◇第三章 先駆性ゆえの苦難――革命以後の大西洋世界(続)
<ハイチ革命と大西洋世界>奴隷制度下で虐げられている者にとって、ハイチは「解放のシンボル」だった。奴隷主は奴隷たちが以前よりも「無礼」で「反抗的」になったと嘆き、ハイチは奴隷主たちにとって恐怖以外の何物でもなかった。こうした事情は近隣のカリブ海地域、特にイギリス領ジャマイカやスペイン領キューバで顕著だった。そこはハイチ革命を逃れて避難する白人が集中した処である。
<世論の分極化――アメリカ合衆国>米国では、警戒、敵対、共鳴など反応は様々だった。大西洋岸には多数の難民が押し寄せ、特に問題視されたのは自由黒人の難民である。彼らは黒人奴隷が解放されたことを「神の恩寵」の証と考えていた。このため、逃亡奴隷を取り締まる連邦法が制定された1793年以降は、カリブ海の玄関口サン=ドマングからの自由黒人の上陸を阻む州法が相次いだ。
◇第四章 帝国の裏庭で――ハイチとアメリカ合衆国
<リンカーンによるハイチ承認――黒人植民事業>1816年、奴隷身分でない「自由黒人」を故地アフリカに送還する「アメリカ植民協会」が組織された。ニューヨークなど各地で散発的に奴隷解放の動きがあり、「自由黒人」は全黒人人口の約13%に達していた。かのリンカーン大統領は「アフリカ人を生まれ故郷に送還することは道徳的に正しく、我々の利益にも適う」と述べ、白人と黒人の混血を食い止める最善の方法が黒人植民であるとした。
奴隷解放に踏み切るかなり前から、彼は黒人の植民構想を抱き、奴隷解放と黒人植民は密接不可分だった。南北戦争直前の1860年時点で、米国の黒人総数は四百万人超。リンカーンの植民構想は荒唐無稽に映り、世論掌握のためのプロパガンダとも受け取れる。
1862年、米国はハイチとリベリアを独立国として承認した。1804年に独立を宣言したハイチを1825年に先ずフランスが世界で初めて承認。次いで1833年のイギリスを皮切りに、欧州の主要国が後を追う。米国は独り、「交易すれども承認せず」のスタンスを守っていた。
筆者は推測する。「リンカーンは1861年時点で、ハイチとリベリアを独立国家として承認することを黒人植民事業のための外交上の布石にしようと考えていた」。アメリカにとってハイチは、「人種」問題を「解決」するための捌け口であり、「使い勝手の良い道具」であった。ハイチはアメリカの事情や思惑、戦略によって翻弄されることとなった。
<アメリカによるハイチ占領>南北戦争後、急速な発展を遂げて「北の巨人」となったアメリカは、一九世紀末から大々的に海外への膨張を展開した。1898年の米西戦争を機にハワイを併合し、スペインからフィリピン、プエルトリコ、グアムが割譲される。等々の動きがあり、二十世紀に入ってニカラグア占領(1909~33)、ハイチ占領(1915~34)、ドミニカ共和国占領(1816~24)などへと続いた。こうしてアメリカは、大陸内国家から太平洋とカリブ海地域を勢力圏に組み入れた一大海上帝国へと転身したのである。
<モンロー主義の系論>1820年代から米国が外交政策の基調としていたのはモンロー主義だ。ヨーロッパとは相互不干渉を表明し、南北アメリカへの欧州勢力の介入を排除することを企図したものだった。だが、時代の推移と共に拡張解釈され、米国がラテンアメリカ・カリブ海地域に進出することを正当化する論拠として援用されるようになる。
ハイチでは、一九世紀半ばから二〇世紀初頭まで激しい権力闘争が繰り返された。約七十年間で、二十二人の大統領が交代。任期を全うしたのは一人だけで、十一人は在任期間が一年未満だった。大半は暗殺、亡命などの意に反する退任だった。その間に数多くのクーデタや反乱、陰謀事件が相次ぎ、1915年時点の債務総額は年歳入額の約五倍にも相当する三二〇〇万ドルに達していた。
米国は、こうした国状にあるハイチを「社会秩序が全般的に弛緩し、犯罪や無力状態が慢性的に発生」している国と見做して介入したのである。1910年の「マクドナルド協定」(農地への莫大な利権を約束する内容)を端緒に、本格的進出を進めていく。
<占領――「ミッショナリー外交」の内実>
1915年7月末から8月にかけ、ハイチの首都ポルトープランスで圧政に対する群衆の暴動が起き、大統領やその腹心を殺害。米国は「財産保護と秩序維持」を名目に首都沖合に巡洋艦を停泊させ、海兵隊員二三三〇人が上陸~鎮圧に当たった。米海軍のケイバートン提督が最初の弁務官に就任~税関を統制下に置き、全ての行政機関を掌握する。
同年9月、条約を締結。「ハイチ大統領は米国大統領が指名する」を柱に、ハイチを米国の管理下に置くこととなる。国家主権は大幅に縮減され。ハイチ政府は絶えず米国の意向を窺い、これに臣従する従者となった。占領支配の中核として憲兵隊が全国に配置され、約八十人の指揮官は全部白人の米国人。その多くは南部出身で、黒人に対する強い差別意識を持ち、ハイチ人を「ニガー」や「グック(汚い奴)」「阿呆」」と蔑称した。
18年に制定された新憲法は、当時の米国海軍次官(後の大統領)F・D・ルーズベルトが制定。従来の国是だった「外国人の不動産所有の禁止」を解禁~米国資本による数多の企業が二万八千ヘクタールもの広大な土地を獲得することとなる。そして、疑似奴隷制とも言うべき強制労働徴用を行う。憲兵隊はハイチ人をロープで繋いで歩かせ、数週間あるいは数か月も働かせた。その結果、道路建設費用は劇的に節減された。
ハイチの農民たちはこの強制労働徴用に反発~「カコ」と呼ばれる武装集団を中核に抵抗を始める。一万五千人が加わった集団は、激しいゲリラ戦を展開し、「占領者ヤンキー」
に立ち向かった。米国は飛行機を使うなどして徹底的な鎮圧を図る。海兵隊にも一三人の死者が出たが、農民側は数千人が身柄拘束され、三〇七一人が犠牲となった。
こうして抵抗運動は圧殺され、占領期間中には総人口の一五パーセントにも当たる約三十万人が「難民」となり、隣国のドミニカ共和国やキューバなどへ出国した。米国が占領を解除したのは1934年8月。農民千五百人のデモ隊に海兵隊が銃を乱射~死傷者数十人が出る残虐な事件が発生。国際的な批判が高まり、時のフーヴァー大統領が撤退を決断した。
◇第五章 ハイチ革命から見る世界史――ハイチによる「返還と補償」の要求
特異な動向がある。2002~2004年、ハイチの当時の大統領J・B・アリスティドはフランスに対し、「返還と補償」を繰り返し要求した。「返還」とは、1825年にフランスがハイチを独立国家として承認する「代価」として求め、百年かかって支払った「賠償金」の返還を求める、ということ。「補償」については、彼は演説の中で「我々の祖先はフランスの対外貿易の三分の一以上を供給した。フランス人の八人に一人は直接または間接に我々の祖先の血と汗で生きている」と述べた。そして、『自伝』の中にこう記している。
――ヨーロッパは我々に負債がある。スペインは先住民を絶滅させ、一万五千トンもの金を僅か十五年間で持ち去った。フランスが我々から奪ったものは語り尽くせない。植民地主義列強はかつて植民地に対して行った悪行の償いをしなければならない。
「補償」とは「ハイチの祖先がフランスのために流した血と汗」「植民地主義列強による悪行」に対する償いである。その意図は、十五世紀末以降のヨーロッパ列強による植民地支配と脱植民地化過程を捉え直すためのキーワードとして、近年、広く使われるようになった「植民地責任」の履行ということである。
アリスティドとその支持母体は「返還と補償」キャンペーンを展開。2003年、その金額を約217億ドル(当時のレートで約2兆6千万円)とした。この金額はハイチのGDPの七・七倍だが、フランスのGDP(同年で約七千億ドル)の一・三パーセントである。
この要求に対して、フランス外務省は即座に「返還するつもりはない」と回答。シラク大統領も「ハイチには従来も無視しえぬ援助を提供してきた」として、返還要求の影響を精査するよう勧告。が、ハイチは「返還要求を取り下げることはない」と表明した。
▽筆者の一言
フランスやアメリカと聞くと、「自由」や「革命」を連想し、進歩的なお国柄と考えがちだ。だが、カリブ海の小国ハイチの近代史を知ると、その考えは改まる。むき出しの「帝国主義」そのものである。黒人主体のハイチ国民に対する人権意識など露もなく、二重基準を平然と持ち出す。かの合衆国大統領リンカーンなどもその例に漏れず、私は己の先入主の甘さ・浅薄さを恥じた。本より世界中の国々の過去の歴史に悉く精通するのは至難なことだ。
が、ことハイチに関する限り、本書に接して目を開かれ、「アメリカ帝国主義」に対する強い敵愾心が改めて燃え上がった(目下のガザ情勢も之あり)。
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