上野戦争での彰義隊、彼らは何のために死を賭して闘ったのか。

(2021年1月18日)
図書館とはありがたいもの。思いがけなくも、目についた「新彰義隊戦史」(勉誠社・大藏八郎編著)という新刊書を借り出した。大判600頁の大著、「彰義隊・百科事典」の趣である。ずっしりと重い。定価は7700円、とうてい自費で買う気にはならない。典型的な図書館本である。

私の散歩のコースは、不忍池どまりのこともあり、ここから石段を昇って上野の山に至ることもある。上野の山全体が、「上野戦争」の舞台であり彰義隊の遺跡でもある。彰義隊員の墓碑もあり、顕彰碑もある。

江戸期、この辺り一帯は広大な「東叡山寛永寺」の境内であった。京の「比叡山延暦寺」に見立ててのこと。不忍池は琵琶湖に見立てられ、当時は舟で渡るしかなかった池中の小島が竹生島に見立てられて弁天堂が建立されたという。

言うまでもなく、寛永寺は幕府の権力に奉仕する宗教施設であったが、幕府崩壊の際に、次ぎに勃興した権力に焼かれている。1868年5月15日の「上野戦争」である。ここに立て籠もったのが彰義隊。隊長天野八郎以下の隊員3000人という規模だが、戦闘参加者は2000人未満とされる。注目すべきは、江戸庶民の戦闘参加はまったくなかったこと。

上野に立て籠もった彰義隊を掃討した、薩・長・肥を中心とする官軍側は2万8000の大軍勢だったという。戦闘員の多寡だけでなく武器の差も大きかった。勝敗は一日で決した。寛永寺36坊はことごとく焼失し、彰義隊側死者数は200人余。官軍はその屍体の埋葬を禁じて野に晒したという。

私の関心は、彰義隊の「義」とは何であったかということ。人が集団で行動を起こすときには、共通の大義が必要となる。この時代、反薩長の下級武士を結集し、彼らを鼓舞したイデオロギーが「義」であった。その「義」という多義的な価値の内実は何だつたのだろうか。

この書の中で、「佐幕派や、彰義隊の『義』」の具体的な内容が、次のようにまとめられている。
(1) 佐幕は勤王のためであり、勤王と佐幕は一つであって、徳川幕府に国家統治の正統性があり彰義隊はそれに従った。
(2) 徳川家の君恩には一死を以て報いるのが幕臣たる彰義隊の節義である。
(3) 戊辰戦争は薩長土の政権奪取の野心から起こったもので幕府を倒し自ら代わることを企図したものに過ぎず、これを幕臣たる彰義隊は傍観できなかった。
(4) たとえ慶喜公が恭順したとしても、幕臣として、徳川原と徳川幕府の社稜を守ることが正しい道である。
(5) 幕府に弓を引く反乱軍に一矢も報いず降伏するのは武門の恥であり、彰義隊士が一命をかけて戦ったのは当然である(正月の鳥羽伏見で1度敗けただけでその後戦らしい戦もせず、お城を無血開城するのは武門の沽券にかかわる)。

また、「義」とは、武士道の徳目の筆頭、中核に位置付けられているといもので、「条理に基づき、死すべきときは躊躇なく死し、討つべきときは討つという行動における決断力」であるという。「義」とは、先鋭化された、極端な「忠義」であったようである。

今にして思えば、こんなイデオロギーに命を捨てるとはなんたる愚行と言わざるを得ない。皇国史観も、特攻の精神も同様である。大義のために命を懸けよ、という煽動に惑わされてはならない。

初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2021.1.18より許可を得て転載

http://article9.jp/wordpress/?p=16196

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