リハビリ日記Ⅴ 43 44

43 佐多稲子の絶交状
 黒姫山の裾野にひろがるコスモスの花たちは、涼風に揺れていた。いちどきにこんなに多くの、色とりどりのコスモスを目にするのは初めてだ。夕方の高原を散策する人は多かった。わたしは新聞社をたずねた帰路、バスでたち寄ったのだった。コスモスの季節になると思いだされる風景である。
 高校時代の同級生、いけやさんからはがきが舞いこむ。律義な人だ。イカネクタイとセーラー服姿は〈遠くになりにけり〉と、いけやさんは書いている。毎日、炎天下の畑仕事。例年にない猛暑にずいぶん手抜きをしたとも。「リハビリ日記」を地元の図書館で読んでくれている。その感想もうれしかった。
 宅配クック123から祝いの最中をいただく。敬老の日が近い。四角いひらたいもの。おいしかった。昼食の弁当も味わいながら食べる。5つの惣菜のなかの赤い物は何だろう? しゃきしゃきと歯ごたえがある。めずらしい。食後、急いで会報誌「あはは」10月号を開く。献立一覧表には「赤ずいきの酢の物」とあった。傍らに赤ズイキの写真がある。ズイキとはサトイモ類の葉柄のこと。少女のころよく見かけたあれだ。管理栄養士の調理方法で、こんなにもおいしいメニューに変身するのだ。
 最中が最中を呼んだのか。翌日、町内の自治会からも最中がとどく。まるながのおなかに餡がいっぱい詰まっている。が、ちょっと不思議な気がした。餡が皮にはみでて白く乾燥している。中身は随分あまかった。
 数日後、回覧板が回ってきた。最中は食べずに廃棄してくれ。餡の甘さの濃度が不足していてカビが生じた、というのだ。連合会長は、今後は製造元に連絡してくれと。店主の詫び文もあったが、会長の言葉はつれない。なにが敬老のお祝いなのか。最後まで責任をもって町民によりそってほしかった。最中は3度に分けて製造したそうだ。
 中学時代の同級生に電話をかける。かれの地域では、腹痛などをうったえる人がいたとのこと。彼女の夫はすぐに食べなかったので難を免れた。

 先号で取りあげた熱田優子はこんなことも話した。佐多稲子が湯浅芳子に絶交状を書いたという。受けとった芳子はしょんぼりする。親友の網野菊がどうしたのと尋ねてくる。芳子のショックは大きかったようだ。
 菊から打ち明けられたという優子の話に、わたし自身ビックリした。「田村俊子賞」の背後にはこんなこともあったのか。稲子の烈しい性分も知ったのだった
 田村俊子賞授賞式の日。芳子の怒りは爆発。主宰する「田村俊子会」は芳子が中心に運営されていた。稲子は賞の選考委員だ。稲子はこの日も「婦人公論」の記者2,3名を連れてきた。さきの選考の日にも連れてきた。彼女たちは騒いだ。腹に据えかねていた芳子は、ものすごい剣幕で稲子をどなった。
 ついに絶交状を書く。稲子の心の動きはよーくわかる。公的な場でのこと。稲子の面目は丸つぶれだ。
 〈芳子はものをずけずけ言って、そりゃ付き合いにくい人よ。だけど、仕事は徹底していて新劇の脚本の翻訳はみごとだった〉と、優子は言う。さらに〈 芳子は稲子のこと、ああいう如才ない人は嫌いだ。どの人にもいい顔をする〉とも言った。
 作家というのは、選考会にひいきの記者たちを連れていくものなのか。わたしは絶交状より、このことにビックリする。当時稲子は70代。のぼりつめた作家的地位へのおごりの気持ちがなかったか。
 ある文芸評論家夫人がこんなことをわたしに話した。〈稲子さんは文芸評論家よりも、作家のほうが上だと思ってます。見下ろしている〉と。稲子の手紙を読んで、夫人はそう感じていたようだった。
 稲子が絶交状を芳子に突きつけたその翌年、田村俊子賞は廃止されている。

44 田村俊子賞と佐多稲子・湯浅芳子
 黄色いチョウがひらひらと舞っている。今年もこんな季節がめぐってきた。空は青くて雲は白い。秋日和だ。しかし心は冴えない。
 10月初めラジオから、ジャニーズ事務所の2回目の記者会見の模様が流れてきた。会場には多くの記者が集まっているよう。事務所側からは新会社の社長、東山紀之さんと副社長、井ノ原快彦さんが出席。前社長の藤島ジュリー景子さんは欠席。
 藤島さんは初回の会見では、テレビで見るかぎり、やる気満々のキャリアウーマンの印象ではなかった。控えめの人なのかもしれない。今回は手紙を託した。井ノ原さんが代読する。
 彼女の手紙文は感銘ふかかった。思わず聴きいる。形式ばっていない。飾り気のない素直な文章だ。自分の言葉で語っている。とりわけ「法を超えた救済」がしたい、叔父の「性加害は許せない」という意思表明と責任の自覚に、わたしは注目した。母の横暴についても触れていた。藤島さんは、人生のつらさを抱えた人にちがいない。
 記者たちは、2人の男をつるしあげてイチャモンをつける。2人に何を求めようというのか。まず自身に問うてほしい。そしてマスメディアの責任とは何なのかも。
 リハビリ教室「健康広場佐鳴台南」に行く。きょうはくらみさんと再会できる。わくわくする。くらみさんも清水先生のストレッチ施術の効果に期待している。わたしはすでに10回うけた。〈足首が柔らかくなってきましたよ〉と、先生は言う。
 ベッドに横たわり、両膝を立てる。お尻を上げること10回。〈中殿筋がついてきましたね〉下半身が安定すれば歩行にも自信がついてくる。
 次のトレーニングは伊藤先生の指導だ。両ひざのあいだに中くらいのボールをはさむ。両サイドから強く押す。ボールは落としてはいけない。そばから伊藤先生の目がきびしい。両サイドからの均等な運動だ。右サイドの力が弱いと、先生から指摘される。意識して右サイドにも力を入れていこう。患足をさらに鍛えていこう。

 佐多稲子と湯浅芳子の激しい対立がなかったら、田村俊子賞は継続されていたのではないか。第17回で終わっている。
 作家の田村俊子は1936年、カナダから帰国し、文学界に復帰する。1945年4月16日に他界。死後の印税は、俊子に遺族がないため、田村俊子会が保管する。これを基金に田村俊子賞は1960年に創立されたのだった。女性作家のすぐれた作品に贈るというもの。
 第1回は瀬戸内晴美(寂聴)の『田村俊子』(文藝春秋新社)が受賞。竹西寛子の『往還の記』(筑摩書房)などがつづく。最後の第17回は、武田百合子の『富士日記』(中央公論社)が受賞した。
 毎年、授賞式は4月16日、鎌倉東慶寺の田村俊子記念碑の前で行なわれてきた。
 女性作家のすぐれた作品はそれ以降も生まれただろうに。女性史研究家の村上信彦が『日本の婦人問題』(岩波書店)のなかに書いていた。女どうしの対立が運動に支障をきたすこともあるのだと。
 女どうしのけんかが災いしたその1例だったろうか。昔のことではない。今だってあることだ。
 佐多稲子は先まで読んでいたか。後続する女性作家のことを思っていたろうか。

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