*この論考は全体がA4で33頁に及ぶため、読者の忍耐を勘案して3回に分割掲載することにしました。(ちきゅう座編集部)
「─戦後70年目の真実─ゾルゲ事件特別講演会」( 2015年10月18日)
日本ユーラシア協会主催
渡部富哉
7)上海時代の尾崎の後継者は誰だったのかその真相が世に出るまで
中西功は次のように書いている。
「尾崎は私に上海との連絡の仕事を依頼しました。しばらくして、私は、やはり尾崎の家でこれから上海に行って活動するというある人物に引き合わされました。私の仕事はその人と尾崎との間を連絡することでした。その人はいまも健在です。この活動のために私は大阪の天王寺にあった大原社会問題研究所に勤務することになりました。(中略)細川嘉六は検挙されて留守でした。尾崎秀実から私に依頼した仕事の性格を、私は説明をうけるまでもなく知っていました。当時、尾崎はスメドレーに日本の労働運動や日本の白色テロなどについてレポートを送っており、それは上海発行の『中国論壇』(チャイナ・フォーラム)や『労働通信』(ウォーカス・コレスポンデンス)などに発表されていました。(中略)
「ゾルゲについても『あるドイツ人』という表現で、いろいろと聞きました。このとき尾崎はまだゾルゲの本名は知らなかったのですが、またスメドレーについても語っていました。(『中国革命の嵐のなかで』青木書店、1974年、41~42頁)
私が大阪で水野と再会したとき、彼は細川嘉六の家の書生をしていました。彼がなにをしているかを私は聞きませんでしたが、日本の最近の情報や国際的な関係(コミンテルン)の消息にも非常に通じていました。私たちは街や公園を歩きながら何時間も話し合いました。(「上掲書、44頁)
4月(1934年)になって私の満鉄入社は確定しました。私は1934年5月に日本を去り、大連汽船で玄界灘を渡った」(上掲書、48頁)
「尾崎は私に上海と日本との間の連絡員になることを依頼した。」「尾崎が、阪急沿線の稲野にすんでいたこの時期は尾崎伝でも、また彼の陳述や手記でも、彼にとっては珍しく平安な時代ということになっているが、それは必ずしも正確とはいえない。このとき尾崎は今後の活動について真剣に考え、その準備をし、各方面に連絡をとっていた。細川嘉六や水野成を通じて、コミンテルンの日本の運動に対する連絡について種々の関心をしめしていたし、とくに上海との連絡については、警官の調書には出てこない。この時期が『平安』でブランクになっているので助かった人も多いように思われる」(中西功「尾崎秀実論」、『回想の尾崎秀実』所収、勁草書房1979年)
この中西功の証言は極めて重要な証言をくりかえしている。それほど重要なものだが、「これから上海に行って活動するというある人物に引き合わされ。私の仕事はその人と尾崎との間を連絡することで、その人はいまも健在」「私に依頼した仕事の性格は説明をうけるまでもなく知っていた」、「これから上海に行って活動する」という人物は誰なのか。「中西の任務はその人物と尾崎の間の連絡をすることであり、中西はその仕事の内容は説明されるまでもなく知っていた」と、そこまで書いているということは、中西功はすべてを知っていたということではないか。にもかかわらず、中西はその人物が誰であるか、その仕事の内容について一言も書いていないし、説明もない。
多分この著作が出版されるとき、編集者との間でその箇所をめぐって問題になっただろう。それが中西の発言の核心部分であり、その点をぼかしては証言にはならないからだ。それにもかかわらず中西はその点についてはそれ以上具体的には書かなかった。否、実は彼はその真相を書けなかったのだ。(『中国革命の嵐の中で』は1974年に刊行されたが、中西功はその前年73年に死去した)。
結論を言えば、中西は当時、この人物の名を明かすことができなかった政治的な理由と立場(日本共産党の分裂─50年問題)にあったのである。中西は1950年に日本共産党から除名され、復党を求めていた。「その人物」は除名した側の日本共産党の責任者の一人だったのである。その本人の了解なしには真相を公表することはできなかった。
1949年2月、ウイロビー報告の発表は、日本共産党のスポークスマンであり、機関紙「アカハタ」の事実上の編集長であり、農民部長として組織活動に専念していた政治局員という党の要職にいた伊藤律を名指しで、「ゾルゲ事件の端緒は伊藤律氏の供述による」という新聞発表を行った。あからさまな謀略である。(拙著『偽りの烙印』第7章「なぜ『伊藤律スパイ・ユダ説』は作られたのか」参照)
「ゾルゲ・尾崎真相究明会」で川合貞吉は、唯一の事件関係者として羽振りをきかせてきたが、川合貞吉はウイロビー機関の日系二世マツイ中尉と連絡があることを、伊藤律は掴んでいた。占領軍の意図がどこにあるか、この先どこまで謀略が進展するのかの見極めはつかなかった。続いて国鉄の人員整理に端を発する下山事件、三鷹事件、松川事件といういまだに真相不明の、占領下の3大謀略事件が起った。そうした情勢のなかで、「ゾルゲ事件真相究明会」に解散の共産党の決定を伝えたのもその人物だったのだ。その経緯は尾崎秀樹著『生きているユダ』(八雲書店、1964年、角川文庫、2003年)に詳しい。
中西は川合が書く架空の物語では、尾崎秀実が命を懸けて守り抜いた真実を無視することになると確信していた。中西功は前掲書の中で重要な問題点について、川合の証言に対して反論を書いている。
中西の語り口はその人物自身の口から真相を語ってくれないか、と懇願しているように筆者には受け取れる。尾崎秀実の復権はすなわち中西功自身の復権(復党)にもつながることだからである。「ゾルゲ事件は政治の狭間でつねに問題になってきた」という石堂清倫の所論の所以であろう。
そして中西の悲願はようやく『尾崎秀実著作集』第4巻の「月報」(1978年8月)によって、初めて堀江邑一自身によって真相が語られるまで、中西功の死去から5年、尾崎の刑死から34年が 経過していたのである。
8)上海時代の尾崎の後継者は堀江邑一だった
─堀江邑一の証言「尾崎秀実と私」は語る─
堀江邑一は『尾崎秀実著作集』第4巻の「月報」で次のように書いている。
「私が初めて尾崎に出会ったのは、1932年彼が上海から大阪朝日本社に帰ってきて間もないころであった。伊丹(兵庫県)の細川嘉六氏の宅でであった。新進気鋭の中国通を迎えて、われわれ3人は間もなくかたい同志的関係に入った。もと山口高商の中国語科出身の私は、ドイツ留学中ウィットフオーゲルやマジャールの中国研究などで刺激され、中国経済の研究に特別の関心を寄せていた。
そのうち尾崎の上海での協力者ゾルゲが日本にやってき、上海にはその後任者が来ることになり、かつてゾルゲとの関係で彼がやっていた仕事をやるべき、いわば彼自身の後任者を日本から送らねばならなったと言い出し、尾崎は細川氏と相談の上、その白羽の矢を私の上に立てたのである。その頃、私は高松高商に勤めていたが、ドイツ留学に伴う勤務の義務年限が近く切れるし、運良く半年間の内地留学の順番が私に廻ってきたのを幸い、中国経済をテーマにして博士論文を書くという名目で、中国に1年間の私費留学を願い出て、学校当局と文部省の正式許可をとることができた。そのうえ私には1年後帰国したら大阪商大(現市大経済学部)に転勤の内約もえられていた。
こんな事情から私は1933年3月末、上海に行ったが、そこで私は、尾崎が上海時代に親交があったアグネス・スメドレー女史からゾルゲの後任者S氏に紹介されたのである。
上海への途上、私は高松を出発して岡山で山陽線に乗り替えたが、その列車には、かねての打ち合わせによって、大阪から尾崎が乗り込んでいた。車中で私は彼からスメドレーのアドレスと電話番号と上海に於ける私の匿名が瀬戸内海にちなんだプロフェツサー・キャナルとなっていることを知らされた。また私がその本人であることを証明する手形だとして、一枚のフランス製高級石鹸の包み紙を半切した片方を手渡されたが、上海で私がスメドレーを訪ねて、彼女にそれを示すと、彼女も笑いながら他の半分をだしてきて、その模様がぴったり合うのをみて、すっかり打ち解け、あらためて固い握手を交わしたものである。
上海で私は主として東亜同文書院の図書館に通って中国経済の研究に取り組むととともに、日本総領事館をはじめ、各新聞社や中国の大学などまで訪ねて、日本や中国の知識人、文化人との交友をひろめ、情報の蒐集に務めた。
一方、S氏とは週に1~2度南京路やフランス租界のレストランで逢ったり、街頭連絡をしていたが、その間、S氏からは日本やアジアの情勢について聞かれたり、日本や中国の新聞に出た重要と思われる記事をドイツ語に翻訳して渡したりした。それは尾崎から聞いた通り、私の中国研究と決して両立し得ないものではなかった。
しかし私の仕事は、意外なことから長くは続かなかった。いわば「不発弾」に終わったようなものである。というのは、私が上海に出発後間もなく高松高商に「左翼学生事件」がおき、そのとばっちりで、8月はじめ私が香川県特高の手に検挙され日本に連れ戻されたからである。そして私は翌年5月保釈出獄後、高松高商を辞任し、上京した。」
このあとこの貴重な堀江邑一の証言は、東京で尾崎秀実が東亜問題調査会に転勤し、細川嘉六も出獄して上京し、堀江邑一は昭和研究会の事務局長になり、支那問題研究会に参加し、3人は再び東京で緊密に連携して活動した、ということや、尾崎がゾルゲとの関係について、堀江には決して隠し立てはせず、ゾルゲの見解について意見を求めたことなど、極めて貴重な証言を残している。
こうして尾崎秀実の上海時代の最大の秘話が明かされたが、川合と尾崎秀樹たちはもたれ合いながら、これほど重要な証言が得られたにもかかわらず、自説の崩壊を恐れて、以後、この重要な証言をさらに詳しく堀江邑一から聞き出すことも、尾崎の著作に紹介されることもなく、堀江邑一の証言は埋もれたままになってしまった。
堀江論文の出現以後ですら、すでに32年が経過し、尾崎秀実や堀江らの知人はすべて鬼籍の人となり、折角のこの重要な証言にもかかわらず、深く検討する研究者はこれまで全くいなくなってしまった。これは「ゾルゲ・尾崎研究」にとってかえすがえす残念なことだった。
この堀江邑一の証言によって、1932年暮れの尾崎・スメドレー会談の真相は尾崎秀実に代わる人物を上海に派遣することについての打ち合わせだったことが確認できたのである。中西功の証言を再確認するならば、堀江邑一と尾崎秀実の連絡員として中西功は尾崎秀実の推薦によって満鉄に勤めることになり、西里竜夫らと「中共諜報団事件」の首魁とされ、死刑を求刑されることになるのである。
9)追悼─堀江邑一
堀江邑一については本日お集まりの人でも知る人は少ないだろう。堀江が1949年に公選制だった当時の教育委員選挙に立候補したとき、筆者は堀江のプラカードを担いで東京芝浦の街を練り歩いた記憶と当時の写真がある。彼は長い間「日ソ親善協会」の会長を務めた。彼を語るには時間がないので関連するエピソードにとどめるが、加藤哲郎著『ワイマール期 ベルリンの日本人─洋行知識人の反帝ネットワーク』(岩波書店)や「ベルリン社会科学研究会」や「べルリン反帝グループ」などをネットで検索すると厖大な資料を入手することができる。
私の報告と関連するところを述べれば、尾崎と細川嘉六が相談して、堀江邑一を上海に派遣することがきまった直後、1933年正月9日に堀江は師の河上肇の隠れ家を訪ねてお別れの挨拶をかわしている。ともに決死の覚悟だったのである。その悲壮な師弟のお別れの様子は堀江邑一の文章がある(堀江邑一著「回想の河上肇」世界評論社、1948年)。
河上肇は当時、潜行して「32年テーゼ」の翻訳に打ち込んでいた。特高課長毛利基が党内に送り込んだ松村(本名飯塚盈延・「スパイM」)を使って日本共産党を一挙に壊滅に追い込む作戦にでたときだ。日本の生命線といわれた満州侵略のために引き起こされた満州事変と、日本共産党とコミンテルンとの連絡が断ち切れたヌーラン事件を好機と捉えたのである。河上肇は堀江邑一と別れを告げたその4日後に検挙されている。
その後、特高課長毛利基が「スパイM」を使って大森銀行ギャング事件を起こし、「32テーゼ」を討議するために招集した全国代表者会議を熱海で襲撃して全員を検挙し、共産党の壊滅をはかった。
チャルマース・ジョンソン著『尾崎・ゾルゲ事件』は、国際赤色救援会の弾圧や経済学者大塚金之助の検挙、小林多喜二の虐殺や野呂栄太郎の逮捕と虐殺など、この時代的背景についてふれながら、堀江邑一にも論及(84頁)し、堀江が高松刑務所在監中に尾崎が大阪から高松まで差し入れなどで足繁く通った、興味あるエピソードを書いているが、堀江の「月報」に記載された回想「尾崎秀実と私」はチャルマース・ジョンソンの著作(前掲書)が出版された翌年だったために、この重要な秘話は紹介されなかった。この著作は改訂版が2011年中に岩波書店から出版されたが、それに言及されることはなかった。
尾崎秀実の活動では、昭和研究会を経由した情報活動は裁判記録にも書かれているが、その昭和研究会には「世界政策」ほか10の部会があるが、そのうちの9部会の事務局長は堀江邑一が担当しているという興味ある記録がある。彼はゾルゲ事件では検挙されなかったが、その翌年の満鉄調査部事件で検挙されている。
中西功との関係で堀江邑一と2人の政治的立場の相違にふれたが、1950年、朝鮮戦争直前の6月6日、日本共産党は占領軍の弾圧により、中央委員と機関紙「アカハタ」の編集委員は公職追放され(6・6追放と呼ばれる)、その後に成立した日本共産党臨時中央指導部(議長椎野悦朗)のメンバーに堀江邑一と細川嘉六の名がある。
1951年9月8日、対日平和条約調印の前9月4日、検察庁は占領政策違反を理由として、共産党臨時中央指導部員ら18名に政令325号違反容疑で逮捕状が出され、堀江邑一は細川嘉六とともに逮捕されている。
2004年11月6日、「ゾルゲ・尾崎処刑60周年記念講演会」(東京・目黒、杉野学園)でロシアの著名なゾルゲ研究者アンドレー・フェシューン氏(当時、ノボースチ通信社東京支局長)は、「ロシアの情報機関とリヒアルト・ゾルゲ」と題して講演したが、そのなかで「1980年代にゾルゲグループの中で検挙を免れた2人の日本人がひっそりと東京で、もうひとりは外国で亡くなった。この2人が生きていればゾルゲやゾルゲ事件についてもっと面白いことを語ることができただろう」と講演を締めくくった。
当然「それは誰だ!」と質問が出たが彼は語らなかった。筆者はその人物の1人こそこれまでの記述の経緯から判断して堀江邑一であろうと思っている。今回の講演会が契機となって、その折りに公表が見送られた2人の日本人の名が明かになれば、尾崎秀実研究に弾みがつくだろう。
ヌーラン事件と日本共産党との関係については、ゾルゲ事件にも直結する実に興味深い資料やエピソードが沢山ある。なかでもコミンテルンで日本の問題を担当したカール・ヤンソンこそ、尾崎秀実の日本共産党の入党と深い関係をもっていたこと。宮城与徳を日本に派遣したロイと呼ばれる人物(木元伝一)の上司にあたる人物であり、宮城与徳をリクルートしたのもカール・ヤンソンであったこと、彼が汎太平洋労働組合(在上海)を指導していた時期が、尾崎の上海赴任の時期と重なること、野坂参三の戦前の3大功績と呼ばれる米西海岸からの日本工作の最高責任者はこのヤンソンであったこと。彼こそコミンテルンの対日工作の最高責任者だった、など興味のある資料がロシアから発掘されている。
10)川合貞吉証言のどこに真実があるのか
川合貞吉は危険を感じて1933年には諜報活動から足を洗って、180度の転向をし、右翼組織に鞍替えしてしまった。その実態は付録の資料「北支在住内地人左右翼分子略名簿」および「在北支左右翼系団体進出状況指導連絡系統図」(昭和14年5月末現在調)『昭和思想統制史資料』(第22巻)で明らかだし、川合貞吉自身が右翼組織のなかでの活動を『回想』で書いている。川合貞吉の活動の実態の詳細は拙文「満州国際諜報団事件の驚くべき真相」(「尾崎秀実と中共諜報団事件」【その4】)に詳述する。
以上で講演を終わりたい。長時間のご静聴ありがとうございました。 (完)
社会運動資料センター代表 渡部富哉
注、本文は2010年4月、在日ロシア大使館主催の「第二次世界大戦におけるリヒャルト・ゾルゲの諜報活動の意味と役割」と題する、「露独戦争勝利65周年シンポジューム」で筆者が報告した、「尾崎秀実の上海支局から大阪本社への帰任の真相と32年暮れのスメドレー・尾崎会談の謎に迫る」と題するテキストを、今回、堀江邑一が日ソ親善協会の会長を永年勤めてきた事跡に鑑み、日本ユーラシア協会のシンポジュームのために、大幅に改訂して報告するものである。
(参考関連証言)
尾崎秀実の上海支局から大阪本社帰任の真相と
32年暮れのスメドレー・尾崎会談の真相
川合貞吉著には真実は一つもなかった──スメドレーと川合の北支諜報組織の設立
川合は何回もスメドレーと会って諜報活動を行ってきたように書きまくり、また供述しているがそれは全部創作だとしたら『回想』を読んで感激した読者は一体どう思うだろう。
大方の読者は川合を信じていたから驚かれるだろう。筆者の講演会に度々足を運んでくれたゾルゲ事件の研究者が次のような手紙を寄せた。
「尾崎・ゾルゲの墓参会へのご招きを有り難う御座います。折角ですが今回は欠席させて戴きます。実は6月7日の講演は私にとって大きなショックでした。私が川合貞吉氏の著書から深く感動を受け、戦時中からゾルゲ事件について関心を抱き(私は間もなく82歳になります)続けていた私にとって氏は大きな存在でした。それが突如と申しましょうか崩れてしまって、いま私の心の置き所を失いかけております。今回は参りました。それ故、先生のお話は自分史の大きな部分を再考せざるを得ないと考えるに至りましたが、いままだこころが動揺しております。もう少し時間を置いて整理したいと思います。ご了承ください」
このほかにも衝撃を受けたという意見とともに、やはりそうか、という意見が寄せられている。読者の驚きとその反面の憤りをそこに見ることができる。川合はスメドレーとどんな密会を重ね、どんな会話を交わしてきたのか、これまでにも既に紹介し反論を加えてきたが、検証するために以下に『回想』から主要な証言を列挙してみる。
こうして私は1931年10月から1932年3月まで、3回にわたって満州・上海間を往復し、ゾルゲに情報を提供した。その間私が3度目、満州に行くために上海に戻った1932年1月に上海事変が起き、尾崎は上海を離れて日本に帰った。それまでの上海でのゾルゲとの連絡はすべてスメドレーのアパートの部屋で行われた。3度目に上海を発つときは上海事変の最中で、その夜、私は尾崎と共に彼女の部屋で泊まった。このことは彼女の著『中国のうたごえ』日本語版100頁下段に「2人の新聞記者」という表現で書いてある。それが上海でみたスメドレーの最後の姿である。」雑誌「知識と労働」(「ゾルゲとその同志たち」132~133ページ)
スメドレー著の『中国のうたごえ』に登場する「2人の新聞記者」とは俺と尾崎のことだと川合貞吉は『回想』に書いている。だがスメドレーは次のように書いている。
「上海事変の最中に、外国人たちは日本軍と中国とを説得して、チャーペイから日本軍の銃剣を免れた中国の市民たちを避難させるために1日の休戦を行わせた。(休戦したのち)(中略)ある晩遅く──というのは、日本人は昼間は絶対に共同租界の方へは入ろうとはしなかったから──2人の新聞記者が私の家に訪ねて来てくれた。私は周期的な心悸亢進に襲われて病臥していた。この2人の新聞記者のことを私は決して忘れることができない。彼らは洋服の襟を立て、帽子のふちをさげて眼深にかぶり、きたない洋服はとりみだし、夜、昼、恐怖に向かいあっていたために目を血走らせて、私の寝台の横に、一言も口をきかずにうずくまっていた。
私が友人のことについて必要もない質問をすると、ひとりが首をふっただけで、2人とも口を聞かなかった。恐らく半時間は黙って座ったままだっただろう。彼らが出かけようとして立ち上がったとき1人が疲労のあまり、よろめいた。
私は2人に、居間に行って、寝椅子で2、3時間眠ったほうがいいでしょうと、言った。ひとことも言わず、外套さえ脱がずに、2人は寝椅子に落ち込むようにして座り、頭が椅子につくかつかないのに、もう寝入ってしまった」
以上がアグネス・スメドレー著『中国のうたごえ』(『現代世界ノンフィクション全集』18巻 筑摩書房16P高杉一郎訳)の描写である。
『中国のうたごえ』は1943年11月に出版されたが、邦訳は1957年3月、みすず書房から高杉一郎訳で出版され、非常に注目され、ベストセラーになり、私が所蔵する1966年には14刷が出版になるという売れ行きをしめした。
川合貞吉の『ある革命家の回想』は1953年、68年、83年と出版社を変えて版を重ねたが、その何れも「初版」となっている。私が引用しているのは83年版の谷沢書房版のものである。
それによると、第4章に「上海事変」の1章を設けて、スメドレー宅でゾルゲ、尾崎、スメドレー、川合の会談で、川合が3回目の満洲情勢調査に出発する情景を書いている。
そこには「尾崎の後任者、山上正義、次いで船越寿雄らを通じて某外人の指令を受け」という、川合の「第4回供述調書」とは違って、船越や、山上とは関係なく、上記のように尾崎、スメドレー、川合のメンバーによる会談であって山上と船越の2人の名は登場していない。(154ページ)
その『回想』によると、尾崎が「昨日ここで激戦があったのだ。僕がここまで来ると便衣隊が3名捕まって銃殺されようとした。──云々」とあるから正しくそれは後述する上海事変の一時停戦の月日(1月29日)と一致する。
しかし、川合が書いている描写はスメドレー著『中国のうたごえ』に合わせて「私と尾崎はスメドレーのベッドで服を着たまま夜の明けるまで仮眠した」(153頁)などと書いている。尾崎は2月4日に上海を発って日本に帰国したのだから、川合が第3回目の満洲調査に出発したとするなら尾崎秀実も参加のうえの会談の結果なら、2月4日の前でなければならない。
とすると説明のつかない矛盾に突き当たることになる。
船越に「在上海に尾崎を介して、尾崎の後任者、山上正義、次いで、船越寿雄らを通じて、某外人の指令を受けて前回同様(注、満州情勢調査)の活動をなし」(第4回訊問調書)とあるのは4回目か、または5回目ということにならないか。
もともとこれは特高の筋書きに沿った川合の供述で、山上や船越を事件に巻き込んだ供述の釈明のための著作だから、でっちあげだ。
「山上と船越を通じて外国人の指令を受け」などいうことは全く嘘だったから、満州状勢調査は3回か4回か、説明がつかなくなるのは当然だろう。予審判事は最初から訴追がないのだからそんなことは全く問題にしていない。川合自身がこれまで見てきたように、「警察調書」の釈明のために書いた『回想』であったにもかかわらず、山上と船越のこの件に関する関与の経緯と釈明は川合本人も遂に書けなかった。
「ゾルゲとその同志たち」の証言
これは『回想』の初版本(1953年)と対比する必要があるが、恐らく当時はまだ邦訳がなかったから、スメドレー著『中国のうたごえ』をなぞらえて書くことは出来なかった筈だし、川合にしても尾崎にしても上海事変当時、スメドレーと会うということはありえない。スメドレーが書いているような事実も川合は知らなかったはずだ。
川合貞吉著「ゾルゲとその同志たち」(季刊雑誌「知識と労働」1972年12月~1974年12月№6~10、4回連載のもの)によると、
「こうして私は1931年10月から1932年の3月まで、3回にわたって満洲上海間を往復し、ゾルゲに情報を提供した。1932年1月に上海事変が起き、尾崎は上海を離れて日本に帰った。それまでの上海でのゾルゲとの連絡はすべてスメドレーのアパートの部屋で行われた。上海事変の最中、私と尾崎は夜半まで銃声や爆撃の音を聞きながら、ゾルゲを中心に4人で、満洲事変の推移について分析し合った。
部屋の中での彼女は、優しい主婦のように振る舞った。彼女の手料理のドイツのじゃがいも料理の味は、いまでも忘れることが出来ない。彼女はコーヒが好きであった。4人が密談に夢中になっているときにも、たびたび立ってコーヒを入れては接待した」。
「夜が明けて私と尾崎は、砲声の中を2人の住む共同租界の方へ蘇州河を渡って帰って行った。私が2度目満洲に発つときのことであった。
4人はゼフィールド公園にピクニックを装って打ち合わせをした。4人が別々のスタイルで芝生の上で寝ころびながらリンゴを齧っていたとき工部局のスパイに気づいたのは、スメドレーであった。
3度目に上海を発つときは上海事変の最中で、その夜、私は尾崎とともに彼女の部屋で泊まった。このことは彼女の著『中国のうたごえ』日本語版100頁下段に2人の新聞記者という表現で書いてある。それが上海でみたスメドレーの最後の姿であった」(「知識と労働」№6 1972年12月)という。
3度目に満洲に出発するときも尾崎の指示だというのであれば、山上や船越の指示など全く関係がないではないか。当然、尾崎が日本に帰国する2月4日以前のことになるはずだ。
スメドレーは2人の日本人について、川合とも尾崎とも書いていない。尾崎ではなかったとするともう1人の日本人記者も川合ではなくなるだろう。それを確認する唯一の証言は「上海事変当時の1日の休戦」である。その日はいつのことか、上海事変は1月28日に戦闘が開始された。尾崎が日本に帰国する2月4日の直前のことだ。
その1時休戦の月日が決め手になる。そこで停戦した月日を調査した。
上海事変の一時停戦は1月29日夜~30日夜まで
「昭和7年2月4日、上海事変の経過及び上海における交渉(3)」という資料によると、「1月28日、日英米仏伊の各国軍隊が、租界の防衛を分担する態勢をとる。29日には市街の中央、西部、虹口、北部、東部の日本軍が中国軍の攻撃を受け、市街戦を交えた。夜になって英米総領事の仲介で一旦停戦したが、30日未明から再び戦闘になる」と書かれている。
これによって、上海事変の一時休戦の月日は、「1月29日の夜から30日の夜まで」と確認される。
一方、川合の『回想』によると、
「私の乗った奉天丸は30日未明に上海に着いた。事件発生のあくる日であった。夜が明けてみると、江上はただならぬ空気に包まれていた。列国艦隊もそれぞれ非常態勢をとり、日本の駆逐艦からは鉄兜、銃剣でものものしく武装した兵隊が短艇に満載されて陸に向かっていく。日本の飛行機が上空を旋回している。どこかでパチパチ、パーァンパァーンと豆を煎るような音がする。それに変わってダァーンとにぶい音がこだましてくる」(142頁)。
朝日新聞社上海支局は戦火で焼けて「いま万歳館に移った」。こうして川合は1月30日夜「さらに私は夜更けてから尾崎を万歳館に訪ねた。明日(1月31日)行くから待っていてくれ。実は本社から至急帰れと言ってきた。明後日ころ、日本に帰ることになっている」、「じゃあ、明日一日中待っています」(149ページ)と緊迫した状況の中での会話が交わされ、「その夜、ゾルゲと尾崎と川合は車でスメドレーのアパートに行った」そこで第2回目の満洲情勢調査の報告をした。「ゾルゲは尾崎にうなずいて、こんどは私に向かって、もう一回満洲に行ってほしい」といい、「こうして私は3度満洲にいくことになった」(154頁)
となると、3回目の満洲調査はゾルゲ、スメドレー、尾崎、川合の会合で決まったもので、川合の調書に書かれている「尾崎の後継者山上と船越を通じて」派遣されるというのは、4回目と5回目になってしまう。この供述書も、スメドレー著と川合の『回想』とは支離滅裂な矛盾だらけの収拾つかない代物になってしまうではないか。どれが一体真実なのか。
以上のことから言えることは、1月30日夜、尾崎と川合はスメドレーのアパートに泊り込むなどということがあり得るのか、一時休戦の期限が切れて、朝日新聞支局までが戦火で焼かれるという、砲火の入り交じる激戦の最中に尾崎たちは砲弾が炸裂する中を帰らなければならない。それはスメドレーが案じていた「2~3時間の睡眠をとる」ことより以上の、激戦のさなかに危険はよりいっそう伴うことであり、一時休戦の期限を承知の上で、スメドレーは尾崎をそんな危険な戦場に送り出したというのだろうか。
W=31年、スメドレーはインドの革命家と会うためにモスクワにいた。そしてジャーリストの資格でドイツやスカンジナビアを公然と旅行した。(ウーソフ論文)この点は不確実。ロシア国防省の回答参照。(後述)
尾崎秀実とスメドレーの別れ
尾崎はスメドレーに「もう君とは会えなくなった」と切り出した。彼はぎょっとするアグネスに向かって、事情を打ち明けた。南京路のAPに住むアグネスの部屋にスパイが移り住んで、6箇月の間、監視を続け、そこに度々訪れる尾崎の行動をつきとめたのである。中国共産党と密接な関係にあるアグネスは、日本からも蒋介石からもにらまれている存在で、そこに出入りする尾崎は上海の日本領事館に呼びつけられて、アグネスとの交友を追及されて、言い逃れる余地がなくなったのである。彼は本社詰めとなって呼び戻され、唐突に別れなければならなくなった。 (「月報2」 石垣綾子)
「6箇月の監視を続け」の文面から逆算すると、31年8月ごろからということになる。それはまさしくヌーラン事件の直後からだ。尾崎がスメドレーに話したのは、2月に尾崎が帰任しているから1月初めのことだろう。
W=尾崎の日本帰任の事情についてはヌーラン事件に絡んだ特別な事情があった。尾崎の大阪本社帰任はそのための緊急避難であって、ゾルゲもスメドレーも一斉に上海から退避した。スメドレーとゾルゲは陳翰笙の案内で西安に行っている。32,2を指すのか?
この緊張はゾルゲとベルジンの緊迫した暗号電報の往復によって充分過ぎるほど確認できる。
1932年2月、スメドレー、ゾルゲ、中国西北部へ旅行する。陳翰笙が同行した。
ゾルゲ西安に行く。 陳翰笙『私の四つの時代』
スメドレーは陳翰笙に徐州に1人で行き、後で1人の人物に付き添って西安に行くように要求した。西安行って何をするのか、スメドレーは何も言わなかったし、陳翰笙も当然、多くは聞かなかった。彼は約束通りにタイプライターを提げて、徐州駅で待っていた。その結果、事前の約束通り新聞を目印にして会いに来たのはゾルゲであった。彼は上海からここへきたのだった。こうして彼ら2人は一緒に汽車に乗って、西安に向った。下車した後、楊虎城将軍の秘書、南漢宸がそこに待っていた。彼らは西安のある高級迎賓館に泊まるように手配されていた。そこの主人は彼らのために歓迎会を開いて厚くもてなしてくれた。陳翰笙はゾルゲが楊虎城に会った目的は知らなかった。しかも決して尋ねなかった。彼らが西安から帰ろうとしたとき、当地は疫病が流行しているため、潼関東に行ってはいけないと聞いた。しかしゾルゲはドイツ軍将官を探して、飛行機で彼らを洛陽まで送らせた。洛陽についたのち2人は別れた。ゾルゲは上海に、陳翰笙は太原に向った。【諜海巨星】
「スメドレーはゾルゲの洗練された教養と、中国について学ぼうという意欲に感銘を受けた。彼のドイツでの生活や戦争体験を知って、アイスラー同様、コミンテルンから送りこまれてきた人物に違いないと考えた。彼に陳翰笙教授など中国人の友人を何人か紹介した。この3人は間もなく定期的に会って情報を交換するようになった。ゾルゲは満州における日本軍の動きと、それがソビエトに対してどんな意味をもつかについて関心を深めていき、
33年5月17日、スメドレーはソ連に旅行のため、上海を発って北京に向けて出発した。
33年6月から34年4月までの10カ月間スメドレーはソ連で過ごした。12月半ば12年の海外生活を終えてアメリカに帰った。(ウーソフ論文)
(34年10月23日、客船「プレシデント・クーリッジ号」で米国より上海に戻った。)
これによりスメドレーは33年5月から34年10月23日までは中国にはいない。その間の川合のスメドレーとの連絡で活動したという記述は虚構だ。
満州情勢報告をスメドレーのAPでゾルゲと尾崎秀実に行ったというのは嘘だ! ゾルゲは報告書で受け取ったと証言している。(「手記」)
33年 スメドレー『中国の運命』を執筆。つづいて34年『中国紅軍は前進する』、38年『中国は抵抗する』、43年、『中国のうたごえ』 (旅)
33,5モスクワの出版社でこの本の前払い金を出すと申し出があり、それを受けスメドレーはソ連で脱稿しようと上海を去った。
スメドレーは1933年から34年4月までの10ヶ月間をソ連で過ごした。34年1月、本の完成のためレニングラードに移った。191~192
12月半ば、12年の海外生活を終えてアメリカに帰った。 ウーソフ論文
W=これ以後、川合がスメドレーと会うことはない筈。本の出版に対するコミンテルンの援助についてはウーソフ論文にゾルゲの積極的な援助があったことを伝えている。(№77)
一時、尾崎と連絡が切れていたスメドレーはモスクワを旅行し、いまアメリカにいると便りがあった。同年9月、横浜で上陸が許された。コミンテルンの世界ファシストを批判した論文などを送ってきた。 (警察調書125) 33,5に関連
ウーソフ論文に対する質問の回答
ロシア連邦国防省代表との会談内容及びYu,トトロフの手紙に対する回答
「スメドレーについての英国対諜報機関M I・5の書類によると、1930年10月から1931年12月中は、同人は上海のグルーシー路72番地(72 Route Groushy)の居住者として登録されていた。英国特務機関によって確認されているのは、同人が1931年1月22日より3月5日まで南京に6月16日から7月5日まで広東に出張したことである。
ソ連への旅行に同人は1933年5月17日に出発し、北京に向けて列車で上海を離れた。
同人は1934年10月23日に客船「プレジデント・クーリッジ」号で米国から上海に戻った。
これはアンドレー・フェシューン氏を経由して公式な見解を質したものに対する回答である。
【MIS資料】33年夏の終わり、中国での共産主義者との接触は最後となった。
以後、川合貞吉は中国と関係はない。
33年6月 馬先生、中共諜報団の指導者から満州に2カ月ぐらいの予定で行ってほしい。南進か北進かの調査、(298) 南進のために北満を防衛しようとするのか、北進のために満州の背後となる華北を安定させようとするのか。その判断がたたない。いまそれを知ることは焦眉の急なのです。34,5,22
中西功証言に関連。
私は大連で河村と連絡を付けた。「僕は徴兵のことで故郷に一度帰ります」(注、年齢があわなくないか。検討のこと)。天津書房を閉店する弁明ではないか。
⑥同年(1933年)6月ころ、成果が挙がらなかったため、支那人某から渡満して、満州国の建設状況、対ソ関係その他の状況を調査するように指令があった。このときは2カ月位で使命を果たし、帰路、大連を経由して河村から報告を受けて、8月下旬、天津に帰り、報告書と共に諜報結果を報告した。その後、支那人某と連絡が切れ(1934年2月)活動は中断した。(「第四回調書」)
(本文は「尾崎秀実と中共諜報団事件」(その4)に当たるもので、引き続き「満州国際諜報団事件の驚くべき真相」(その5)、「それぞれの戦後」(その6)の執筆を予定している)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study693:160110〕