三里塚―新たな農地収奪  文書提出命令(高裁)はテコの支点となるか

三里塚(成田空港問題)は終わったと思う者も多いであろうがそうではない。今も続いている。2006年から成田空港会社(旧空港公団)による新たな農地収奪の動きが始まったが、これをめぐる裁判の関連事件(文書提出命令申立)で画期的ともいえる決定が闘い取られた。東京高裁第7民事部(菊池洋一裁判長)が7月16日付で行った、空港会社による即時抗告の棄却決定である。

裁判は「へ」の字に曲がった誘導路の直線化のために成田市天神峰の市東孝雄氏の小作地(地権者は違法に農地を取得した空港会社)を取り上げようとするものである。
成田では事業認定の期限が切れて土地収用法が失効し、土地の権利移動は任意買収によるしか許されない。裁判は失効した土地収用法の代わりに、農地法の小作契約解約で事実上の「収用」効果を得ようとする異例の手続き。これ自体、違憲というべきだが、この裁判の争点はそもそも裁判が成立するか否かの大前提にもあった。土地明け渡し訴訟でありながら、空港会社が請求した明け渡し対象の農地の位置が間違っているのである。
この錯誤については、市東氏が当初から指摘してきたが、空港会社は否認を続け、証拠として孝雄氏の父・東市氏の署名とされる「同意書」「境界確認書」、同添付図面を提出した。しかし筆跡鑑定の結果、署名は偽筆。市東氏側は、この偽造証拠の作成過程を含むすべての交渉記録、関連記録の提出を命じるように裁判所に申し立てた。
一審千葉地裁はインカメラを経て一部を開示させたが、市東氏側は肝心の記録が隠されていると主張して即時抗告。高裁はこれを認めて地裁に差し戻した。
空港会社は「記録は存在しない」と主張している。だが「用地事務取扱規程」で交渉経過を記録することが義務づけられ、「文書管理規程」で保存期間が定められており、無いはずはない。存在しないのは、当時担当の上西某(すでに死亡)の「やり方によるもの」だと空港会社は釈明するが、ますます疑惑を深めるばかりだ。

差し戻し審は、市東氏側の主張をほぼ全面的に認める決定になり、今度は空港会社が高裁に即時抗告した。
そして下った今回の決定は、交渉記録・関連記録を空港会社が隠匿していると推認した上で、その証拠調べの必要性を認め、空港会社に提出するよう命令している。
明け渡し対象農地の位置特定のために、空港会社が提出した唯一の証拠(「同意書」「境界確認書」添付図面)の信頼性が大きく揺らいでいる。真相を闇に閉ざして逃げ切ろうとする空港会社を突き崩し、「始めに結論ありき」の「国策」裁判を覆すテコの支点になり得るか、──裁判は核心に迫っている。

1966年7月閣議決定で、天神峰・東峰地区はコンクリートの下にされた。だが農家は今も精力的に農業を営んでいる。そこではB滑走路が寸断されている。2002年に供用したB’暫定滑走路は、寸断されたB滑走路を北に移動し延伸して形を整えたにすぎない。この滑走路の南端から120mには神社がある。人家と農地、墓地、各種の共有地、物産会社が点在する。誘導路は「へ」の字に曲がり、着陸帯はICAO基準の半分にまで縮小。場当たり的な工事の結果、この滑走路とターミナルを結ぶ誘導路は3本もつくられた。うち1本は構造的に危険なので使われることはめったにない。「未完の欠陥空港」と言われる所以である。
これらの構造的欠陥とアクセス問題で、成田はアジアハブ空港の位置から陥落した。国は羽田国際化を推進し近距離アジア便を羽田にシフトしている。東京五輪を錦の御旗に首都圏空港強化方針をうちだし、羽田に5本面の滑走路を計画し強力に推進している。対抗的に成田第3滑走路案が出されているが、それは新たに200戸を下らない地権者を抱えこむといわれ現実的ではない。
2011年3・11以後の日本社会で、三里塚は「公共性」の本質に迫る闘いを続けている。安倍政権の暴走で、戦後農政と農地制度が大転換を強いられるなか、農地法の法理念を根拠とする農地闘争の意義は大きい。
今回の高裁決定が、基本事件にどのように反映するか、させることができるか、それが課題となっている。

■農地裁判については以下が詳しい

http://www.shitou-nouchi02.net
■『成田空港の「公共性」を問う』(鎌倉孝夫、石原健二編著 社会評論社)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion4937 :140731〕