上海時代の尾崎秀実の後継者は堀江邑一だった : 「─戦後70年目の真実─ゾルゲ事件特別講演会」 (1/3)

*この論考は全体がA4で33頁に及ぶため、読者の忍耐を勘案して3回に分割掲載することにしました。(ちきゅう座編集部)

「─戦後70年目の真実─ゾルゲ事件特別講演会」( 2015年10月18日)

                       日本ユーラシア協会主催

                              渡部富哉

                            

 1)まえがき

川合貞吉はゾルゲ事件に連座して、懲役10年の刑に処せられ、戦後、連合軍の「政治犯釈放命令」によって生還した。彼はゾルゲ事件に関する証言『ある革命家の回想』(初版、1953年、日本出版協同。改訂版1973年、新人物往来社[第3版]1983年谷沢書房。以下『回想』と略記。引用は谷沢書店版による)その他、『ゾルゲ事件獄中記』(新人物往来社、1975年)や数多くの雑誌などに体験記を掲載してきた。川合の著作は微細にわたる「抜群の記憶力」と筆力の冴えによって、ゾルゲ事件に関心を持つ、多くの読者を魅了してきた。

川合がゾルゲ事件の関係者であることから、自分の体験記をありのままに書いたノンフィクションと信じられ、彼の証言を疑う者は少なかった。『回想』は文壇の著名人が著作に引用されてきたため、すっかり信用され、定着してしまった。

筆者は川合の著作の核心的な部分の証言や、事実関係を厳密に検討した結果、川合貞吉の『回想』の核心的な部分のすべてはフィクションであり、取調官の特高に誘導されて、自白した「川合貞吉警察訊問調書」(『現代史資料』24巻、「ゾルゲ事件」4巻、みすず書房)の釈明のために書いたもので、それは事実とはほど遠いものであることが明らかになってきた。川合貞吉の物語に疑問符をつけることは容易なことではなかった。事件関係者で事実関係の間違いを指摘したのは尾崎秀実の盟友であり、尾崎秀実とともに死刑を求刑された中西功(日本帝国主義の敗戦により、戦後の裁判で死刑を求刑され、無期懲役になったが、連合軍の政治犯釈放指令によって釈放され、戦後日本共産党の国会議員となった)やその周辺の僅かな人達の断片的な証言にすぎなかった。

最近、加藤哲郎一橋大学名誉教授が米国公文書館で入手した「川合貞吉ファイル」には、川合が月額55ドルの報酬で、米占領軍の「キャノン機関」に日本共産党情報を提供していたと記録されていることが判明した。(『ゾルゲ事件』平凡社新書、2014年、『ゾルゲ事件関係外国語文献翻訳集』以下「翻訳集」と略記する。「ゾルゲ事件の新資料─米国陸軍諜報部[IMS]『木元伝一ファイル』から」)№25、49頁)

ゾルゲ事件で船越寿雄(懲役10年・岡山刑務所で1945年2月27日、獄死)や河村好雄(未決のまま拷問死)、野沢房二(10カ月間の勾留後、否認のまま釈放)、伊藤律(ゾルゲ事件の端緒を供述したとされて27年間に及ぶ中国の監獄に投獄され、奇跡的に生還を果たした)などを当局に売ったユダは、川合貞吉その人であったことが明らかになった。

これまで戦後、日本で語られ、著作されたゾルゲ事件研究は根本から見直しを迫られている。筆者は「戦争に反対し中国革命の勝利のために闘った革命家の群像」と題して(その1)および(その2)をそれぞれ『翻訳集』№20、№22に発表してきた。

今回は(その3)として「上海事変の最中に、なぜ尾崎秀実は朝日新聞上海支局から大阪本社に呼び戻されたのか? さらに同年末、尾崎は北京に赴きアグネス・スメドレーとどんな会談をしたのか、その目的は何だったのか? 川合貞吉が『回想』に書いているような、アグネス・スメドレー指導下の「北支方面の諜報活動の組織」のためだったのか、その真相を解明したい。

 

2)尾崎秀実の朝日新聞上海支局から大阪本社へ帰任の真相

これまで日本で川合貞吉によって流布されてきた通説によると、尾崎秀実が上海から1932年2月に朝日新聞大阪本社へ帰任したことが、あたかも社内の定期人事異動のごとくに書かれ、また説明されてきた。たとえばゾルゲ事件や尾崎秀実研究をする誰もが一読するという、著名な風間道太郎著の『尾崎秀実伝』(法政大学出版局)によると次のように書かれている。

 

「上海事変の真っ最中に、尾崎は大阪の本社から、帰社命令をうけとった。すぐに日本へ引き揚げる準備をしなければならなかった。そのころ支社は、戦火にかかって焼けたので、万歳館という旅館に移って、仕事をつづけていた。ある夜おそく、尾崎がこの旅館の一室で仕事をしていると、突然、川合貞吉がたずねてきた。その二、三日前に、華北から帰ってきたのであった。そのあくる日は、夜にはいって、風雨がはげしくなった。尾崎と川合はその嵐のなかでゾルゲと街頭連絡をとり、外国駐屯軍のバリケードをたくみに突破して、フランス租界へまぎれこみ、アパートの一室にスメドレーを訪れた。

四人は夜が白むころまで、地図をひろげて、川合のもたらした満州の情報を中心に、情勢を分析し、討議した。それがいちおう終わって、これから先の活動について相談することになったとき、ゾルゲは尾崎が朝日新聞社を辞職しても上海にとどまることを要望したが、尾崎は承諾しなかった。新聞社をやめれば、これまでの半分も情報を集められないだろう、と尾崎はその理由を説明した」(上掲書179ページ)

 

風間のこの文章で最も重要な箇所は、引用文に筆者がアンダーラインを引いた「尾崎と川合はその嵐のなかでゾルゲと街頭連絡をとり、外国駐屯軍のバリケードをたくみに突破して、フランス租界へまぎれこみ、アパートの一室にスメドレーを訪れた」という箇所である。

尾崎秀実の異母弟で作家の尾崎秀樹(のち日本ペンクラブ会長)もまた次のように書いている。

「川合が上海へ戻ったときは、戦火は上海へ飛び、はげしい十字砲火のもとで、四人は会わなければならなかった。川合の乗った奉天丸が楊樹浦についたのは、上海事変勃発(1932年1月29日午前零時)の翌30日だった。彼は流弾の飛び交う下をくぐり抜けて尾崎を訪ね、バリケードを突破してゾルゲと会い、スメドレーと連絡を回復した」『ゾルゲ事件』中公新書1979年)(90頁)

 

川合をふくめた尾崎秀樹や風間道太郎ら3人が描く情景の描写と証言は全く同じで、相互に矛盾するところは何もない。これは川合貞吉著『ある革命家の回想』第4章「上海事変」と、川合の聞き書によって、川合の言うままに自分の著作に引用してしたためにこれが定説化され、すっかり定着してしまった。しかもその川合貞吉の証言は尾崎秀実の供述調書によって、後述するように裏付けられていた。

だがこれはすべて虚構である。文壇の大作家たちが作り上げた「定説」に疑問符をつけることは容易なことではないが、それは拙文「尾崎秀実と中共諜報団事件」(その1)(その2)を発表したときの調査から、必然的に到達する結論である。

しかし朝日新聞上海支局に尾崎が勤務していた当時、ヌーラン事件(1931年6月15日、コミンテルン極東局組織部長ヌーランが上海市工部局[租界]警察に検挙され、中国政府に引き渡された事件。2人の本名はヤコブ・ルドニクとその妻のタチアナ・モイセーエンコであった)が発生して、国際的な波紋を拡げていた。ゾルゲもスメドレーもヌーランの救援のために国際的なネットを作るために活動していた。

その直接的な影響でアグネス・スメドレーのアパートは工部局(租界)警察の厳重な尾行と張り込みの対象になっており、尾崎やゾルゲは最早スメドレーのアパートに出入りすることはできない状況下にあった。

ヌーラン事件は戦前の日本共産党が壊滅に追い込まれる事件(日本共産党の革命綱領「32テーゼ」の承認を求める、全国代表者会議が特高に襲われた熱海事件や大森銀行ギャング事件)と直結しており、さらにヌーラン事件は中国共産党書記長向忠発の逮捕・処刑問題に発展し、コミンテルン史上でも、コミンテルンの地域組織の極東局が破壊されるという、極めて重大な結果をもたらした事件であったにもかかわらず、これまで何回も出版されてきた公式の「日本共産党史」などを含めて、日本では全くと言っていいほどこの事件に関する研究はこれまでなかった。

ゾルゲもまた「ヌーラン事件」の直接的な影響によって、中国から撤退せざるを得なくなり、ゾルゲグループは解散に追い込まれた。それほど大きな関係があった事件であるにもかかわらず、ゾルゲ事件関連の著作のなかで、ヌーラン事件について書かれた作品はF・Wディーキン、G・Rストーリィ著『ゾルゲ追跡』(筑摩書房 1967年)以外にはなかった。

したがって川合貞吉や風間道太郎たちが著作する当時、日本ではヌーラン事件のことは全く知られていなかったから、川合貞吉が自分の警察訊問調書の釈明のために書いた『回想』は、尾崎秀樹たちに強力にバックアップされ、風間道太郎なども巻き込んで読者の信頼を得て、憶測が積み重なり、思わぬ方向に物語が作られ、虚構はどんどん膨らんで誰も川合貞吉証言を疑問視する者はいなかった。

1932年1月28日、突如として起こった上海事変(日本海軍陸戦隊と中国第19路軍が戦火を交える)で、朝日新聞上海支局が戦火で焼けだされ、ごく少数のスタッフしかいない上海支局は万歳館(旅館)に仮住まいするという緊急非常事態となり、その後始末や現地の情勢の報道にも追われる猛烈な慌ただしさのなかで、社内の「定期人事異動」で尾崎を緊急に日本へ呼び戻さなければならないどんな事情があったというのか。

当時の朝日新聞上海支局長太田宇之助は次のように書いている。

 

「上海に赴任した昭和4(1929)年9月、当時の陣容は、尾崎秀実と久住悌三君(のち日本放送編成局長)の二人にすぎなかった。その後、宮崎世竜(宮崎滔天の甥)、野村宣君(のち茅ヶ崎市長)が勤務となった。(中略)支局は日本人居住の中心街、北四川路に近いハスケル路という中級の古びた二階建て街の内の一軒で、この借家の階下を事務室と応接間に、階上を私と家族の住所として使用していた。局員は別に借家または借間して通勤していた。尾崎君も奥さんと共に北四川路の一隅の住宅街に所帯を持っていた。尾崎君は大阪朝日では私の赴任前から上海勤務となっていたのだが、大阪朝日では学芸部に所属していたのを上海に出ることになって「支那部」に転籍した次第であるから同君の中国研究は現地で始まったと言ってよかろう。(中略)尾崎君が上海在勤中に「赤旗事件」に関係したことがある。同地にある同文書院の学生の一部が上海で赤旗を持ってデモに参加した事実を指す。今の時代からみればお話にならぬことだが、日本国内では「赤化問題」で躍起になっていわゆる左翼分子を海外へ追放したほどの時代だったから、「赤旗事件」として大騒ぎして参加した学生の逮捕にかかったのだが、そのリーダー株の中西某を尾崎君が密かに自宅にかくまっている事実を知って私は驚いた。同時に尾崎君をシンパ以上と初めて悟ったのである。右の学生はそれから間もなく危ないと感じてかほかへ移り隠れて、問題は自然解決したのだが、このことが本社に洩れ伝われば、当時の空気から見て、尾崎君はクビになる心配が多分にあったそこでこの事実を知っている者が極めて少数の範囲であることを幸い、私はこれをヒタ隠しにして、本社に通報する途を極力抑えたので、結局闇から闇に葬られた形で終わったのである。

上海事変が勃発し、その当初の重要なニュース写真を大阪本社に急送するに当たり、欧州航路の外国船を利用する他方法がなく、神戸港外に検疫のため一時停船する時間に、本社からランチを出して原稿を釣り下ろす作業をしなくてはならぬことになり、わたしはその役を尾崎君に命じた。

尾崎君はその通り実行して大いに成果を挙げて収めてくれたのであるが、すぐトンボ帰りに上海に引き返して事変報道の激務にあたってもらうはずであったところ、大阪朝日本社では、上海事変の生々しい体験報告として連日各地で尾崎君を講演させることにしてしまった。新聞社の企画としてそれはまた成功であったに違いないが、結果尾崎君はそのまま内地勤務となり、尾崎君の上海は終わりを告げた次第である。(「上海時代の尾崎君」『尾崎秀実著作集』第3巻、1977年「月報」)

 

これで見る限り、とても社内の定期人事異動とは思われない。つまり朝日新聞社の上海支局員はたった5人だけだったというのである。単なる社内の定期人事異動なら、中国軍と日本軍の戦闘開始という突発した事態は、朝日新聞の現地支局にとって、絶好の報道対象の発生で、しかも支局にまで戦禍がおよび、支局は焼け出され、支局員たちにとっては猫の手も借りたいほど、不眠不休の取材を要求されるときに、現地の有力支局員を本社に呼び戻さなければならないどんな緊急事態があったのか。川合貞吉や尾崎秀樹が言うように、社内の定期人事異動なら、上海事変の推移をみてからでも遅くはなかっただろう。社内の人事異動ならその余裕はあるはずだ。その慌ただしさのなかに警察・検察の調書にも書かれていない、また尾崎秀実研究者の誰も研究の及ばなかった、尾崎とゾルゲやスメドレーたちに降りかかった、知られざる緊急非常事態が発生していたのである。

川合や風間がそれぞれ著作をものする当時、まだヌーラン事件とはどんな事件だったのか、その存在すら日本では知られていなかったし、それがゾルゲや尾崎とどんな関連があったのか、ということはなおさら誰も知らなかったから、川合や尾崎秀樹や風間らの著作は大手を振って版を重ね、それが通説となり、いまでは川合証言に疑問符をつけるものは誰もいない。

尾崎秀樹らを含めた著書では、尾崎の帰国(1932年2月4日)から、ゾルゲが日本に上陸して、宮城与徳を介して奈良公園で再会を果たす1934年5月までの2年3カ月間を、「尾崎の生涯のうちでもめずらしく平静な状態をもちえた時期」で、「日常生活の安らぎが戻った平安な時代だった」などと記述しており、また尾崎自身がこれらの記述を裏付けるかの如く、「手記」に次のように書いている。

 

「私は昭和七年二月上海事変が起こると間もなく日本に帰り大阪朝日新聞社に勤務することになりました。上海で生まれた娘をともなって親子三人の静かな生活を阪急沿線の稲野村で営みました。只夢中で過ごしたような上海の生活に比してこの短い間には人並みの家庭生活の幸福に似たものがありました。先日の家内の手紙では『自分も楊子もあの時代が一番幸福だったと思う』と書いてありました」(『現代史資料 ゾルゲ事件』第2巻、「尾崎秀実の手記」9頁)

 

これらの作家たちの記述を尾崎自身が裏付けているかのごとくであるが、むしろこの事実と経過からすれば、事情を知らない作家たちが、「尾崎秀実の手記」によって川合証言をそのまま受け入れたものといえるだろう。

だが、それは事実とちがうと声高に、自分の体験にもとづいて異議を唱えたのは、尾崎秀実とともに日本帝国主義の中国侵略戦争に反対し、中国の情報戦で尾崎とともに、文字通り死闘を演じた盟友の中西功であった。中西によれば、

 

「尾崎のその供述によって事件に巻き込まれずに済んだ多くの人たちがいるはずだ」、「尾崎のそうした通説を(仮説)をうけいれることによって、尾崎の上海時代の協力者を当局の追及からかわすことができたのだ」というのだ(『中国革命の嵐のなかで』青木書店)

 

この中西功発言の重要な意味を理解し、これをさらに検討した人は見当たらないが、これは尾崎秀実研究のなかで、尾崎の転向問題とも絡むもっとも重要な核心的な問題点のひとつなのである。

戦後70年が経過し、その真相を知る者はほとんど鬼籍の人となり、川合の著作の虚構を信じ込んで、誰も疑問視する人はいなくなった。尾崎秀実論はこの問題にこれ以上にふれることはなく、真相は闇に埋もれてしまった。関係者の証言の断片を紡ぎ出そうとする裏付け調査は誰もしなかった。

尾崎は上海から引き揚げてきた1932年暮、年末休暇を利用して、再び中国に渡り、北京においてスメドレーと会談を行った。それは川合が『回想』(第7章 華北から満州へ、261頁)に書いているような、「北支方面の諜報組織の確立のための相談」だったのか、尾崎、スメドレー会談の真相は何だったのか、その真相は遂に裁判関係資料にも全く浮上しなかった。尾崎は完全にその真相を隠蔽することに成功し、組織を防衛し、中西功が言う通り被害を最小限に食い止めることに成功した。

この尾崎・スメドレー会談の真相を知っている人物は、尾崎秀実本人と、スメドレーの当事者のほかには、中西功、堀江邑一と細川嘉六しかいない。もし他にもいたとすれば、その後の経緯を考慮すれば第1高等学校以来の親友であり、同志でもあった松本慎一(尾崎秀実と東大の同期生で、『愛情は降る星のごとく』世界評論社、1946年、に解説を書いた)が、重大な密議に何らかのかかわりがあったと思われる可能性が、関係資料に見え隠れしているが、その点の確証はない。

これは尾崎秀実が上海時代の活動の真相と彼の後継者について、当局側の厳しい拷問による追及にもかかわらず、最後まで口を割らずに守り抜いた、組織の最高の秘密と秘話のひとつである。

事件後、70年以上が経過し、その真相を知る者はほとんど鬼籍の人となって、川合の著作による虚構の物語とそれに影響された著作だけが罷り通り、一般の読者はその通説を信じ込んで、誰も疑問視する者はいなくなった。尾崎秀実論はこの問題にふれることはなく、真相は闇に埋もれてしまった。関係者の証言の断片を紡ないで真相を追及しようとする者は今ではもういなくなってしまった。

筆者はこれまで川合の『回想』を俎上に載せて、それがいかにでたらめな、自己弁明のための虚構であったかを、2008年6月、明治大学リバティーホールで「尾崎秀実と中共諜報団事件─事件発生66周年を記念して」と題して講演し、「ゾルゲ事件関係外国語翻訳集」20号、22号に「尾崎秀実と中共諜報団事件」(その1)(その2)を発表した。また「ちきゅう座」というアクセスが年間400万通をこえるという、社会・政治問題を扱うインターネットのモデムに発表してきた。

それは尾崎秀実の上海時代の活動の真実を明かにしたものだが、今回はユーラシア協会と堀江邑一の関係を考慮して、2010年、在日ロシア大使館主催の「第二次世界大戦におけるリヒャルト・ゾルゲの諜報活動の意味と役割」と題する、露独戦争勝利65周年シンポジュームで報告した「尾崎秀実の上海支局から大阪本社への帰任の真相と32年暮れのスメドレー・尾崎会談の謎に迫る」と題する筆者の報告を、大幅に改訂して報告するものである。

3)尾崎は領事館警察に微細にわたって訊問・追及された

─アグネス・スメドレーは証言する─

戦前、米国にわたって反戦活動に従事した石垣綾子著『回想のスメドレー』(みすず書房 1967年)は次のように書いている。

 

「アグネスは、尾崎という名を明かさないころ、上海での一挿話にふれたことがあった。それはフランス租界から圧迫されて、南京路の大きなアパートの一室に移り住んだころのことであったろう。いつも定期的に会っていた尾崎がさっぱり姿をみせなくなって、変事が起こったのではないかと心配していた矢先、彼から久しぶりの電話連絡があった。

そのころの上海はテロの横行で身の安全はいつも危険すれすれのところにあった。中国政府の官憲はアメリカ人の彼女を逮捕することをはばかっていたので、中国共産党との連絡は彼女を通して行われ、日本の対支政策については、尾崎から詳しい情報を聞くのであった。

尾崎の電話の声に不吉な予感を抱いた彼女は、すぐにアパートをとび出し、上海の街中を何度もタクシーをのりかえて追跡を避け、指定された喫茶店に着いた。入っていくと尾崎は、快活な彼に似合わず沈んだ顔つきで奥まったテーブルで待っていた。彼のもたらした知らせは、驚いたことに日本人スパイがアグネスの借りた同じアパートに移り住んでいたこと。6カ月もの間、訪問者の顔ぶれを調べ上げていたこと。尾崎が上海の日本領事館に呼びつけられて、アグネスとの交友を微細にわたって指摘されたこと。

追及されて窮地においつめられた彼は是認せざるをえなかったこと、などであった。

このことがあって間もなく、上海事変となり、昭和7年2月、尾崎は朝日新聞本社詰めとなって上海を去っている」(上掲書、171~172頁)

 

この著作が発表になったのは1967年7月のことだ。したがって川合の『回想』が出版された1976年当時、すでに『回想のスメドレー』は出版されていたし、石垣綾子は健筆を振るっていた。

風間道太郎の『尾崎秀実伝』(『ある反逆』改訂版、1968年)の執筆当時は、すでに『回想のスメドレー』は出版されていたし、石垣綾子は健在だった。ヌーラン事件関係でスメドレーのアパートに出入りする尾崎が領事館警察に喚問され、参考人訊問されたことや、ゾルゲや尾崎、スメドレーもヌーラン事件の直接的な関係で監視や尾行の対照となり、ゾルゲの秘密任務まで暴露され、ゾルゲ機関は摘発寸前にまで追いつめられたことは知られていないから、このスメドレー証言の重大さに気付いた人は誰もいなかった。

このスメドレーの証言は『尾崎秀実著作集』(勁草書房)第2巻の月報(1977年7月)に「A・スメドレーと尾崎秀実」のタイトルで、文章に多少ちがう箇所があるものの、石垣綾子はほとんど同じ内容の文章を掲載している。

「月報」と異なる箇所は、日本人スパイがアグネスの借りた同じアパートに移り住んでいた」という点が「月報」の文章で欠落しているだけだ。「日本のスパイであるか」、「工部局(租界)警察のスパイか」の確認ができなかったため、その点だけを削除したのであろう。

このスメドレー証言で重要な点は「このことがあって間もなく、上海事変となり、昭和7(1932)年2月、尾崎は朝日新聞本社詰めとなって上海を去っている」という、スメドレーと尾崎が会った時期が、上海事変(1932年1月28日)の直前であることが明確に示された点である。なぜそれが重要なのか、川合貞吉著の『回想』は虚構であることの裏付が、スメドレー証言によって得られたことだ。

この石垣綾子の証言はアグネス・スメドレーからの伝聞によるものであるが、石垣はスメドレーから尾崎の朝日新聞本社異動の原因となった、ヌーラン事件とのかかわりについての詳細は知らなかった。それは石垣が書くように、

 

中共指導者と密接な関係にあるスメドレーは日本からも、蔣介石政府からも睨まれている存在で、そこに出入りする尾崎は日本の領事館警察から呼びつけられて、スメドレーの交友関係を追求され、言い逃れる余地がなくなったのである」

 

などというような生易しい問題ではなく、もっと深刻な事件が起きたのだ。

尾崎が上海から日本に帰国せざるを得なくなった真因は、ヌーラン事件に関連して領事館警察に喚問され、尾崎とスメドレーの関係を追求され、参考人訊問で言い逃れる余地がなくなったことが直接の原因だったのだ。それはまさにゾルゲグループにとっての最大の危機だったのであり、事実、これによって上海におけるゾルゲグループは壊滅させられることになった。

 

4)コミンテルン極東局の壊滅─組織部長ヌーランの逮捕

─それはゾルゲグループや日本にどんな影響があったのか─

ソ連共産党が10月革命後、世界革命のために設けたコミンテルン(国際共産党 創立大会は1919年)の地域組織である東方部に中東、近東とならんで極東局が1926年4月に創設されたが、中国革命の激動のなかで1927年に閉鎖に追い込まれ、1928年春、ヌーラン夫妻が上海に到着して、その年の秋に再建された。

 

「1931年4月、サイゴンのフランス刑事局が何人かのインドシナ共産党員を逮捕し、彼らがそのような組織と関係していたことを洩らした時、初めて日の目を見たが、しかしこの組織の詳細を暴いたのははるかにセンセーショナルな一連の事情であった。」「1931年6月1日、シンガポールのイギリス警察がマレー共産党と密かに交渉をもっていたあるフランス人のコミンテルン機関員ジョセフ・ディクレーを逮捕した。彼の文書の中から『ヒラヌ―ル私書箱208』という上海の電信用の宛て先と私書箱番号が見つけだされた。租界警察がこの発見をさらに手繰っていくと、フランス語とドイツ語の教師をしていたイレーヌ・ヌーランなる人物にまで行きついた。彼は1931年6月15日に逮捕された。(中略)

香港のイギリス警察は、グエン・アイ・クワクという安南人(後のベトナム革命の指導者ホーチミン)を逮捕した。彼はボロディン(中共の軍事顧問)の中国派遣に同行した。彼は広東と中国の南部で共産党の幹部養成学校を開いていて、香港に下部組織があった。彼が逮捕されると、ヌーランの場合と同様に国際赤色救援会を初めとするソ連の大衆組織によって世界的な運動が開始され、彼が香港のイギリス当局からサイゴンのフランス刑事局に引渡されるのを阻止しようとした。グエン・アイ・クワクは、それ以来8年間といもの、謎のように視界から消えた。彼は、インドシナ(やがてヴィエトナムとして知られるようになる)共産党の指導者として再び世に出てきた。そのときの彼の名は、ホー・チー・ミンであった。(F・W・ディーキン、G・R・ストーリィ共著『ゾルゲ追跡』筑摩書房)

 

6月15日、ヌーランは上海市四川路235番地で逮捕された。ヌーランの名はYa・ルージャク(ルエッグ)で通っていたが、コミンテルン極東局の組織部長で、ヌーランの本名はヤコブ・マトビエビッチ・ルドニク、夫人はタチアナ・ニコラエブナ・モイセーエンカである。

ヌーランは闘争経験の豊かな「チェカー」(反革命、サボタージュを取り締まる組織でKGBの前身)の工作員で、特殊任務のためフランスで逮捕され、2年間下獄したこともあった。今回、明らかになった訊問記録からみても、南京の国民党に引き渡されたあとも彼は一切黙秘し、何も語らなかった。

ヌーランは汎太平洋労働組合書記を務めていた関係で、事件は世界的規模で蒋介石への抗議キャンペーンとして発展していった。コミンテルン極東局の組織はこれによって一時閉鎖を余儀なくされ、抗議行動やヌーランの救援活動を組織する指導者がいなかった。こうした緊急の非常事態に対応してこの行動を組織した陰の人物がゾルゲだった。

ゾルゲグループのメンバーも諜報活動の原則に反して、公然たる抗議行動や組織活動に動員された。コミンテルンの地域組織である極東局が壊滅したためである。生か死か、組織の存亡をかけて、アグネス・スメドレーや陳翰笙(ゾルゲグループ)までも、救援活動に参加した。救援組織は孫文未亡人の宋慶齢を会長にして、国際的な規模に発展していった。

ルエッグ(ヌーラン)の救援委員会にはアルバート・アインシュタイン、アンリ・バルビュス、マキシム・ゴリキー、バーナード・ショウ、ロマン・ローラン、ドライザー・デューイ、アグネス・スメドレーなど世界的に著名な人たちが参加し、抗議声明を発表した。しかし、南京政府は口を閉ざしたまま、一切とりあわなかった。

ヌーラン摘発の経緯にはもうひとつ中国側の別の事件が密接に絡んでいた。ヌーラン事件の2カ月前の1931年4月25日、中共特科の指導者顧順章(政治局員)が漢口で逮捕され、顧順章の供述により、6月22日、中国共産党書記長向忠発の逮捕へと発展し、向忠発は銃殺(6月24日)されるという大事件に発展した。中共特科の指導者周恩来の裏切り者に対する報復措置は、一族の皆殺しという過酷を極めるものだった。

当時この事件を日本につたえた唯一の人物は、後にゾルゲ事件で検挙された日森虎雄である。(「日森情報」昭和6[1931]年12月、上海北四川路赫林里八号「向忠発の被逮捕」)、また鍋山貞親の周恩来の報復措置についての回想もある(「日共委員長渡辺政之輔の自殺」文芸春秋、昭和31年5月)。

逮捕されたヌーランの手帳から日本人協力者名が幾人か出た。

 

「逮捕された容疑者の中には、何人かの東亜同文書院の学生もいた。しかしもっと重要な逮捕者は尾崎の研究会の一員で、後に自分の家をアグネス・スメドレーとヴィーデマイヤー夫人の会合場所にした書院の教師の一人野沢房二であった。彼はヌーランには数週間遅れて、1931年7月に日本の警察に逮捕されたが、1カ月間勾留されただけだった。実際には、野沢は極東部と東京の接触に当たっていたのであるが、このことは発見さるるに至らなかった。野沢は彼の地下活動を続け、後に日本で、尾崎に積極的な援助を与えることになった。ゾルゲグループはまさに間一髪の差で危険を免れたのである。」(前掲書『ゾルゲ追跡』74~75頁)

(注、ここに書かれている野沢房二に関する記述はC・A・ウイロビー著『赤色スパイ団の全貌』によるもので、野沢房二は戦後、特高資料によって野沢房二とゾルゲやスメドレーとの関係を掴んだ。野沢はCICにより五反田駅前から出勤途中の野沢を拉致同然に拘引され、スメドレーについてのウイロビー機関の訊問に完全否認を貫いた)筆者が野沢房二の遺族から提供された、本人が遺族に宛てた膨大な回想録から、拙文「尾崎秀実の後継諜報員として摘発された野沢房二の孤高な闘い」として、2008年2月に刊行し、『ゾルゲ追跡』の記述の誤りについて詳細に反論した)

 

ヌーランの会計帳簿は、1931年2月から始まっていた。大量のコミンテルン資料や証拠が押収された。彼は上海で、「大都会貿易会社」をはじめ3つの商社の代表取締役を隠れ蓑に、8つの郵便私書箱、7つの電報ナンバー、10箇所もの住居を構えていた。コミンテルンは秘密ルートを通じて、アジア諸国の共産党への支援金をヌーランの銀行口座に振り込んでいた。

ヌーランはイギリスの租界警察から身柄は南京政府に引渡され、軍法会議で死刑を宣告され、のち無期懲役に減刑された。ヌーラン夫妻は1937年9月、日本軍の南京攻略に伴って、国民党政府が彼を釈放し、国外追放となり、モスクワに無事に帰還することができた。

日本でこの事件について最初の作品は小林俊一・鈴木隆一共著『スパイM』(徳間書店刊)である。また『ゾルゲ追跡』や最近では日露歴史資料センターが発行する「ゾルゲ事件関係外国語文献翻訳集」に「ヌーラン事件とその結末―ヌーラン夫妻の一人息子、ドミトリー・モイセーエンコの聞き書き」(崔吉順 №10)、「中国に於けるゾルゲ諜報団の活躍」(ビクトル・ウーソフ №14)などがあり、「チャイナ・クォータリー」(1994年6月号)にはより詳細な報告が掲載されているが、最近のものとしては鬼丸武士「ヌーラン事件」日本国際政治学会編「国際政治」第146号がある)。

「スメドレーはヌーランの幼い一人息子ドミトリー・モイセーエンコを救援するために、ルート・クチンスキー(ゾルゲのアジト提供者、のちロシア参謀本部諜報員となり、戦後原爆製造の秘密情報をソビエトにもたらした)に引き取ってもらうことを提案したが、諜報組織がばれることを心配したゾルゲから拒否され、スメドレーとゾルゲの関係は壊れた」という。(ジャニス・マッキンノン、スティーブン・マッキンノン共著『アグネス・スメドレー 炎の生涯』)名越健郎(時事通信社外信部長)によると、

 

「英警察が作成した約100ページのゾルゲ・ファイルによれば、英警察がゾルゲをソ連のスパイではないかと疑いはじめたのは、上海赴任から約2年を経た1932年1月ごろだったようだ。ゾルゲをマークした『D.S.Iエベレスト』と名乗る防諜担当の刑事が、同年1月10日付で作成した英文の報告はこう記載している。

『信頼できる筋から、上海に居住しているリヒアルト・ゾルゲと名乗るドイツ人は、コミンテルン(国際共産党)のメンバーだという秘密情報を入手した。ゾルゲは中国北部から上海入りし、1月までワンカショー・ガーデンの1階23号室に居住。アパートを出るのをほとんど目撃されておらず、常にタイプライターに向っているが、彼をよく訪ねる複数のドイツ人とチェスをしている。

電話が頻繁にかかり、他人の盗聴をおそれている。年齢は35歳くらいで、身長は5フィート9インチ。中肉でひげをきちんと剃り、ドイツ語と英語に堪能。現在の住所は調査中』とあり、このあと、「警察のビグノリス大尉は32年4月、『ゾルゲの厳重な監視は、必ず興味深い結果を生む』と監視強化を指示。ゾルゲの写真や筆跡を部下に配付した。

そして以下、ゾルゲのファイルから共同租界警察の内偵の状況を追って、ゾルゲの住所の変更、オートバイを購入したこと、その登録ナンバー、フランス租界警察の交通部から入手した写真の複写、郵便局で入手したゾルゲの筆跡、中央郵便局に設置した私書箱のナンバーと監視状況のほか、『ゾルゲは1897 ? 年生まれのジャーナリスト。ドイツ人。博士号取得。30年1月10日、マルセイユから上海に到着。未確認情報によれば、彼はコミンテルンのメンバーで、1931年12月、上海におけるコミンテルンの重要なエージェントと接触した』ことなど、ほぼ正確にゾルゲの行動が細かく記録されている」という。

この名越論文にはさらにスメドレーについて、英警察の監視の状況についても細かく書かれており、その中で「しかし、尾崎については英警察はノーマークだったようだ」と指摘、ゾルゲを「ソ連のスパイ」といち早く見破った英警察は、8年間もゾルゲの正体を見抜けなかった日本の警察に比べ、情報能力が圧倒的に上回っていたといえよう」と結んでいる。(名越健郎著「英警察、1930年代に『ソ連スパイ』と断定─米国立公文書館(アーカイプス資料に見るゾルゲの実像」、『国際スパイゾルゲの世界戦争と革命』社会評論社所収56頁)

 

しかし、この名越論文にあるように「尾崎はノーマーク」などの悠長な状況だったわけではなく、実際はゾルゲと同様に上海領事館警察に喚問され、スメドレーとの関係を否定できない状況に追い込まれるという、もっと切迫した非常事態の状況下にあったことは前述したスメドレー証言にある通りであり、尾崎が上海から撤退せざるを得なくなった事実が何よりも如実に示しているだろう。

スメドレーの証言(石垣綾子の著書)と、この米国公文書館のアーカイブス資料とを比較検討すると、英警察が「ゾルゲがソ連のスパイではないか」と英租界警察にマークされるのは、1931年12月以前であり、尾崎がスメドレーに、「もう君とは会えなくなった」と切り出したのは、上海事変(1月28日)の起こる前であり、「6カ月間もスメドレーの監視を続け、尾崎の行動をつきとめた」こと、尾崎が日本に帰国するのは32年2月4日(上海丸に乗船)などの点から考えると、尾崎秀実やゾルゲに対する工部局警察の監視体制の開始時期は、ヌーラン夫妻の逮捕と全く同じ時期だったことがこれによって判明する。

当時、コミンテルンの指令で、ヌーラン夫妻の釈放のために、ハルビンから上海へオットー・ブラウンとハーマン・ジブラーという2人のコミンテルン工作員が派遣され、2人は2万ドルをそれぞれ携帯して、ゾルゲに手渡した。弁護士費用ばかりではなく、中国の法官に対する多額な買収資金を利用したこの作戦には、10万ドルの大金が支出されたと言われている。(マーダー・シェフリッグ、ベーネルト『ゾルゲ諜報秘録』朝日新聞社1976年、86~87頁)

上海工部局警察の尾行、張り込み、監視をゾルゲが知らなかったわけではない。国際赤色救援会は国際世論の喚起につとめ、数十人の外国人記者たちが傍聴する江蘇省の高等裁判所法廷の模様はたちまち世界の注目の的となった。

中国最高裁判所は中国に於ける領事裁判権を共有する外国人を審査し、処理することは中国の法律に違反すること、裁判所は被告が外国人の弁護士を依頼することを禁止していること、被疑者を1年以上勾留することを禁止していること、被告が1年間に6カ所も刑務所を替えて非人道的な待遇を受けていることなどを訴えた。

それだけ大規模な国際的救援運動だったから、その裏舞台を切り回していたゾルゲの存在は、到底、隠し切れるものではなかった。

モスクワの「同志ベルジン」(参謀本部諜報総局長官)宛の暗号電報(№3258)はこう伝えている。

 

「モスクワ、同志ベルジンへ

南京はあたかも軍事スパイの行跡を見つけたかのようなことを、中国の情報筋から知った。一人のドイツ人とユダヤ人が疑われているようだ。われわれの昔の過失と地元のドイツ人の間の噂にもとづくと、ラムゼイ(リヒアルト・ゾルゲの略字を組み合わせた暗号名)を取り囲む疑いの輪はますます狭まっていると思う。ラムゼイは必ず交替要員の到着を待たなければならないのか、あるいは、その到着によらず彼が出発できるか、至急知らせていただきたい」

これに対して、直ちにベルジンから返信が到着している。

[電報に対する決済]「ラムゼイに、交代要員を待たずに速やかに撤退させよ、さもなければ終わりだ。1932年10月11日、ベルジン」(前掲書所収、A・Gフェシュン「ゾルゲ事件関係文書評論」305頁)。

 

この一連の資料と証言によって、尾崎が、朝日新聞上海支局から大阪本社に引き揚げるのは、「社内の定期人事異動」などではなく、上海工部局警察から情報を得た領事館警察が尾崎を参考人尋問して、スメドレー宅に出入りしている事実確認を迫り、尾崎は尾行、張り込み記録を突きつけられて、否定できなくなったこと、工部局(租界)警察はゾルゲがコミンテルンの工作員と連絡をとっている事実や、ゾルゲの監視記録から、尾崎もそのグループと睨んで日本領事館警察に通報したのであろう。社内の異動であるかのように手続きされたとしたら、大阪本社には尾崎を緊急の場合に援助できる協力者が存在していた可能性があるが、いまそれを裏付ける資料はみあたらないが、当然それはあり得るだろう。

前述した当時の朝日新聞上海支局長太田宇之助の証言は、川合貞吉の証言とは全く食い違っていて、はるかに具体的で真実味があるだろう。

ヌーラン事件の余波をもろに被った結果だったということは明らかだ。ヌーラン事件はゾルゲの活動にとってさまざまな悪影響を及ぼした。

尾崎が日本に帰る客船の3等客室には、上海事変の戦禍を避けて内地に引き揚げる東亜同文書院の学生たちが乗船し、そこに中西功が潜んでいた。尾崎と中西は今後の中国革命に対する協力のありかたについて、真剣に意志統一の協議をつづけたのである。だからこそ中西功は「尾崎の帰国からゾルゲが日本に上陸して宮城与徳を介して奈良公園で再会を果たす2年3カ月間を、尾崎の生涯のうちで平静な状態をもちえた、安らぎの平安な時代だった」などというのは俗論だ、と完全否定したのだ。

尾崎が帰国する神戸港にはゾルゲと尾崎の接触をとりもった、日系米国共産党員鬼頭銀一が出迎えていたことは、加藤哲郎一橋大学名誉教授が発掘した資料によって、今日では明かになっており、日本帰国後も二人の同志的な関係は、鬼頭がパラオ諸島のペリリュウ島で怪死(1938年5月24日、中毒死、享年34)するまで続いた。(加藤哲郎「ゾルゲ事件の残された謎」「ゾルゲ事件関係外国語文献翻訳集」№19、『情報戦と現代史』花伝社、2007年)

こうして尾崎秀実は1932年2月に日本に帰国したが、それは前述した川合貞吉、尾崎秀樹、風間道太郎らと、尾崎秀実の「手記」に裏付けられた、これまでの通説とは全く異なっている。これによって尾崎の上海での活動の終焉とはならなかったし、平安な生活が戻ったわけでもなかった。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study691:160108〕