一枚の肖像画を巡る眼差しの歴史

著者: 髭郁彦 ひげいくひこ : 記号学
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 展覧会の入り口を通過すると、この会場に飾られている絵画作品のコレクターの大きな写真が目に飛び込んできた。自分の集めた絵に囲まれて一人椅子に座っている男。彼は長い時間をかけて収集した宝の前で満足そうな笑みも浮かべずに、ただ座っていた。男の名前はエミール・ビュールレ (Emile Bührle)。1890年にドイツ南部のプフォルツハイムで生まれ、1936年にスイスに帰化し、1956年にチューリッヒで死去した実業家であり、もちろん美術収集家である。

彼のコレクションの一部が今日本に来ている。「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」というタイトルで、六本木の国立新美術館で2月14日から5月7日まで開かれている展覧会で、コレクションの中の64点が見られるのだ。2008年に盗難事件に遭ったポール・セザンヌ (Paul Cézanne) の「赤いチョッキの少年 (Le Garçon au gilet rouge)」(1888-1890年)、エドガー・ドガ (Edgar Degas) の「リュドヴィック・リュピック伯爵と娘たち (Le Comte Ludovic Lepic et ses filles)」(1871年頃) 、クロード・モネ (Claude Monet) の「燕 (Les hirondelles)」(1873年頃)、フィンセント・ファン・ゴッホ (Vincent van Gogh) の「花咲くマロニエの枝 (Branches de marronnier en fleur)」(1890年) という4枚の絵や、エドゥアール・マネ (Édouard Manet) の「べルヴュの庭の隅 (Coin de jardin de Bellevue)」(1880年)、ポール・ゴーギャン (Paul Gauguin)の「贈り物 (L’offrande)」(1902年)、ジョルジュ・ブラック (Georges Braque) の「ヴァイオリニスト (Le violoniste)」(1911年)、パブロ・ピカソ (Pablo Picasso) の「イタリアの女 (L’italienne)」(1917年) といった名作が目の前で見られるという意味で非常に興味深い展覧会である。だが、私はこのコレクターの人生と一枚の絵の運命とに引き付けられ、会場へと向かった。その絵はピエール=オーギュスト・ルノワール (Pierre-Auguste Renoir) が描いた「イレーヌ・カーン・ダンベール嬢 (Portrait de Mademoiselle Irène Cahen d’Anvers)」(1880年) である。

 

死の商人とコレクター
 まずはビュールレについてもう少し詳しく語る必要がある。先ほど彼は実業家であったと述べたが、エリコン社というビュールレの会社は元々精密機械の会社であった。だが、エリコン20mm機関砲という兵器生産を行い、アメリカ、イギリス、フランス、日本など世界中の軍隊にこの兵器の実物を売ることやライセンス契約することで、莫大な利益を得ていた。この機関砲は第一次世界大戦の戦勝国だけではなく、ドイツにも公然と売られていた。つまり、彼はまさに死の商人であったのだ。
 展覧会の図録によると、ビュールレはフライブルク・イム・ブライスガウとミュンヘンの大学で文学と美術史を学び、大学時代に印象派の絵と初めて出合い、衝撃を受けた。印象派絵画への思いは生涯続いたが、美術史家への道は諦め、マクデブルク工作機械社の社員となる。彼はこの会社の社長の娘であるシャルロッテ・シャルク (Charlotte Schalk) と1920年に結婚。1924年にマクデブルク社が買収したスイスのエリコン社に代表として派遣される。1938年にマクデブルク社から独立し、エリコン工作機械社を立ち上げる。エリコン社は、この当時すでに多くの機関砲を中国、スイス、イタリア、ドイツ、日本に販売していた。戦争の影が迫る1920年代後半からはフランス、ベルギー、イギリスからも大量の注文を受けた。ナチス・ドイツのフランス占領後、連合国への武器輸出が不可能になった。そのため、エリコン社はドイツへの大量の武器輸出を行うようになる。ここで注記する必要があることは、エリコン社が独自の方針でこうした兵器輸出を行ったのではなく、スイス政府が率先してナチス・ドイツへの武器輸出を奨励していた事実があるということである。さらに、スイス政府は、大戦後にこうした輸出の責任をエリコン社つまりはビュールレの責任として、政策の失敗を隠そうとした歴史がある。このことは政府とは国民を守るためだけに存在するものなのではなく、失政を覆い隠し、責任逃れを行うものでもあるという明白な実例を示すものである。
 ビュールレのコレクターとしての始まりは1936年だった。彼はルノワールの静物画とドガの踊り子を描いた絵を含む4点を購入した。その後、66歳で死去するまで、633点の絵画を収集した。東京新聞が「「ビュールレ展」の源流」という記事を4月3日から三日間に亘って連載したが、その中で孫のクリスチャン (Christian) がエミール・ビュールレについて、「孤独を好む人。あまり社交的ではなく、つかの間、一人で絵を眺めるのが好きだった、と聞いています」と語ったと記されている。冒頭で述べた写真を見ても、ビュールレが内向的な性格であるような印象を受けるだけでなく、どこか稀薄な印象さえ受ける。著名な絵画コレクターの写真として、私はハワード・グリーンフェルド (Howard Greenfeld) の『悪魔と呼ばれたコレクター―バーンズ・コレクションをつくった男の肖像― (The devil and Dr. Barnes : Portrait of an American art collector)』(藤野邦夫訳) の表紙に飾られたアルバート・バーンズ (Albert Barnes) の写真が思い浮かぶが、この肖像と比べると、ビュールレのイマージュがはっきりとする。バーンズの像を見ると、シルクハットを被り、左手に葉巻を持ち、厚手のコートを着て、じっと正面を見据えている彼には威厳がある。だが、傲慢で、自信に溢れた強い個性の持ち主であることもよく理解できる。それに対して、ビュールレの像は多くの名画に囲まれて背広姿で座っているのだが、充実した様子はなく、その眼差しはどこかおどおどとした心の動きさえも感じてしまうものだ。美術評論も書き、積極的に絵画について発言したバーンズに対し、ビュールレは一人で収集した絵をただ眺めていたのだ。
 死の商人のイメージにはバーンズの像の方がはるかに適合するものなのではないだろうか。ビュールレのポートレートは死の商人というよりも孤独な学究者という印象さえも抱かせる。3月4日に放映されたNHKの「日曜美術館」、「イレーヌ ―ルノワールの名画がたどった140年―」という番組の中で、E.G.ビュールレ・コレクション財団館長のルーカス・グルーア (Lukas Gloor) は、ビュールレと前記したルノワールの絵との関係について、「ビュールレがイレーヌの辿った生涯についてどこまで知っていたのか記録は残っていません。わかっているのはイレーヌの肖像画を娘の部屋に飾り毎日のように眺めていたということだけです」と語っているが、問題となるのはその彼の眼差しである。
一枚の絵の歴史

 作品そのものではなく、絵が描かれた背景や絵が辿ったその後の変遷について語ることにどれだけの意味があるだろうか。それは美術史家にとっては貴重な研究対象となるだろうが、美術館で絵を前にしている鑑賞者にとっては今ここにある絵が問題である。「イレーヌ・カーン・ダンベール嬢」を初めて目の前で見たとき、私の傍にいた初老の婦人が思わず「奇麗な人」と呟いた。鑑賞者にとって作品を見つめたときの印象が重要であり、それ以上の探究は必要がないと私は思った。だがそれと同時に、この絵のモデルやこの絵の歴史を知っていた私は、目の前にある絵をそうした知識と重ね合わせながら見ていた。私は婦人に「でも、この絵は何度も強姦されたのですよ」と言いたい衝動に襲われた。しかし私が声に出して言葉を発する前に、婦人は私の傍から離れて行った。

 この絵のモデルであるイレーヌは裕福なユダヤ人銀行家のルイ・カーン・ダンベール(Louis Cahen d’Anvers) とその妻ルイーズ (Louise) との長女で1872年にパリ近郊のブージヴァルで誕生した。父のルイはベルギーのアントウェルペン (英語名:アントワープ) で生まれたが、この都市のフランス語名がアンベールである。フランス語版ウィキペディアによると、妻のルイーズは非常に美しい婦人であっただけでなく、作家のマルセル・プルースト (Marcel Proust) やポール・ブルジェ (Paul Bourget) とも交友関係があり、シャルル・ボードレール (Charles Beaudelaire) は彼女の崇拝者の一人だった。イレーヌは五人兄弟であった (彼女は長女で、他には兄のロベール (Robert)、妹で次女のエリザベート (Élisabeth)、三女のアリス (Alice)、次男のシャルル (Charles) がいた)。その後、19歳でモイーズ・ド・カモンド (Moïse de Camondo) 伯爵と結婚し、長男ニシム (Nissim)、長女ベアトリス (Béatrice) の二人の子供を儲けた後に離婚。シャルル・サンピエリ (Charles Sampieri) と再婚し、彼との間に次女であるクロード (Claude) を儲ける。その後、第二次世界大戦が起きる。ユダヤ人であったにも係わらず、イレーヌはナチスのユダヤ人狩りから身を守ることができた。大戦後、彼女は南仏に移り住み、1963年に91歳で死去した。
 イレーヌの肖像画の所有権は娘のべアトリスのものとなっていたが、フランスはナチス・ドイツに降伏し、ユダヤ人であり、ユダヤ人の夫と結婚していたベアトリスの家族は皆強制収容所に送られ、命を落とす。肖像画はユダヤ人の財産没収によって、ナチㇲの手に渡り、アドルフ・ヒトラー (Adolf Hitler) とは異なり印象派の絵を愛好したナチス政権でヒトラーに次ぐ地位にあったヘルマン・ゲーリング (Hermann Göring) が、個人コレクションとして所蔵した。『ルノワールへの招待』によれば、ドイツの敗戦後、略奪されたこの絵がベルリンで発見され、ベアトリスが死亡していたため、1946年に、74歳のイレーヌの手元に再び戻ったと書かれている。ビュールレは三年後の1949年にオークションでこの絵を手に入れる。ルイ・カーン・ダンベールがルノワールに支払った金額は二人の妹が描かれたもう一枚の肖像画と合わせて1500フランであったそうだ。一枚750フランとして当時の1フランは現在の円換算で約1000円なので、約75万円であったが、ビュールレは24万スイスフラン (1スイスフランも約1000円)、つまりは、約2億4000万円で購入した。イレーヌが何故肖像画を手放したかという理由は定かではないようである。
 このように見ていくと、この絵が平穏な歴史的変遷を経たものではなく、歴史の波に洗われ、悲劇性と晦冥さを担った美術品であることが理解できるのではないだろうか。この肖像画を描いた画家はこの絵に不幸な宿命を負わせようと思いながら、タッチを重ねていった訳ではないだろう。モデルを見つめ、モデルの美しさを表現することに集中し、絵画制作を行ったはずだ。だが、注文主は気に入らず、この絵を女中部屋に掛けていたという逸話もある。それでもそれは誰かに見つめられていた。その眼差しは悲し気なものでも、寂し気なものでも、呪われたものでもなかったはずだ。この肖像画をイレーヌの娘が所有するようになったとき、娘や孫娘がこの絵を見つめるとき、その目はやさしく輝いていたのではないだろうか。戦争でそれが一転する。奪い取った戦利品を見つめる男たちの目。この絵のモデルはフランスの田舎に身を隠していたが、絵は男たちの眼差しによって強姦され続けたのではないだろうか。その屈辱から解放されて間もなく、絵はまた戦争によって富を得た男の手に渡った。その男の眼差し。それはあの男たちと同様のものだったのではないだろうか。この問題について考えなければならない。
戦争画とは何か
 柴崎信三は『絵筆とナショナリズム』の中で、田中日佐夫の著書の考察に依拠しながら、戦争画を以下のように定義している。「①戦争自体、またその前後や個々の事物の情景を描いたもの。②題材となる戦争があった後の時代に描かれた「歴史画」といえるもの。③戦争につながる神話・伝説や象徴的事物を描いたもの。④戦争に対する画家個人の思いや考えを描いたもの」という四つの区分である。この戦争画の区分は描かれた対象を基になされたものである。しかしながら、描かれた対象のみを問題として、ある絵を戦争画か戦争画ではないかと分類するだけでは戦争画という問題があまりにも狭い範疇で括られてしまうのではないだろうか。
 ある一枚の絵画の歴史は、その絵を描いた画家の人生と深く係わっている。だが、その絵に何が描かれているのかという問題だけを問うならば、たとえば、長野県にある無言館に展示されている戦没画学生が描いた裸婦や風景画は、戦争とはまったく無関係な絵となってしまう。それでは戦争と絵画という問題の一部分しか見つめることができなくなってしまう。また、会田誠が藤田嗣治などの戦争画に触発されて描いた「戦争画 RETURNS(リターンズ)」シリーズの絵は戦争をまったく知らない世代の画家が他の絵との間テクスト性を基盤として描いた作品であるが、柴崎の定義に従えば、無言館に飾られた絵は戦争画とは呼べないが、会田の絵は戦争画となってしまう。そこには大きな捻じれが存在してはいないだろうか。絵画の問題は極めて複雑で、広大な地平を持つ問題である。描かれた対象のみを取り出して戦争画を語ることに、私は強い疑念を抱かざるを得ないのである。
 イレーヌの絵の話題に戻ろう。この絵は一人の少女の肖像画であり、ルノワールはこの絵の中に戦争に関係するものを描いてもいず、彼が戦死したわけでもない。しかし、私はこの絵も戦争画であると考えたいのである。もちろん、この戦争画という言葉に私は特殊な意味を付与している。前のセクションの最後で語った絵を見つめる眼差しという意味を。戦争は戦場で味方の兵士と敵の兵士とが殺し合うだけの出来事ではない。兵士ではない民間人も、非武装地帯にいたとしても、砲撃や爆撃で命を落とす。戦闘が終わった後も、敵国の兵士に家財を奪われる家族、無理やり犯される女性、理由なく虐殺される市民が存在する。そのすべての出来事が戦争であり、戦争の傷跡は人々の記憶に残るだけではなく、廃墟となった街、崩れ落ちた橋、放置された死体、道に残る血痕といった様々なモノにも刻みつけられる。それだけではなく、奪い去られた宝石や美術品の中にも戦争の記憶は印されている。イレーヌの肖像画がイレーヌの手から離れ、再びイレーヌの手元に戻り、さらにビュールレの所有するものとなった変遷は、戦争なしでは語られないものだ。
 戦争画という概念を狭く定義づける必要はない。無言館に飾られた絵も戦争画であり、イレーヌの肖像画も戦争画である。直接的に戦争が描かれているたとえば会田の作品よりもはるかに重い歴史的な出来事が、そこには刻まれているのだから。戦争は描かれたオブジェによってだけではなく、残されたオブジェによっても語り継がれるものなのである。
 このテクストを終えるにあたって、上述したイレーヌの肖像画に向けられた眼差しの問題について詳しく考察しようと思う。「一枚の絵の歴史」のセクションで提示した眼差しには質的に大きく異なった様々な視線が存在している。イレーヌは幼い自分が描かれている絵を懐かしさや郷愁と共に見つめていただろう。だが、娘のベアトリスは美しい母の像を、この絵が彼女から奪われる直前に悲しみに満ちた目で見つめたはずだ。略奪された絵を繰り返し見つめたナチスの男たちの眼差し。そこに私はどす黒く異常なものを感じてしまう。ピエール・クロソフスキー (Pierre Klossowski) は『生きた貨幣 (La monnaie vivante)』の中で、「倒錯的反復は、生の一つの機能についてのファンタスムを通しておこなわれるのだが、その機能は、有機的に理解可能であるような全体から孤立させられているために、理解不可能であり、その限りで制約的である」(兼子正勝訳) という言葉を述べているが、欲望に満ちた男たちの眼差しは生身の身体に向かうだけではなく、変質的に、執拗に特別な対象にも向かうものである。イレーヌの絵を持ち去ったゲーリング。その絵を見つめるゲーリングの眼差し。そこに倒錯的なものがあったと想像することは容易なことではないだろうか。
テオドロス・アンゲロプロス (Θόδωρος Αγγελόπουλος:通称テオ・アンゲロプロス) の映画に「霧の中の風景 (Τοπίο στην ομίχλη)」という作品がある。この映画は父親が住むドイツに向かって旅をする幼い姉弟の物語である。主人公の姉は12歳であるが、5歳の弟を守るために身も心も傷つきながら困難な旅を続ける。様々な大人たちとの出会いがあるが、二人を乗せたトラック運転手はまだ幼さが残る少女に強い劣情を感じ、凌辱する。私にはこの少女のイマージュとイレーヌの肖像画のイマージュが重なって見えてしまう。肖像が描かれたときイレーヌは8歳だと言われており、映画の主人公の少女よりも4歳も年上ではある。しかし、この二人のイマージュには類似する様態が存在してはいないだろうか。それは男たちの欲望の眼差しを引き付けるエロチックさだ。イレーヌの肖像画をじっと見てみよう。彼女は斜め横を向いて、手を力なく膝の上に置いている。視線ははっきりとせず、宙空を見つめているようである。背景は暗い生垣。背景と違い、彼女には明るい日の光が当たっている。だが、喜びの表情はそこになく、どこか悲しみさえ漂わせている。子供ではなく少女、いや、もうすでに女性としての何かがそこには宿っている。こうした彼女の姿に目がいったとき、鑑賞者は自然に彼女の髪の毛に目がいってしまうのではないだろうか。金髪ではなくシャタンで、青い髪飾りをつけてはいるが、無防備に垂れ下げられた髪の毛。ダニエル・アラス (Daniel Arasse) は『なにも見ていない:名画をめぐる六つの冒険 (On n’y voit rien : Descriptions)』の一つのセクションで、マグダラのマリアの髪の毛の問題について言及している。「マグダレーナにおける髪の毛は、荒涼たる(ソヴァージュ)砂漠で、たったひとりで、悔悛する女性のイメージを、そしてまた、世の中ではプライベートな場でしか見られなかった、ほどかれた髪のイメージを「圧縮」したものなのです」(宮下志朗訳) という言葉は、性的なものと聖なるものの混合が髪の毛を通して示されることを物語っている。イレーヌの髪の毛にはそうした聖と性とがアマルガムされた姿が投影されてはいないだろうか。
ここで肖像画を見つめるビュールレの眼差しの問題を再び取り上げよう。ジョルジュ・バタイユ (Georges Bataille) は『エロティシズム (L’érotisme)』の中で、「暴力をふるう者は沈黙する傾向があり、ごまかしを利用する。その点から言えば、ごまかしの精神は暴力に通じる扉なのだ」(澁澤龍彦訳) と述べているが、「死の商人とコレクター」のセクションで指摘したイレーヌの絵を見つめるビュールレの眼差しに関する言葉を思い出そう。ビュールレは黙ってこの絵を毎日眺めていた。その行為の中にバタイユが述べている暴力性が潜んではいないだろうか。赤裸々に顕示されたであろうゲーリングを代表とするナチスの男たちが注いだ暴力的な視線とは異なるものでありながらも、そこにはやはり視姦する眼差しがあったのではないだろうか。ゲーリングの荒々しく野蛮な目と同様のものではないが、陰湿で変質的な暴力性を内包した目が。冒頭で語ったビュールレの写真にはどこか重苦しい様子が感じられたが、彼の内奥には探究者の憂鬱といったものではなく、沈黙によって自らの暴力性を覆い隠そうとする者の眼差しがあったのではないだろうか。武器商人である彼が絵画を集め、そのコレクションを眺めることによって慰藉されていたことは確かであろう。しかしながら、ある作品を経済的な力によって所有した者がイレーヌの肖像画を見つめる眼差しは、暴力によって奪った絵を所有したゲーリングの眼差しと、どこかで交差しているように私には思われるのだ。
ビュールレのすべてのコレクションは2020年にチューリヒ美術館に寄託される。より多くの人々の眼差しに開かれるという意味で、イレーヌの肖像画はやっと戦争の影から解放されて、肖像画というジャンルの名画の一枚に返る。そう考えることも可能であろう。だがそうなったとしても、この絵が辿った戦争の歴史、つまりは、戦争によって刻印された眼差しの暴力の歴史は消え去るものではない。野獣のような男たちの視線。絶望感を抱き収容所へ追い立てられたイレーヌの娘と孫たちの瞳が見つめた絵。実際のイレーヌではなく絵の中の彼女を見つめることによって彼女を凌辱した男たち。失われた娘と孫たちの面影が宿す絵を見つめる老いたイレーヌの瞳。武器商人が財力によって手に入れた絵を見つめる臆病だが、汚れた陰鬱な眼差し。それらは戦争が作り出したこの絵を巡る歴史である。その意味でこの絵の歴史は確かに戦争の歴史であったのだ。
イレーヌ、ベアトリス、ゲーリング、ビュールレ。少女、瞳、ソバージュの髪、眼差し、暴力、沈黙、戦争、歴史。こうした事象すべては時間の流れの中にばらばらに散りばめられている。しかしそれらを一つずつ拾い上げ、集めていったとしたら。私は、ハンナ・アーレント (Hannah Arendt) が『暗い時代の人々 (Men in dark times)』のヴァルター・ベンヤミン (Walter Benjamin) について書いたセクションの中で書いている過去の歴史を救い出そうとするベンヤミンの詩的思考に関する発言を思い出した。アーレントは、「こうした思考を導くものは、たとえ生存は荒廃した時代の支配を受けるとしても、腐朽の過程は同時に結晶の過程であるとする信念、かつては生きていたものも沈み、溶け去っていく海の底深く、あるものは「海神の力によって」自然の力にも犯されることなく新たな形に結晶して生き残るという信念である」(阿部齊訳) と述べている。戦争があらゆるものを破壊しようとしても、廃墟の中にも、残された遺留品の中にも、人々の記憶の中にも、暴力が強制的に忘却させようとする圧力を跳ねのける未来の希望へと繋がる結晶の破片が残されている。イレーヌの肖像画を見つめると、私には戦争の傷跡と共に希望の断片も見えてくるのだ。それゆえ、この絵は美しい。そう思った私はもう一度イレーヌの肖像画を見つめた。
初出:宇波彰現代哲学研究所のブログから許可を得て転載
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