リハビリ日記Ⅴ 47 48

47 宇野千代の4B鉛筆
 カワズザクラの並木道がつづく。濃いピンクの花々が美しい。佐鳴湖の周辺は浜松市の公園になっているのだろうか。2人連れで散歩する人。自転車を停めて本を立ち読みする人。独り黙々とジョギングする人。それぞれ自分をたのしんでいる。彼らのからだには春風が吹いてるのだろう。リハビリ教室「健康広場佐鳴台南」の送迎車は高台を走る。老人ホームから生徒が乗りこんだ。〈毎週迎えにきてくれる。ありがたいわ。2階の食堂までエレベーターを使わずに歩いていけるようになった。これも先生たちのおかげですよ〉あいこさんはしみじみ言うのだった。
 トレーニングの成果は、わたしも実感している。右の患足のため室内でころび床に尻餅をつく。さあ、たいへん。起きあがれないのだ。ここ何10年と四つんばいになっていないのである。そばに携帯電話があったからよかった。なかったら最悪だ。
 先生たちに願いでた。〈起きあがるための体操を教えてください〉と。先生たちはプランを立ててくれた。弱点を克服すべくトレーニングをかさねる。それがこの教室のモットーなのだ。立ちあがる要領がよみがえる。あとは力をつけること。
 あづえさんが焼き芋をもってきてくれた。近所にイオンタウンがオープンした。にぎわっているようだ。芋は茨城産だそうな。あまい。食物繊維を摂らなくちゃいけないよ。かれは力説する。先日はりえこさんが手製のあんパンをとどけてくれた。顔がかわいらしい。パンにも顔がある。しばしみつめる。素朴な味わいだった。

 宇野千代、宮本百合子、林芙美子、円地文子、佐多稲子、平林たい子。明治生まれのおんな作家たちの作品は、今読んでも感銘ふかい。彼女たちは才能と実力がある。いやそれ以上に努力をしている。一途な生き方にも心が打たれる。マニュアルのない道を果敢に生きてきた。女性を抑圧した社会におけるパイオニアである。
 若いころ、宇野千代のエッセイに夢中になったものだ。男と女の記憶があって生きてきたあかしになる。千代の名言だ。衝撃をうけた。あかしがある、ではない。あかしになる、なのだ。わたしは助詞にこだわった。千代は言いきる。その主体的な姿勢と意志をみる思いがした。藤村忠、尾崎士郎、北原武夫の3人と、千代は結婚している。
 「宇野千代(生誕100年)の世界展」を見学したときのこと。東京新宿の三越美術館で開催された。千代の原稿の山におどろく。満寿屋の200字づめ原稿用紙に一字一字書きこんである。推敲をかさねたものにちがいない。芯のながい、何本もの4Bと6Bの鉛筆と消しゴム。パソコンをもたない時だ。かたわらにはシャネルの口紅がある。赤に白みがかった淡い色。鼻毛きりのはさみもある。
 千代の作品は6か国語に翻訳されている。アメリカ、ドイツ、イギリス、スペイン、ノルウェイ、フランスの言葉に。
 特設会場ではビデオ映画が上映されていた。千代の声は甲高い。飾り気がない。「母は何をするにも反対しなかった。黙って送りだしてくれた。岩国の港に立つと涙なしには思いだせない」という。
 会場を一巡すれば、その作家の生きてきた軌跡の概要はつかめてくる。おもしろいと思う。足跡が浮上し、さらに彼女の精神的な側面もみえてくる。
 千代は小学校の教員「准訓導心得」を2年間している。1914年4月から1916年3月まで。男女混合の劣等組を担当するが「依願退職」した。当時の職員録のコピーを見ながら、千代は創作の世界を求めた人なのだと、わたしは考えるのだった。

48 宇野千代の座布団
 わたしは「辺見庸ブログ」の愛読者だと思っている。辺見庸さんが新潟の講演先でたおれてから20年になる。後遺症がやっかいのようだ。15年間、愛犬と一緒にいる。のんちゃん。彼女の写真は何回か掲載されていた。最近は顔をアップしたものが登場。目が大きい。澄んでいる。笑みをたたえている。利発そうだ。両者は共に支えあう、いい関係のよう。のんちゃんは、辺見さんご自慢の愛犬である。
 1月からほんまさんに買い物の代行を依頼することにした。彼女は自宅から利用者の家へ、そしてスーパーマーケットへ、自転車で移動する。顔つやがいい。さっぱりした人だ。代行は社会福祉協議会の管轄にある。ほんまさんは主婦の経験で依頼者の商品選びをしていると自負する。25年のキャリアをもつ、たのもしい人だ。チームのスタッフは12人。こんな仕事も女性たちの社会参加のひとつになる。

 「宇野千代(生誕100年)の世界展」には、宇野千代が所有していたさまざまのものが展示されていた。さらに、わが目をみはったものがあった。人形師、久吉の人形。千代が久吉からプレゼントされたものだ。じつに生き生きした表情をしている。木材を彫ったもので、それに彩色されていた。目が生きている。製作者のすごい執念と愛情を思って、わたしは感動したのだった。
 書けなくても毎日机の前に座っていれば小説は書けるのだ。これも千代の名言だ。エッセイ集のなかにあったが、久吉の存在を知れば、その言葉のゆえんがわかってくる。
 人形師、久吉は1943年、87歳で他界した。その前年、千代は徳島の久吉を訪ねて取材している。その成果は小説『人形師天狗屋久吉』(文体社)のなかに実るのである。
 久吉は毎日毎日、座布団に座りつづけている。おなじ仕事をつづけている。はたと、千代は気づくのだった。あぁ、これが本当の仕事なのだと。悟るのである。
 千代はさらに、自分自身に言いきかせるのだ。そうだ、書けなくても、毎日、毎日、机の前に座っていれば小説は書けるのだ、と。それが大事なのだと。頭で考えるのではない。手を動かすことが考えることなのだ、と。
 毎日実践することによって、その言葉の意義は自分自身に返ってくるにちがいない。わたしは小説家をめざしていたのではない。千代の言葉に触発されてから、発病するまで実践してきた。たしかに、伝記的作家論は完成している。

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