<古代ペルーの人々は太平洋をパルサ材の筏で渡り、ポリネシア人の祖先となったのでは?>との仮説を自ら実証すべく、ノルウェーの探検家(人類学・海洋生物学者)トール・ヘイエルダール(1914~2002)は1947年、古代の筏を複製した「コン・ティキ号」を建造。五人の仲間と共に太平洋横断の航海に挑み、見事成功する。その『探検記』は世界六十二カ国語に翻訳され、二千万部以上の大ベストセラーとなり、その航海を描く長編ドキュメンタリー映画「Kon-tiki」は51年のアカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞を受けた。
1947年5月17日付けの航海日誌には、ヘイエルダールの次のような記述がある。
――ノルウェー独立記念日。波、高し。順風。私は今日、炊事当番で、甲板の上にトビウオ七匹、小屋の屋根の上にヤリイカ一匹、トルステインの寝袋の中に知らない魚一匹を発見した。
左を向けば、波がヒューヒュー音を立てて広大な海が遮る物もなく見渡せる。行けども行けども近くならない水平線を果てしなく追いかけながら。右側の小屋の中に顎髭を生やしたベングトが寝そべり、ゲーテを読んでいる。グラグラする小さな小屋の低い竹の屋根の格子細工の中に、裸足の足の爪先を突っ込んでいる。その小屋が我々の共通のホームなのだ。
我々はペルーの海岸から八五〇海里の処に居た。六分儀を手にするエリックが竹の壁に掛かっている海図に「西経98度46分、南緯8度2分」の現在位置を示す小さな丸を書いた。ヘルマンとクヌートとトルステインの三人も、活気づいて這い込んで来る。一番近い南海の島々に着くまでに、我々はもう三五〇〇海里行かなければならなかった。
南海のポリネシア人は広大な海域の島々に散らばって住む。祖先崇拝者で、「太陽の息子」の祖先神ティキを崇める。私は図書館で、南米の太平洋岸に初めて達した欧州人たちの残した記録を掘り出した。インディアンの大きなパルサ材の筏のスケッチや記述を発見。筏は横帆と垂下竜骨があり、艫の方には長い舵オールがある。そんな仕掛けで、操縦ができたのだ。
筏に乗り組む仲間は注意深く選ばなくてはならない。私は当時ニューヨークの「探検家クラブ」に所属。そこで知り合った若いノルウェー人の技師ヘルマンがまず参加を希望した。私は友人のエリックとクヌートとトルステインに短い手紙を書いた。「南海の島々にペルーから人が渡ったという学説を支持するために、木の筏に乗って太平洋を横断しようと思う。貴兄は航海で技術的な能力を活用できるでしょう」。三人とも、すぐ承諾した。
出発までには後三か月、しなければならないことが山ほどあった。それはメンバーと木の筏と積み荷がペルーの海岸の一カ所に集まる時に集中していた。我々はニューヨークとワシントンに飛び、大学の研究者や海軍の提督に会った。科学的な測量のための貴重な器具と機械を入手し、太平洋の海図や軍の進んだ装備などを受け取ることができた。
新聞や保険会社は「自殺航海」と見做し、補助金をもらう当ては殆どなかった。篤志家のある大佐が登場。「困ってるね」と声をかけ、「帰って来られたら、返してくれればいい」と小切手を差し出した。何人かが倣い、個人からの借金で何とか乗り切れる目途がつく。
昔のペルーの筏は、ペルーに自生するパルサの木で出来ていた。パルサはコルクより軽い。国連の事務次長でチリ出身のコーエン博士は、有名なアマチュアの考古学者だった。彼が筏による我々の探検に理解を示し、ペルーの大統領宛てに紹介状を書き、援助してくれた。
若いノルウェー人の技師ヘルマンと私は南米へ飛んだ。エクワドルのパルサ王に直談判し、海抜三千㍍の高原へ小さな貨物飛行機で着陸。未だ首狩りをしているインディアンたちが少なからずいる現地に入った。エクワドルの工兵大尉が付き添い、ジープでアンデスの山中へ。ジャングルの中をうんと走り、遂にパルサの木々が生い茂る現場に到着する。
毒蛇や巨大なサソリがうじゃうじゃいる山中で、我々は直径が一㍍もあるパルサの巨木を一週間で十二本も伐採。一本一㌧はある代物を丈夫な葛でしっかり縛り合わせ、即席の筏を二つ製造。言葉の通じない現地人二人の付き添いの許、河伝いにリマの港へ到着した。
コーエン博士の紹介状を頼りにペルーの大統領と直談判。海軍のリマの工廠内での筏の建造への便宜やドックと仕事を補助してくれる職員の手配、そして出発時に海岸から筏を曳航してくれる船の手配などを頼み込み、承諾を得る。
その日、リマの諸新聞はペルーから出発間際のノルウェーの筏の探検行について記事を掲載。同時に、スウェーデン・フィンランドの科学的な探検隊によるアマゾン地方での研究終了を報道。その隊員の一人がウプサラ(ストックホルム北方の都市)大学から来た、ベングト・ダニエルソンだった。彼は直接、探検隊への参加を申し込み、私は有難く応じた。
まもなく我々六人は皆リマの出発点に集まった。超近代的な工廠が素晴らしい助けを与えてくれた。一番太い丸太九本が、実際の筏を造るために選ばれた。長さ一五㍍の一番長い丸太が真ん中の板に置かれ、この両側に段々短い丸太が対称的に置かれていき、両端は一〇㍍だった。そして、舳先が先の丸い鋤のように突き出していた。
筏の後ろは真っ直ぐに切り落とされた。九本のパルサの丸太が色々な長さの直径三㌢の麻の綱でしっかり縛り合わされると、細いパルサの丸太が約一㍍の間隔でその上に横に結び付けられた。筏自体はそれで完成。約三百本の違った長さの綱で入念に縛り合わされた。
筏の真ん中には、艫に寄った処に竹の棒の小さな開けっ放しの小屋を建造。編んだ竹の壁と竹の板の屋根を付け、皮のようなバナナの葉をタイルのように重ね合わせた。小屋の前方に鉄のようなマングローブの木で出来た帆柱を二本並べて立てた。
舳先の低い飛沫避けを除き、全部ペルーとエクアドルの古い筏の忠実な複製だった。視察したペルーの海事関係者は一様にいいことは言わず、中には航海を思い止まるよう懇請する人物さえいた。彼は「筏がもし浮かび続けたとしても、フンボルト海流に運ばれ、太平洋横断には一~二年はかかるだろう」と予言。別の一人は繋索を見て首を横に振り、「筏は二週間も保たないうちに、綱と言う綱が擦り切れてしまうだろう」と不吉な予言をした。
私は、自分たちは何をしようとしているのか分かっているか、と何度自分に尋ねたか知れない。ただ私は、もし西暦五百年にコン・ティキ(古代ペルーの英雄)のためにパルサの木が浮かび繋索が切れなかったとするなら、我々の筏をコン・ティキの筏の寸分違わぬ複製にすれば今だって同じことをしてくれるだろうという、一般的な結論を引き出したのである。
4月28日(1947年)、波止場は大勢の見物客で真っ黒だった。新聞記者が黒山のように押し掛け、映画のカメラが音を立てていた。竹の帆桁が上げられ、帆が広げられる。曳き船に曳航され、コン・ティキ号はカヤオから北西へ五〇海里の処まで到達。南東からの風に乗り、筏は動き始めた。重くて、どっしりし、飛沫を上げて悠然と進んだ。
二日目の夜、波が高くなり、筏をぐるっと回したり、横向きにさせたりした。(舵オールを握る者二人ずつの)二時間交代制では体がもたず、一時間舵を取っては一時間半休むように変更。次から次へと休みなく押し寄せる混沌たる波との絶え間ない闘争だった。
第三夜。午前四時ごろ、予期しない大波が後ろの暗闇の中から泡立ちながら、襲来。小屋も帆も木っ端みじんにしようとした。六人全員が甲板の上に出て、荷物を縛り直す。暗闇の中で帆に絡まり、二人が海中に落ちそうになった。我々は帆を下ろし、六人全部、小さな竹小屋の中に這い込み、くっつき合って鰯の缶の中のミイラのように眠った。
周りと比べて特別静かな平面というものは、筏の上にはなかった。竹の甲板、二重の帆柱、四枚の編んだ小屋の壁、葉を上に乗せた錣板の屋根――みんな綱で縛られているだけ。綱はあらゆる圧力を受け、一晩中キーキー、ウンウン、ギーギーいう音を聞くことができた。
しかし、綱は保った。二週間経てば綱は全部擦り切れてしまうだろう、と水夫たちは言った。が、そんな徴候は全く見られなかった。パルサの木は柔らかだったので、丸太が綱を擦り減らす代わりに、綱がゆっくりと木の中に喰い込んでいき、守られていたのだった。
一週間ほどして、海は静かになり、海面は緑色から青に変わった。真北西に行く代わりに、西北西へ行き始めた。これは、沿岸の海流の外に出て、海の真ん中へ運び出される希望の出来た最初の微かな徴候ではないか、と思われた。
まもなく、鰯の大群の真ん中に入った。すぐ後、二㍍半の青鮫がやって来て、白い腹を上に向けて引っくり返り、筏の艫に体を擦り付けた。翌日は、鮪・鰹・シイラの訪問を受けた。大きなトビウオが筏の上にドサッと落ちて来、それを餌に一〇から一五㌔もあるシイラを二匹引っ張り上げた。これは何日分もの食糧だった。
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