一粒の麦落ちなば……小川岩雄先生の思い出 -大学の教え子たちに大きな影響-

著者: 白崎朝子 しらさきあさこ : 介護福祉士・ライター
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 私は1981年に立教大学に入学しました。核物理学者の小川岩雄先生が60歳になった年で、お元気で教鞭をとっていた時代でした。小川先生は『核問題概論』という授業を金曜日の最終時に一般教養課目として開講しており、私は同じ学科のAさんに誘われ受講しました。
 私には長崎に叔父一家がおり、14歳の時に初めて長崎を訪れました。その時に長崎の原爆資料館で、炎の中で母が乳飲み子を抱いて立ちすくむ畳一畳程の巨大な日本画に衝撃を受けました。更に遠縁に被爆者がいることがわかり反戦・反核の強い想いが芽生えました。ですから、小川先生の授業を取らないかと誘われた時、すぐに受講を決めました。毎週金曜日、私と友人は一番前の席に陣取り、熱心に聴講しました。先生の授業は反核の強い意思が迸っていて、一言も聴き漏らすまいと熱心にノートを取り、授業が終わると必ず質問をしに先生の教壇に駆けつけました。80年代前半のバブリーな時代です。小川先生の授業を熱心に聴くような大学生は少数派でしたから、すぐに顔と名前を覚えて貰いました。1年間の授業の最終日、私とAさんは小川先生に感謝を込めて花束をプレゼントしました。先生はことの他、喜んでくださいました。 

 また小川先生の『核問題概論』を受講した先輩たちが『ニュークリア』という自主ゼミを授業後にやっていました。授業初日、200人程収容できる中講堂で『ニュークリア』への参加要請のチラシが配布されました。たぶんそのチラシを見て『ニュークリア』に参加したのは私とAさんくらいだったと思います。授業が終わるのが夕刻6時。それから小さい教室に移動し、いつも10数人のメンバーが交代でレポーターを勤めました。先輩たちはいつも熱い議論を闘わし、私も先輩を見習い数ヶ月後には、長崎の被爆問題についてレポートしました。毎週、2時間くらいの自主ゼミが終わるとその後は打ち上げコンパです。しかし、先輩たちはお酒を飲みながらでも議論をしていました。今の私の基礎知識は授業だけでなく、そういった先輩たちとの交流にもありました。
 
 私が大学に入学した1981年は10フィート運動(アメリカが撮影したヒロシマ、ナガサキのフィルムを買い取り上映する運動)があった年でした。『ニュークリア』のメンバーたちは、すぐに学内で10フィート運動上映実行委員会を立ち上げました。会場は小川先生が『核問題概論』の授業をしていた中講堂。私は生まれて初めて映画の上映会をしましたが、実行委員たちの不休の情宣活動が実を結び、中講堂は満員で大成功でした。
 その後、私達は2回上映会をしました。3回目に上映した映画は日本がアジアを侵略していたという視点から描いた森正孝監督の『侵略』でした。原爆の被害ばかりでなく日本の戦争加害責任を問うべきだという批判があったからでした。私はその批判はもっともだと思い『侵略』の上映会を提案しました。その後も『ニュークリア』のメンバーは毎週金曜日、春夏冬休み以外はほとんど集まっていました。当時の立教は法学部、経済学部、社会学部、文学部、理学部など全学部が池袋の小さなキャンパスに結集していて、文学部だった私は、他学部の問題意識が高い先輩たちと得難い交流が出来ました。

 入学から今年でちょうど30年たちました。大学を出てからも数年間は同窓会的に集まりをもっていましたが、90年くらいを最後に集まりも途絶えました。私の記憶違いでなければ最後に小川先生にお目にかかったのは『ニュークリア』の先輩Bさんが、若くして不慮の死を遂げた時の追悼合宿だったと思います。私達は早稲田奉仕園の宿泊施設を借りて夜通し追悼会をしました。その時に小川先生が参加してくださったように記憶しています。私は大学を中退し鍼灸学校で東洋医学を学んだので、小川先生から「最近、眼の調子が悪いんだけど、どうすれば良くなりますか?」と尋ねられました。私は「しじみなどがいいようですよ」と食事療法などのアドバイスをしました。皆と一緒にテーブルを囲んでいる小川先生の写真は度重なる引越しで押入れの奥に突っ込まれています。でも小川先生が膝を抱えて座っていらしたお姿の写真が今でも脳裏に焼きついています。

 小川先生の教えを受けて成長した『ニュークリア』のメンバーたちはその後、それぞれ地道に活動しています。今年夏、20数年ぶりに海外から先輩Cさんが帰国。彼は海外のNGOで活動をしていて生死を分かつような体験を経ていました。知的で美しいパートナーを伴っての帰国でした。同じ先輩のDさんご夫婦の自宅に招かれ、Cさんとパートナーを囲んで『お帰りなさい会』がありました。
 先輩たちは50代。私は49歳。でもお互いに「本質は学生時代と変わらないね」と言い合いました。当時も今も、私達は少数派です。先輩のDさんは、日本軍による中国の戦時被害者の支援者として活躍しており、私が岩波書店『世界』に執筆した時に担当してくれた編集者と昵懇の仲でした。ずっと行き来が無くても、何処かでつながっているんだな…と感じました。   
先輩Cさんが「小川先生はどうしているだろう。Bが死んだ時、僕にわざわざ手紙をくれたんだ…」と話してくださいました。そんな細かな配慮をされていたとは…。小川先生の優しさを痛感しました。Cさんが外国にいて追悼合宿に参加できなかったので小川先生自ら、筆をとって知らせてくださったのでしょう。
小川先生の学生に対する深い愛情に胸を打たれました。先輩たちが先生の消息を知らなかったので、私はインターネットで検索してみました。すると、先生は2006年に亡くなっていたことが分かりました。そして驚いたことに、この『リベラル21』編集委員会の岩垂さんと小川先生との間に交流があり、私が受賞した平和・協同ジャーナリスト基金賞にも小川先生が協力していたことも分かりました。あまりの偶然に一瞬絶句しました。、

数年前、立教関係者から聞いたのですが、小川先生はノーベル賞を受賞した湯川秀樹氏の甥っ子さんということでした。しかし、大学在学中には全く知りませんでした。先生はいつも謙虚で、学生たちとの交流をとても大切にしてらっしゃいました。先生の授業がなければ『ニュークリア』は無かったろうし、素晴らしい先輩や仲間たちとも出会えなかったと思います。また10フィート運動に関わる学生もいなかったかもしれません。
小川先生の存在の重さ、かけがえのなさを改めて痛感しました。その先生が関わってらっしゃった平和・協同ジャーナリスト基金賞をいただけたのは、天国から不肖の弟子の私のために先生がご尽力くださったのかもしれない…と真剣に思ったほどです。理学部でも無かった私が小川先生の授業を受けたのはたった1年間。週1回90分の1コマだけでした。それでも先生の記憶は鮮烈で、今でもその笑顔が思い出されます。

 「一粒の麦落ちなば…」と言いますが、小川先生の撒いた麦は、40代後半~50代の私の仲間たちを行動する人間に成長させました。先生が撒いた種は教え子たちのそれぞれの人生で芽吹き、今も絶え間なく成長し続けています。
 3・11という未曾有の大災害、収束の見通しが立たない原発事故、増税、社会保障の削減はじめ、世界状況の悪化の中を私達が生き延びていくのは大変です。ともすれば絶望という闇に飲み込まれそうになります。でも、若い日に出会った小川先生の魂を継承し、希望を喪失しないで生きていきたいと思います。先生が私達学生たちに撒いてくださった種。それはどんな逆境にも堪えうると信じて…

<白崎朝子さんの略歴>
1962年生まれ。立教大学文学部キリスト教学科中退、東洋鍼灸専門学校卒業。10代より反戦・反核・反原発運動、女性解放運動に関わり、後に母子家庭当事者運動、野宿者支援に関わる。『世界』『週刊金曜日』他に執筆。2009年『介護労働を生きる』(現代書館)などで平和・協同ジャーナリスト基金賞荒井なみ子賞を受賞。2011年11月『ベーシックインカムとジェンダー~生きづらさからの解放に向けて』(編著者)を上梓。

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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