市河晴子(1896~1943)の『エジプトの驚異――ピラミッドに登る』<紀行文集『欧米の隅々』(素粒社刊)から抜粋>
希代の文章家の自由闊達で躍動感あふれる才筆(下)
(ピラミッドの)下りは十二三分もあれば足りる。下へ達しると、折り返して今度はピラミッドの中へ入って、薄暗い桟道の段々を、中心に向かってまた二百尺上る。澱んだ空気に喘ごうとも、ピラミッドの体臭を嗅ぐと観念して、直立出来ぬ穴の中を海老のように屈んで登り、中央の昔クフ王の棺を置いた石の空室に達して一言「なるほど」と云って、また二百尺を、後むきに屈んだまま足探りに下って、入口で外の光に目をパチパチさせる。
さあこれでピラミッドとはお近づきになったぞと、今度はスフィンクスの方へ駱駝を走らせる。私が走らせるのではない、馬子が「バクシーシ、バクシーシ(チップ:イスラム圏で「喜捨」を指す)と言って酒手をねだるために、案内者の驢馬と引離そうと鞭を鳴らすのだ。
スフィンクスは、砂漠の中に沈んでいるのを、廻りを掘り下げて露出してあるので、上から覗く位置のために、湯舟の中にでもいるようで甚だはえない。写真の方がよほど神秘的だ。駱駝に乗った写真を撮らせろとガヤガヤ云うが、あんまり月並だし、こんな素戔嗚尊に逆むきにされた天の斑駒のような駱駝を写したって始まらない。
ギゼからずっと上流にサッカラの段形ピラミッドがある。第三王朝といって第十二王朝のクフ王などからみるとまた千年近く古い物。エジプトの大建造物としては最古のものだ。
その近くにはマスタバといってやはりその頃の墓がある。中に幾つも室のある石造の廟だが、ここらは本式の砂漠で、砂に埋れて地下室のようになっている。
その中でチィのマスタバという大官の墓に入って、はじめてエジプトの壁画を見る。犠牲を屠っているところ、供物用の畑を耕作しているところ、それを頭に乗せて祭壇に運ぶところ。ある時は太陽の神アモン・ラーが、甲虫スカラべ・サクレの神頭神々しく(エジプトに少しなじむと、そういう気持になるから妙だ)出現ましまして供物を納受し、またあるものはマスタバの奥深く息う大官の魂が、守護神が左右を守る狭い戸口から立ち現れてお食事なさる図もある。
昔の王様は死ぬと、オシリスの国に迎えられ、冥府の王と自分の食料を耕作しなければならなかったが、そのためにウシャブチという人形を墓に入れて代理させる事も出来、家具等一さいはこの世から御持参だし、大きな船などはモデルを作っておけば、呪文一つで実物大になるのだそうな。
この呪文は私たちは是非覚えたい。そうして寝巻も何も雛型で間に合せられれば、旅行の面倒は半減されるのだが……。だから例のパピルスの紙に残る死者の文の絵にも、魂は、二度肉体に立戻り宿るの時を待つ間、冥界でチェス(西洋将棋)などやってござる。その呑気さは、理髪店で順番を待つ若い衆に異らずの、ほほえましい。
次にセラぺウムを見る。これは、この辺がメンフィスといって第四、五、王朝の首府として栄えた時代に、守護の生神様として礼拝された神聖な牝牛アピスの墓で、地下道の両側に二三十の室があっていちいち石棺を置く。高さ五尺で、一間半に一間位の黒花崗岩を磨き上げた棺で、蓋も同じ黒御影石の厚さ七八寸の一枚石だが、それを人一人だけ入れる位ずらして、皆中味を掠奪してしまってある。真っ暗なエジプトの地下で、この石棺の中へ一番乗りに潜り込んで行った者の不敵さは、底が知れない。
古都メンフィスは跡も微かに、椰子の林や、土人の家の下になっているが、ただ二つのラムセス二世の大石像がゴロンと寝ている。一つは丈四丈二尺。一つは二丈六尺。また小さな……と云っても一丈五尺はあるが、スフィンクスが蹲っているが、非常に器量がよくて、ほれぼれとする。これはアラバスター(寒水石)だが、この辺の砂漠の砂にも上流から流れて来たこの石の破片が、白隠元の煮豆のような、半透明の白さに赤味を帯びた丸い小石になって混っている。
帰路、ナイルの中島ローダ島に渡って、島の突角でナイロメーターという河水の高低を測定する器を見る。毎秋高まる水につれて年に一度上下して、上下する事すでに二千回という古い物だ。モーゼは嬰児の頃、籠に入れてナイルに流され、この島の西岸に流れついたという。その岸には柳めいた木が枝を垂れて、氾濫期の濁流は、タプッタプッと石垣に音を立てていた。
折柄、夕日が砂漠に落ちて、チョコレート色の河水が赤るみ、羞いを含んだエジプト美人の頬はこんなかと思う色になる。遠くのモスクの夕べの祈りの歌が、坊さんがミナレットの回廊を巡るにつれて、回転灯台の灯火が消え、また明らかになるように、聞えたり、微かになったりする。
その夜、私たちは休息する間もなく、ナイルの上流へと旅立った。上部エジプトを見るためには、別に写真を張ったパスポートをもらって十八円納めなければならない。あの立派な丸柱の一本でもを、大地から起して昔の姿に復するために使われると思えば、五十円積んでも惜しくはない光栄な献金だが、その中間にたんまり上前をはねるエジプトの役人の、赤いフェズを冠って薄墨色の顔に白い歯を出してニヤリと笑う顔が見えるような邪推が起ってならぬ。
汽車は、ナイル河畔を内地内地へとひた走る。右手にピラミッドの列が、夜目にもしるく地平線の水平を破って聳える。太陽の威力の前に、物皆のへたばり伏す暑い国に、よくぞ、スッキリした鋭角に天を突いたものと、ファラオの意匠をうれしく見る。いかにも快い角度だ。その段々を登るために草臥れた足を撫でながらも、月明に乗じてあの天辺からツルツルと一息に滑り下ったら、胸がスーッとするだろうなど思わせられる。
ピラミッドに馳け上る事は単なるお転婆ではない。人類の形成し得た極度の雄大を、我が体験の一部に加える事は、今のせせこましい世相に処して行く者にとっては最もよい清涼剤である……最もよく利く発汗剤であった事も、たしかだけれども。
▽補 注
1937年1月にロンドンの一流書肆から著書『欧米の隅々』(英訳)が出版され、7月には米国版・日本版も上梓される。市河晴子の文名は一躍、高まった。三百近い新聞切り抜きが著者の手許に寄せられ、日本女性の感受性と知性が欧米の文化にいかに刺激を触発し得るかを体現する著述、と喧伝された。その証として、同書の一部「米国の旅」の書き出し部分を添えよう。
「サンフランシスコの第一印象は、かの限りなく雄大でまた限りなく軽快な、ゴールデン・ゲート・ブリッジであった。ヨーロッパで大寺院等も多く見たが、実用のために作った物が、風景と切離し難いまでに調和して,造物主の芸術に貢献している物は、東洋で万里の長城、ヨーロッパではニームの近くのローマ時代の水道、そして米国でこの金門橋であろう。」
折しも同年7月、盧溝橋で日中両軍衝突~日中戦争が始まる。これを機に盛り上がった反日世論を鎮め日米親善を図る目的で、12月に彼女は外務省の依頼で「国民使節」として渡米~各地(並びに放送で)で講演して回る。この年は晴子には大きな収穫の年で、『欧米の隅々』の英訳三種が刊行された。著者の人気は英語圏諸国で一気に高まり、アメリカ文壇の一彗星と化す。数多の新聞に写真が載り、ペンクラブ晩餐会の主賓として歓迎される。ニューヨークでは放送もされ、「世界的名声」とさえ喧伝された。
みなぎる生命力と理知的な眼差し、深い思索に鋭い観察力。冷静公平で皮肉な人間観察から生まれるユーモアに私は感嘆。その博覧強記ぶりに目を瞠り、潤いに満ちた繊細な描写や優しい情感に胸を打たれた。たまさかに溢れる激情に息を呑み、共感を覚えた。
しかし、その輝かしい運命は突如、暗転する。最愛の長男・三栄が43年10月、舞鶴の海軍機関学校の英語教師として赴任~激しい頭痛と重篤な不眠症に陥り、服毒自殺(3日)を遂げる。晴子は母親としての自責の念から悲嘆と絶望に陥り、後追い自殺(12月5日)した。
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