37 藤原ていのあかぎれ
夫婦ともに無愛想な八百屋さん。店頭に売れのこった青紫のアジサイの花は、何か、もの言いたげだ。清らかなガクアジサイよりも、彼女の姿は、わが目にあざやかに飛びこんできた。
午前11時10分。「宅配クック123」の昼食がとどく。時間どおりだ。〈おせわさま〉と職員に声をかけようとするが、昨日からしゃべっていない。うまく声がでてこない。たった1つの弁当でも無料でとどけてくれる。わたしは毎度恐縮する。お惣菜5品とごはん。1食でたんぱく質20グラム以上が摂れる内容だという。栄養のバランスのとれた食事を味わう。1品ごとに味つけがこもっている。オクラの胡麻和え。ナスと挽肉の味噌炒め。サワラ塩焼きなど。どれもおいしい。
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女性セミナー終了直後のこと。80人の聴衆の1人が講師の藤原ていにたずねた。〈先生は従軍慰安婦についてどう思われますか〉と。〈彼女たちは好きで行ったのではない。強制的に行かされたのだから、国家が謝罪とともに補償をすべきです〉と、ていは明快に応えたのだった。すぐさま、その場を去っていった。お忙しい作家なのであろう。あちこちの教室でエッセイの書き方を指導しているという。少し腰をかがめて歩く。小柄の人のどこにあの迫力は潜んでいたのだろう。
戦争は2度としてはならない。その信念がつよく伝わる講演だった。わたしは実際に、藤原ていというおんな作家の姿が見たかったのである。行動力の人を実感したものだ。
帰りのエレベーターに乗りこむと〈戦争中の話に感動しました。いつ聴いてもいいですね。何か読んでますか〉と、中年の女性が話しかけてきた。〈『流れる星は生きている』を読んでます〉と、わたしは応えた。
ていは講演中〈みなさんにお目にかかれてうれしい〉と言って、わたしたちとの出会いを喜んだ。顔には笑みがうかんでいた。
そして4回、足の裏の後遺症について語った。冬になるとあかぎれになるという。裂けて血がにじむ。足裏に体重がかからないよう机上に両手をつく。〈だんだん偉そうな姿勢に
なってくる。生意気な態度をどうか許してください〉。1時間30分の初秋の講演だった。ていは1年中、あかぎれに悩まされていたのであろう。晩年はとくにひどかったのではないか。1945年8月半ばから翌年にかけ、3人の子どもを連れて旧満州から内地へ引き揚げるため過酷な逃避行を体験している。500人を率いる覚悟の道中だった。
38 長野の6人のおんな作家たち
6月8日付「辺見庸ブログ」に、のんちゃんの写真が掲載されていた。いつ見ても、かわゆらしい。おくゆかしい。なによりも、かしこい。作家、辺見庸さんの同居犬だ。14歳半。辺見さんの病後の1人暮らしを精神的に支えてきた。スナさんが撮影したものか。辺見さんは毎週木曜日、スナさんとデートしているようだ。場所はスタバ? テラス席にのんちゃんが座る。向かいに紺の上着の辺見さんが腰かける。安息のひとときかもしれない。
7月31日『入り江の幻影 新たなる「戦時下」にて』(毎日新聞出版)が刊行される予定だという。2200円。
昨年から今年にかけて、気圧の異常な変化と不安定のせいか「ブログ」からは、辺見さんの右半身の肩だの腕だのの激痛の悲鳴が伝わってくる。たまらない。からだが重たい。どうしようもない。麻痺は努力しても解消しない。やっかいな後遺症なのだ。
きょうは朝から暑い。風はない。リハビリ教室「健康広場佐鳴台」に行く。
3時間15分で11種目の運動を行なう。その合い間に休憩がある。テーブルの上にアンケート用紙の回収ボックスが登場した。よい企画だ。要望などをとおして教室内のコミュニケーションが円滑になるのであろう。わたしはまだ利用していない。
運動の効果はたしかに重複している。足の筋力強化の効果は、マシーン運動でもレッドコード運動でも可能なのであろう。そのくり返しこそが大切だ。
生徒のもりべさんは、性格のおおらかな人。からだが柔らかそう。ウエストがくびれている。若いときから心身を鍛えてきたのであろう。グループホームからここに通ってくる。ホームの入所者はみな車椅子を使っている。話しかけても反応がない。それが物足りないと、もりべさんは不満そう。個室で独り読書する。拙文も読んでくれた。〈うまい。3回じっくり読んだわ〉と言う。〈看護師さん、あたしの現在の立ち位置を説明してください〉と、理屈っぽいことをたずねる人でもある。
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藤原ていは茅野の出身だ。長野県のおんな作家の1人である。わたしは1988年3月から1991年12月まで「信濃毎日新聞」に伝記的作家論を連載していた。平林たい子、有賀喜代子、八木秋子、平林英子。みな長野のおんな作家だ。ただ喜代子だけは東京生まれで執筆活動を長野で行なっている。しかし、当紙が書評欄を通信社の配信原稿から独自のものに変更した。わたしも書評を担当することになる。連載を予定していた藤原ていと一ノ瀬綾の作家論からは遠ざかってしまった。
ていは講演中にこんなことを話した。母親が〈誰に似たのか、ばか娘〉と言って嘆いたそうな。ていは諏訪高女専攻科を1年半で退学して家出する。父親は校長で、妹も弟も教員になっている。母の嘆きはわかるけれども、ていが引き揚げ体験を発表して作家デビューを果たしたその快挙については、母はどう思ったろう。
この原稿をまとめるため、わたしは過去の取材ノートを読みかえした。ていが引き揚げ団の団長だったことに改めて驚いたのである。
ていは自分は気がつよい。しかし気の強さを直すことはないとも言った。
気の強さは、わたしが直接取材した、秋子、喜代子、英子、綾にも共通するものだ。
作家というのは、自身のちからでその道をきり開いていていくもの。気がつよくなければ困難はのり越えていけない。そして、ていは行動力の人だ。気のつよさこそが、行動力のバックボーンになっていたにちがいない。さらに注目すべきは、ていの、不公平への怒りである。この精神性と社会性をわたしは尊重したい。
『書くこと恋すること―危機の時代のおんな作家たち』(社会評論社)、「有賀喜代子―わたしの気になる人」(ちきゅう座)、「一ノ瀬綾―わたしの気になる人」(ちきゅう座)を読んでみてください。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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