*この論考は全体がA4で33頁に及ぶため、読者の忍耐を勘案して3回に分割掲載することにしました。(ちきゅう座編集部)
「─戦後70年目の真実─ゾルゲ事件特別講演会」( 2015年10月18日)
日本ユーラシア協会主催
渡部富哉
5)スメドレーの証言を裏付ける松本慎一の証言
このアグネス・スメドレーの証言は川合貞吉や尾崎秀樹、伝記作家風間道太郎らが書いてきた、これまでの通説とは真っ向から対立し、尾崎秀実の真実に迫る極めて重要な問題であるから、もう少し別の方面からの裏付け証言で検討してみよう。
第1高等学校以来の尾崎の親友で、同志でもあった松本慎一著「日本帝国主義と尾崎秀実」(「世界」1946年12月号、『回想の尾崎秀実』柘植書房所収)によると、スメドレーの証言(石垣綾子『回想のアグネス・スメドレー』)が明らかになるのは1967年のことであり、松本慎一は日本の敗戦の2年後、1947年に死去しているから、松本が書いたテキストの裏に潜んでいた真意は、米国の占領下ということもあって、読者にはつたわらなかった。その裏に隠された真実が、ようやく筆者の調査によって、64年ぶりに明らかになったのである。松本慎一は次のように書いている。
「尾崎は昭和7(1932)年、上海から上京し、反帝運動のビラを示しながら、基金カンパに応ずることを求めた。翌年、突然、東京に『潜入』し、『潜ってきたんだ。こんどは危ない。大陸ですんでのところでやられてね』と言いながら、私が探したアジトで数時間を過ごした後、大丈夫と見極めてから、素知らぬ顔で下阪した」(尾崎秀樹編『回想の尾崎秀実』勁草書房に転載、26頁)。
松本論文は『回想のスメドレー』の記述と同様に、当時の尾崎秀実の切迫した状況を裏付けている。尾崎が「大陸ですんでのとこでやられて」というのは、上述したヌーラン事件のあおりで領事館警察に参考人訊問されたことである。スメドレー証言を松本論文は裏付けている。そんな切迫した状況におかれ、スメドレーのアパートは当然、立ち入り禁止になっているにもかかわらず、どうして『回想』が書くように
「尾崎と川合はその嵐のなかでゾルゲと街頭連絡をとり、外国駐屯軍のバリケードをたくみに突破して、フランス租界へまぎれこみ、アパートの一室にスメドレーを訪れ、4人は夜が白むころまで、地図をひろげて、川合のもたらした満州の情報を中心に、情勢を分析し、討議した」
「いったん帰ったゾルゲが8時ころ(フランス租界にあるスメドレーのアパートに)またやってきて、今後の行動についての相談をはじめた」「ゾルゲは尾崎が朝日新聞社を辞職しても上海にとどまることを要望したが、尾崎は承諾しなかった。新聞社をやめれば、これまでの半分も情報を集められないだろう」と言って断った。(『回想』89頁)
などという日本の読者にはかなり広範に伝わっている「ゾルゲは朝日新聞社を辞職しても上海にとどまることを要望したが、新聞社をやめれば、これまでの半分も情報を集められないだろうと尾崎は断った」という、尾崎の「手記」にも裏打ちされている、川合のゾルゲと尾崎の会話の描写は、全部虚構だったのだ。しかも尾崎の帰国する前日ともなれば、当然、家族も乗船手続をしているはずではないか。スメドレーが「尾崎と会うために車を次々に乗りかえて、尾行のないことを確認してようやく会うことができた」、と言うのは「上海事変(1月28日)の前」であるという。スメドレーの文面によれば、これが尾崎と上海での最後のデート(打ち合わせ)になったはずだ。こうして慌ただしく尾崎はスメドレーと別れたのである。
尾崎が領事館警察に参考人訊問され、「スメドレーとの関係を認めざるを得なかった」という非常事態の発生は、尾崎とゾルゲやスメドレーたちが監視対照になっているスメドレーのアパートで、連絡をとりあうということは絶対にありえない。
尾崎が領事館警察から訊問されたという事実を、本社はどういう経路で掴んだか、具体的には何も分かっていない謎だが、直ちに、緊急に尾崎を大阪本社に呼び戻したのだ。これまで罷り通っていた定説は尾崎秀実の供述調書と、それを脚色した川合の『回想』を信用しすぎた虚構にすぎない。
日本の警察が当時、尾崎をマークできなかったという名越論文について、昭和10年(1935)10月号 の「特高外事月報」に掲載された「在上海ソ連邦情報機関の組織網」(巻末の資料参考)には26名の人物の名が挙げられ、アグネス・スメドレーについては、「米人新聞記者にして作家、反帝連盟および共産主義青年団代表、北京路157」と記載され、スメドレーがソ連の情報機関員であることを、すでに1935年に明瞭に「特高外事月報」は記載し、日本の特高も厳重にスメドレーを監視対象としていたことが判明する。したがってこの経緯からすると、尾崎もかなり明確に当局に掴まれていたことは明らかである。
だから帰国後の尾崎は平静にして、時を稼ぐ必要があったのだろう。左翼の前歴者が逮捕され、獄中から出てくると、3年間は組織と連絡を断ち切るというのは、当局側の「泳がせ」を警戒した左翼運動の極めて当然で、原則的な防御措置だった。
スメドレーの年譜によると、1933年5月には、モスクワの出版社の求めによって、スメドレーは当時モスクワ、レニングラードで執筆活動をしていた。当局はその事情も知らず川合にでたらめな供述をさせ、川合もまた『回想』であたかも真実であるかのように書き、それを真実だと受け入れて、著名な作家が書きまくったために通説となっているが、それはすべて虚構であった。
1933年には川合貞吉は180度の転向して、右翼組織に入った。その詳細は拙文「尾崎秀実と中共諜報団事件─彼らは戦争に反対し中国革命の勝利のために闘った」(社会運動資料センター、2011年9月25日)に詳細に記載してある。川合は当時、中国の日本侵略と闘った国民的英雄の馬占山暗殺計画にも加わったことを『回想』で自慢げに書いている。川合が大川周明(東京裁判でA級戦犯・甘糟正彦(関東大震災で大杉栄夫妻を殺害し、満州国の闇の帝王と言われた)・大迫通員(関東軍の特務機関長)の系列下の「捨石会」天津支部の代表としてその名が「在北支左右翼系団体進出状況及び指導連絡系統図」(在北京日本大使館警務部)に残ることを前掲書の参考資料として掲載した。
尾崎もそれに合わせて「2年3カ月の日常生活の安らぎが戻った平安な時代だった」などと「手記」に書いたのは、次に述べる上海時代の尾崎秀実の後継者堀江邑一を秘匿するために川合供述に口裏を合わせた虚構だった。
それが何よりの証拠は戦後、1949年に川合貞吉が米占領軍のウイロビー機関に召喚され、スメドレーに関する証言を求められたとき、川合は「スメドレーとは1~2回しか会っていない。特に親しい関係ではなかった」「スメドレーと会ったのは1931年10月だった」と供述している。特高警察の供述調書などは裏付けのないものは、全く信用できないということを、研究者は肝に銘じるべきである。
6)32年暮のスメドレー・尾崎会談の真相
尾崎秀実の転向問題にも絡む、本日のテーマであるもう一つの隠された秘話の真相に迫ろう。
前述した『尾崎秀実伝』(風間道太郎著)は、尾崎・スメドレー会談について次のように書いている。
「その年(昭和7年)12月20日ころ、上海のスメドレーから、『29日に北京で会いたい』という簡単な文面の手紙がきたが、それは『適当な人間を連れてきてくれ』という意味であった。尾崎はすぐに、まず東京に行って、川合貞吉に会うことにした。川合は尾崎が日本へ帰ったあとも上海にとどまって、仕事を続けていたが、いちど警察に挙げられたり(それはゾルゲとの関係がばれたためではなかったが)、身辺に危険が迫ってきたことを感じて、ゾルゲとも相談のうえ、半年ほど前に、ひとまず東京に帰ってきていたのであった。(中略)
そして尾崎は川合と会い『上海から連絡があったよ。これから準備して、すぐに北京へ発ってくれないか。ぼくもあとの船で行く。おなじ船で行くのは、目立って危険だから。』尾崎のことばに、川合は目をかがやかして、『よし、北京か、北京ならぼくの第二の故郷だ。それに、もう半年近くも東京でぶらぶらしていて、退屈していたところだ』と、打てばひびくように答えた。
川合は、すでに、満州や華北でなければ身を入れて仕事のできない一種の風雲児だったのだ。同時に彼は『苦労をかけて済まないな。しっかり頼むよ』と、別れ際に尾崎にかたく手を握られると、不思議に腹の底から闘志がわきあがるような感激家でもあった。
こうして尾崎と川合は北京に向かった。尾崎は北京につくと徳国飯店に部屋をとった。そして29日に、スメドレーも川合もこのホテルに尾崎を訪ねてきた。3人は尾崎の部屋で2日も3日もかかって、華北におけるスメドレーの情報機関の組織や、川合の今後の活動方法などについて討議を重ねた」(『尾崎秀実伝』184~185ページ)
これが、伝記作家の風間道太郎が川合から聞き取りして、尾崎が1932年2月に朝日新聞上海支局から大阪本社に呼び戻された年の暮に、再度『北京へ潜行した』あらましの話であるが、「適当な人物を連れてきてくれ」というのは、日本で半年間も定職につかず、知人宅に居候を決め込んでいた川合貞吉を指すのだが、そのような文面は、スメドレーの尾崎宛ての手紙にある筈はない。スメドレーの尾崎宛の手紙など証拠となるものが残っているはずはないから、川合の伝聞による作家の創作にすぎない。
最も信用のできない川合の言うとおり、それを真実と受け止めて、風間は川合の証言をさらに補充して書いてしまったが、川合がいうところの「北支・満州方面の諜報組織の構築」などの話は全く空中楼閣の話で、川合が供述する、「昭和8(1933)年1月以後、河村好雄を組織して諜報活動を継続した」という川合の供述や『回想』は、特高の筋書きに沿ったでっち上げであり、実態は何もなかったことはすでに詳述したとおりである(「尾崎秀実と中共諜報団事件(その2)」)「翻訳集」23号)。
川合は取り調べ主任小俣健(警部補)の「諜報活動をなしたる経過如何」の訊問に対して、次のように供述している。
「昭和8(1933)年には北支に渡って尾崎を通じて再び某外国婦人、支那人某らの指令の下に活動をなし、その後も引き続き尾崎及び同人を通じて上部として紹介されたる宮城与徳と連絡して同様の活動をなし、今日に至った次第であります」(第4回訊問調書 『現代史資料24巻「ゾルゲ事件4巻」昭和16年11月9日 495頁』
続いて諜報活動の内容については、「昭和7(1932)年7月、船越を通じて、上海に於いて活動の困難なること、将来北支に於いて活動したき旨をゾルゲに報告してその承認を得、一旦帰国して大阪において尾崎と連絡をして今後の連絡を依頼し、昭和7年末、渡支北京に参りました。同地において尾崎を通じて、当時宋夫人と称していたスメドレーと連絡し、次いでスメドレー及び支那人某、と会合し、スメドレーより北支に於ける支那軍閥の動向、及び関東軍の動向に対する諜報活動をなすべき指令を受け、さらに、同人等より協力者の獲得の指令を受けて大連に行き、東亜同文書院当時の左翼関係者河村に今次、諜報活動の情を明かして之を協力者に獲得しました」(「川合貞吉警察訊問調書」『現代史資料』「ゾルゲ事件」第4巻 497頁)
と供述しているが、拙文「尾崎秀実と中共諜報団事件」(その2)で詳述したとおり、河村好雄を組織して北支方面の諜報活動を展開したという供述は全部虚構だった。これによって河村好雄は検挙され、彼は未決のまま獄死した。
この川合貞吉の供述は昭和16(1941)年11月9日のことだから、川合が逮捕された10月21日から3週間に満たない後のことだ。
以上が川合の供述調書にある「1932年末の尾崎・スメドレー会談」のすべてなのである。この裁判資料によれば不思議なことに、取り調べる特高側は、もっとも肝心と思われる尾崎・スメドレー会談の内容や、北支方面の諜報活動に参加するメンバーの顔合わせに尾崎が出席しないことについて、さらに諜報団のメンバーは誰と誰だという犯罪構成の最も核心的な共犯者も追及していないし、川合の供述もない。当局にとっては犯人グループの特定ということはもっとも重要なことではないのか。それについては当然、会議に参加した尾崎の供述をとる筈だが、それもない。そのような基本的な問題が欠落している治安維持法違反容疑者の供述調書というものはあり得ないのだ。尾崎の供述によると、
「翌昭和8年1月早々、そのグループの結成が行われる運びになり、スメドレーに、わたしにもその会合に出席するように奨められましたが、私はそのとき『大朝』にも秘して北京に行った様なわけでありましたから、それには出席せず、昭和8年1月初め頃、帰阪致しました」(第20回検事訊問調書)
尾崎はそのメンバーとも会わずに帰国したという。だからそのメンバーは誰が出席したか尾崎は知らないという伏線になっている。そんな会合はなかったから、検事もそれ以上は追求していない。
このスメドレー・尾崎会談の真相は川合の供述や、『回想』に書かれているような、河村好雄を巻き込んだ「北支に諜報組織をつくる」、などという空中楼閣の夢物語ではなく、真相は尾崎秀実が上海時代に果たした任務の後継者と、ヌーラン事件によって断ち切られた、コミンテルンとの国際連絡ルートの再構築のための、極秘の打ち合わせであったのだ。
そこでスメドレーと尾崎の間で、尾崎の後継者となる人物を証明する符牒として、フランス製の高級石鹸の包装紙を2つに切って、それを突き合わせることで本人であることを確認することにした。それが後述する堀江邑一の証言「尾崎秀実と私」(『尾崎秀実著作集』第4巻、月報)に登場する。
以下、これまで誰も知らなかった尾崎秀実の上海時代の活動秘話を、関係者の証言と対比のなかでその真相を浮き彫りにしていきたい。
まず、川合貞吉著『ある革命家の回想』の記述から見てみよう。そこには次のように書いている。
「彼はすでに来ていた。ホテルのボーイの案内で2階の奥の部屋に通ると、彼の部屋にはすでに先客があった。私が外から声をかけると尾崎が首だけ出して、出迎えてくれた。請じられて部屋の中へ入ってみると、なんとそこにスメドレー女史がいるではないか。私はびっくりするやら、懐かしいやらである。私が訪れるまでに二人の間の話は終わっていたらしく、スメドレーが尾崎から渡された記録類を腰をかがめて靴下の中に押し込んでいるところだった」「仕事上の話は尾崎がすべて私に代わってしてくれた後なので、私との間にはあまり重要な話はなかった」(『回想』262頁)
川合に全幅の信頼をおいていた尾崎秀樹や風間道太郎たちは川合の記述や本人の話を全く疑問とせず、積極的、かつ肯定的に川合の著作を補完して自分の作品に取り入れ、その後、川合が河村好雄や浜津良勝などを組織して、北支方面の諜報活動を展開する物語を発表してきた。もしこのとき尾崎・スメドレー会談は川合が言うように、「北支、満州方面の諜報組織を作る」ための重要な打ち合わせの会談だとしたら、その活動の中心的人物と自認している川合が、なぜ尾崎・スメドレー会談に参加しなかったのか。『回想』によれば、「私が訪れるまでに2人の間の話は終わっていた」と川合は書いている。
風間道太郎によれば、「上海のスメドレーから29日に北京で会いたいと手紙がきた」とか、「適当な人間を連れてきてくれ」とか、臨場感のある文章を書いているが、この川合の『回想』によれば、32年末の尾崎の北京行きの目的は川合には全く知らされておらず、北京でスメドレーに会うことすら川合には驚きであった。北京にきて初めて知ったことになる。
『回想』によれば、翌日も川合とスメドレーは30分しか話していない。しかも雑談だ。ところが、一方ではこれまで川合の供述調書や『回想』によれば、尾崎に代わる諜報組織の責任者は船越寿雄であると供述している。
「山上、船越は上海当時私の上部、尾崎の後任者として上部との連絡に当たって居った者であり、尾崎等に次ぐ地位にあったものであります。河村は私が諜報メンバーとして獲得したものであり、従って上部との連絡は私が取って居ったものであります。(中略)
また河村との関係は最初のときは、スメドレー、外人某、支那人某に紹介したしたのでありましたが、その後に於いては私が直接同人とその活動の成果を連絡者支那人某に報告しておりました。」(川合貞吉・第四回被疑者訊問調書、「現代史資料」・ゾルゲ事件第四巻、406頁)
川合貞吉はその後、河村好雄や浜津良勝を組織し、大連、天津に配置し、「全満から刻々と情報が集まった」と『回想』に書いてきたではないか。この供述で特高の言いなりに山上正義、船船越寿雄、河村好雄、浜津良勝などを事件に巻き込んだ。
もしそれが真実なら、尾崎の後任の責任者と川合の供述にある船越寿雄や、組織の中心的人物と『回想』に自画自賛して書きまくってきた川合が参加しない「北支・満州方面の諜報組織の構築」のための会議が成立するのか。それは当然すぎる疑問ではないか。
それは川合の『回想』には全く書かれていないし、当局もそんなことは追及もしていない。それは特高が河村好雄や浜津良勝らを事件に巻き込むために、想定した筋書きに沿って供述させただけのことであり、全部虚構だからだ。そのような「北支・満州方面の諜報組織」などは存在しなかった。すべては川合貞吉の創作だった。なによりもその中心的な人物であるアグネス・スメドレーは、
「1933年5月17日、上海を発って汽車で北京へ行き、そこからソ連へと旅を続けた。ソ連で療養所に入り、そこで『中国紅軍は前進する』という本を書いた。健康回復後、彼女は国際革命作家連名のスタッフとして短期間働いた。1934年にアメリカに戻った」(チャルマース・ジョンソン『ゾルゲ事件とは何か』93頁、岩波現代文庫)
当時、スメドレーは尾崎との会談が終わると著作のためにソ連への旅に出たというのだ。どうしてスメドレーを中心にした北支方面の諜報組織を作ることができるのか。スメドレーが1933年5月以降、中国にいなかったことを川合貞吉も当局も知らなかったのだ。
だが川合の『回想』を裏付けるかのように尾崎は次のように供述している。
「そのほか最も重要な連絡としては昭和7年暮ころ、北京において今次諜報活動に関しスメドレーに川合貞吉を引き合わせたことでありますから、それについていま私の記憶するところを申し述べます。昭和7年夏ころのことと思いますが、川合貞吉が、私が上海を引き揚げてからのかれらの活動状況を私に報告するために大阪に帰ってきたとき、当時、ゾルゲやスメドレーとの連絡が切れてしまったと言うことでありましたから、私は上海以来引き続き連絡のあったスメドレーと通信によっていろいろと打ち合わせた結果、昭和7年12月24日、5日、密かに内地を出発して北京に行き、当時、北京市内の某支那人の家に居ったスメドレーと、その支那人の家や北京市内にあるドイツ人経営の旅館徳国飯店等で打ち合わせた結果、満州事変以来日本の勢力がさらに北支に及ぼしてきているから、今後の活動は北支を中心にする必要がある、という見地から、北京で日支人の諜報グループを作ることにして、かねて打ち合わせの川合貞吉を北京でスメドレーに会わせました。そして翌8年の1月早々、そのグループの結成が行われる運びになり、スメドレーに私もその会合に出席するように勧められたが、私はそのとき「大朝」にも秘して北京に行ったようなわけでありましたから、それには出席せず、昭和8年1月初めころ、帰阪いたしました」。(「尾崎秀実 第20回検事調書・昭和17年3月5日、125頁)
この川合と尾崎の両者の供述には全く矛盾点はみあたらない。むしろ川合の供述を尾崎が裏付けているかのようにさえ思われる。尾崎は裁判に対する基本的な態度として「事実関係については争わない」ことにした。事実関係について争えば犠牲はさらに大きくなることを恐れたからだ。
川合は尾崎が裏付ける供述によって、戦後、1932年以後も引き続いてゾルゲのグループの一員として、北支、満州方面の諜報活動を存分に活動してきたように書いてきた。これが定説として定着する所以であるが、真相は尾崎の供述はそこに介在した同志を守るための苦肉の策だった。
尾崎は特高高橋与助(警部)から、「尾崎の後継者は誰だ!」と追及され、拷問にたいして頑強に否認しながら、対応策を模索した。特高高橋与助は虚偽の証言が入り込まないように厳しい拷問をもって、供述に間隙を与えず、ゆるめることなく追及するのが特高の被疑者訊問の秘訣でもある。攻撃と防御は瞬間的に火花を散らした。尾崎は組織の秘密をまもるために、突きつけられた川合の供述を利用して、組織の秘密と自分の後継者の同志を守り抜いた。川合の供述が逮捕直後の1941年11月9日であるのに対して、尾崎の供述はそれからさらに4カ月を経た、翌1942年の3月5日であることがこれを物語っている。
それは1932年暮れの尾崎・スメドレー会談の直後から、北支方面の諜報組織をスメドレーの指示で、河村好雄を組織し、諜報活動を継続したという川合の供述が、この尾崎の供述によって裏付けられているように受け取られてきたが、川合の著作は全く虚構であった。
それでは特高・高橋与助警部が尾崎から供述させることができなかった、1932年末の尾崎・スメドレー会談の中心的な問題点は何だったのか、その真相が明らかになるのはゾルゲ事件が起こった1941年10月から37年を経た1978年、『尾崎秀実著作集』(第4巻)の月報に掲載された、堀江邑一の論文「尾崎秀実と私」によってであったが、その堀江邑一の証言をひきだすまでの、中西功の涙ぐましい苦闘の物語にもふれながら、経過のアウトラインを振り返ってみることも無駄なことではあるまい。またそのこと自体がこの尾崎秀実の上海時代の最大の謎に迫る一番の近道でもあるからである。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study692:160109〕