リハビリ日記Ⅴ 45 46

45 林芙美子の接吻
 今週は、どんな花が迎えてくれるだろう? 送迎車はぶじにリハビリ教室に到着する。テーブルの上にはピンク色の小さな花ばな。サザンカやコスモス。どれも可憐だ。
 先ほど、車窓に飛びこんできた佐鳴湖の広がり。紫がかった茶色の湖面は静寂で、初冬の風景である。さざ波を打っている。送迎車は高台を走っていた。
 ゆい先生とひろき先生がマラソンの練習をしていないか。じっと眺めたけれど、その姿はなかった。2人はすずかけセントラル病院の理学療法士だ。
 そうだ。この辺りには中学3年のとき遠足で来たことがある。原っぱだった。今は住宅地だ。老人ホームもある。ここに「健康広場佐鳴台南」教室の生徒が住まう。あいこさん。小柄だが足のたっしゃな人。口数の少ない、おとなしそうな人だ。
 3時間15分のトレーニングは充実した。伊藤先生と清水先生の指導はていねいだ。
 岸田首相が国民への説明に必ず「ていねいに」という言葉を用いるが、うそっぽい。口をぬぐっているだけだ。危機感も想像力も伝わってこない。ていねいさなど皆無だ。
 伊藤先生も清水先生もわが脚のぐあいをよく見てくれる。その分析の説明はていねいである。前回の施術でのこともよく記憶している。患足の踏みこみ方が安定し、さらに強くなればよい。先生たちの言葉に、わたしは信頼をおぼえるのだった。
 〈手が冷たーい。温めましょう〉介護福祉士の内藤先生が言う。足湯につかりながらわが手はホットパットに包まれる。ぬくぬくしてくる。
 東京の知人から電話がかかる。還暦を過ぎたという。90代の両親の介護がたいへんのようだ。〈長生きなぞしたくないですよ〉妻は妻で、実父の介護を別の地でしている。〈父はからだは丈夫だが、気持ちがせかせかしててね〉知人自身は椎間板ヘルニアをわずらい、つえを使っている。
 かれは読書好きの人だ。黒井千次、日野啓三、坂上弘などを愛読している。古書店をまめにまわる。拙著『本たちを解(ほど)く』(ながらみ書房)を見つけたという。わが書評集だが、なかでもとりわけ3冊の本が目にとまった。探して読むつもりだそうな。

 なぜ林芙美子は、だしぬけに八木秋子に接吻したのだろう? 1930年ころのこと。2人は「女人藝術」編集部の仕事で九州へ旅する。18日間という長旅での初日。よろしくね。芙美子のメッセージだったのか。いや。結論を先に書けば、芙美子の生き方にかかわるものではなかったか。単なる性衝動ではない。このパフォーマンスこそ、じつは芙美子の「漢口一番乗り」の有頂天に通じるもの、と思うのだ。
 秋子の門外不出の話は「信濃毎日新聞」の伝記的作家論の連載にはじめて書いた。しかしそれ以来ときに、わたしはなぜだろうと考えるのだった。
 秋子はこうもつけくわえた。〈林さんの口臭がそりゃひどかったの〉秋子の顔はゆがんだ。しかし、口臭なんぞ芙美子の恥ではない。
 2002年8月。練馬区文化センターで、井上ひさし・作「太鼓たたいて笛ふいて」の音楽評伝劇を見た。こまつ座公演で、林芙美子を大竹しのぶが演じた。
 芙美子の生きざまは振り子が大きい。180度の旋回。激動の時代を先陣切って走りつづけた半生。女独り、日中戦争の最前線へおもむき、従軍作家として従軍記を日本全国に配信する。軍国日本の宣伝ガールになる。帰国すると各地で熱狂的に迎えられる。まさしく時の人となった。
 ところが戦後になると、芙美子は、戦争未亡人、復員兵、戦争孤児を描いて、反戦文学の担い手となるのだった。「晩菊」「浮雲」がある。
 秋子はさらに九州旅行の思い出をつけくわえた。佐賀八幡の聴衆を前にして〈みなさん、当地で実父が履き物屋をやってます。どうぞごひいきに〉芙美子の当意即妙に秋子はびっくりしたという。〈自分にはまねのできないこと〉〈ともかく、つかみどころのない人でしたね〉。
 ついでに書けば、宇野千代は『神さまは雲のなか』(ハルキ文庫)のなかに芙美子のことを「魔物のような魅力」と書く。1938年の漢口攻略後一番乗りしたことには必要性を感じないとも批判する。

46 林芙美子の「漢口一番乗り」
 近代文学研究家の大和田茂さんから「生活協同組合研究」第574号をいただく。5人の研究者が寄稿する。本号は「100年前の生協・消費組合運動の広がりと関東大震災」の特集だ。読者はこれらの研究成果によって過去のこと、その時代に生きた人物のことを学ぶことができる。貴重な論文だと思う。
 大和田さんは「消費組合共働社と平沢計七―亀戸事件100年からの検証」」について書く。平沢は1910年代から1920年代にかけて活躍した労働運動家だ。そして創作活動家でもあった。関東大震災直後の9月4日、国家権力によって虐殺される。社会主義者にたいする弾圧によるものだ。34年の生涯だった。
 平沢は「亀戸事件」の犠牲者10人のうちの1人だ。小説、戯曲によって労働者の意識の覚醒をめざした。みずからも労働現場を体験する。さらに、消費組合運動を促進し、共働社を設立している。
 こんな情熱的な軌跡に大和田さんは共鳴する。長年の研究によって大和田さんの筆は、厚みと深みを増している。無惨にも生命と活動を断たれた平沢への愛情と敬意は、ひとしおだ。
 尾崎智子さんの「関東大震災とボランティア―他団体と消費組合の活動とを比較して」についても興味ふかかった。
 岸野春子さんからは「二流文学」第120号をいただく。京都で行なっている読書会の文集である。数名が寄稿する力作だ。
 岸野さんは浜松市立高校時代のわが同級生である。自我にめざめた人。どう生きるべきかを模索する人だった。奈良女子大学に進学。卒業後も奈良に住んでいる。再会はしていないが、今日まで文学への愛情という赤い糸で、わたしたちは結ばれている。
 岸野さんは「藤枝静男のこと」について書く。没後30年の藤枝への率直な思いがつづられる。気どりのない、明晰な文章だ。岸野さんは中学時代、校医の藤枝から眼科の検診を受けている。まぶたを裏返されたそのときの印象はあざやかだった、という。以来、藤枝文学に関心を募らせていく。『悲しいだけ 欣求浄土』(講談社)などを読む。〈何てうまい文章なんだ!〉人間の生の根源を鋭くついている。藤枝は岸野さんの「胸に住む作家になった」と。
 岸野さんの心を豊かにした藤枝静男こそ作家冥利に尽きるのではないか。

 山代巴は、戦争協力を論じる文章のなかで先がけ根性をきびしく戒める。人を制圧する。人よりも目だちたがる。もくもくと、刑務所の各便所の汲みとりをする人には、思想の変更がないと、巴は明かすのだ。戦中はプロレタリア解放運動に挺身したが、戦後、自身の体験を真摯に反省しているのだ。 
 芙美子の漢口一番乗りには、やみがたい思いがあったのであろう。人をだしぬき、先がけ根性を得意とした。
 芙美子は、幼少時代から「ルンペン・プロレタリアート」として生きてきた。おなじ行商仲間の生活を見るにつけ「哀憐の情」を感じ「何とか女成金にのしあがりたい夢」をいだいてきた、と「放浪記」に書いている。
 一番乗りを果たした芙美子の満面笑みの顔が想像される。
 福岡の牛島春子が電話でこんなことを話している。旧満州新京のホテルでのこと。その食事会には、芙美子のほかに佐多稲子も招かれていた。
 〈小柄な芙美子さんは、にこにこしたよい顔で、ひと目で好きになってしまった〉と、春子は回想した。
 自宅から電話がかかり春子は自宅にもどる。〈残念だった〉とも。
 当地では春子は「祝という男」と題する小説を発表している。
 福岡時代はプロレタリア解放運動に従事していた。結婚後に渡満する。
 わたしは何回か、晩年の春子と雑談している。春子はマンションに1人住まいだった。戦後、九州に帰りふたたび福岡に暮らしていた。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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