、母は2人を連れ帰ろうとした。長男は従ったが、次男は床に転がって反抗する。白米に卵をかけたご飯なぞまったく手がでない。わが家はゆでたオオバコに塩をかけたものを食べている。誰もが木の実や草を食べて飢えをしのいでいるのに。
内地に引き揚げると、ていはその家族の行方を追跡。次男と同年の子が東京御茶ノ水の病院に入院していることをつきとめる。重い結核だという。わが庭に咲きみだれるコスモスの花をひとかかえ持って見舞えば、その家族はどんなに喜ぶか。理性ではわかる。しかし、まず行かない。絶対行かぬ。気が狂わんかぎり行きません。
大きな声をいちだんと高めて、ていは語るのだ。
気のつよい、いや、率直な人だとわたしは思った。講演のなかだからこそ語れる真実にちがいない。厳しい拒絶の背後には、それだけの理由があるのだ。50年たっても、他人に軽蔑されても、激しい怒りと悲しみは残る。ていの心の動きは共感できる。
〈貧しさが平等ならよいのに〉。ていの信念は今現在も生きている。
36 藤原ていの執念と反戦
リハビリ教室「健康広場佐鳴台」に行く。室内は広い。3時間15分の授業中にかなり歩行する。暖かくなり歩行はらくになった。猫背になっていないか。背すじは伸びているか。
自らチェックする余裕ができてきた。
施設長の伊藤先生をのぞいてスタッフはみな女性だ。とりわけ介護職の先生は、この職場に行きつくまでの職歴が問われるようだ。人間関係にもまれ多くの体験をもつ先生のほうが、生徒に活気と安心をあたえる。
マシン運動も円滑にできるようになった。わたしは皆勤でがんばっている。
新入生のいしのさんは、小柄でからだの柔らかそうな人。ものしずかに笑う。わたしの隣席に座った。最近熱海から越してきたばかりだという。五月みどりの店で2度ほどアクセサリーを買ったと話す。80歳をすぎた歌手のみどりがどうしているか。いしのさんは熱海駅前の店でときおりみどりの姿を見かけたようだ。〈熱海はわくわくする街でしたよ。浜松に越してきたのが悔やまれるくらい。山の上のマンションから階下にひろがる夜景は、そりゃ、すばらしかった〉。
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藤原ていは、過去のつらかった日々を語りつつ、脳裏ではその情景を再現しているのだろうか。顔がゆがんでいく。大宮ソニックシティーで行なわれた女性セミナーでのこと。聴衆は聴きいり講師、ていはさらに熱くなる。
ときは真夏。ていたちは、満州から海沿いを逃げて南下しつつ、数知れない死体を目のあたりにする。ていの足もとで、団長もうだめだと言って男の人が死んでいく。木には遺体がぶら下がる。仮死状態の人が草むらに転がる。死体ははらわたが裂けていた。その部分から腐っていく。アカイヌがそれをついばむ。食われるまで死体は放置されたまま。夜になるとそのアカイヌを人たちが食う。酒の肴にするのだ。
ていは内地へ引きあげる500人の団長。大声でしゃべりまくるので指名される。
あの、夫婦と2人の子どもの家族は、収容所でたまごはんを食べていた。許されない。自分たちだけが生きのびればよいわけはない。先に死んでいった人たちが現にいるのだ。 ていは物乞いもした。お捨てになる物があったら1つでもください。子を連れて見知らぬ家、家の玄関にたつ。屈辱と惨めさがよみがえるかのように、ていの顔がさらにゆがむ。
〈いのちのもとに人間はすべて平等なのです〉。
あの家族の子どもは、重い結核にかかった。ざまあ見ろとは言わない。しかし当時にあって、白米は正当なルートでは入手できないものなのに。高慢は許されぬ。病院に見舞うことは断じてしませんと、ていは声を高めるのだった。
〈何十年たっても、過酷な戦争は否定されるものです〉。
〈日本人は考えることをしなくなった。自分を失ってはいけない。人間らしい生き方をしようじゃありませんか〉。
2016年、作家の藤原ていは98歳で他界している。
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