アメリカの飛行家チャールズ・リンドバーグ(1902~1974)は1927年、「スピリット・オブ・セントルイス」と名付けた単葉単発のプロペラ機でニューヨーク~パリ間を飛行。大西洋単独無着陸飛行に史上初めて成功し、世界的名声を得た。その飛行の記録『翼よ、あれがパリの灯だ』(恒文社、佐藤亮一:訳)は54年にピュリッツァー賞を受け、57年に映画化(ビリー・ワイルダー監督、ジェームズ・スチュアート主演)されている。その回顧録の概要を私なりに紹介しよう。
<(注)27年当時の彼は、未だ年も若く、思うように語句の表現もできず、孤独な闘いを続ける有様を十二分に叙述するだけの時間的余裕もなかったようだ。彼がこの物語を書くためには長い歳月を要したが、この歳月を彼は、当時発表を差し控えていた一切の記述に注ぎ込んだ。この物語で、読者は先ず、世界で最も有名な飛行家として登場する以前のリンドバーグ青年の姿を見る。26年秋のことで、当時の彼は、セントルイスとシカゴの間に新たに開かれた航空路を、旧式の複葉機で飛ぶ郵便飛行のパイロットだった>
郵便会社は郵便物を東部に送るためにシカゴまで飛んでいるが、遠回りなやり方だ。なぜ直接セントルイスからニューヨークに運んではいけないのか。これから先の航空界は、一体どうなるんだろう。現代の航空機がどんな役目を果たすのかを、セントルイスの事業家たちに見せてやりたい。タンクに燃料満載の新鋭機なら、もしかしたらニューヨーク~パリ間をノン・ストップで飛べるかも知れない――考えただけでも私の心は躍る。
私が大西洋を飛べないというのか。私はもう二十五歳だ。もう二千時間近く飛んでいる。
私は航空士官候補生として陸軍航空隊に勤務し、航空の基礎を学んだ。ミズーリ国防軍第110偵察中隊の大尉だ。飛行家としての私のあらゆる過去の野心、希望、夢は現実となったのだ。今は、もっとそれ以上のことがやりたい。よし、一念発起、パリまで飛ぼう!
最初にニューヨーク~パリ間無着陸飛行に成功すれば、オーティグ賞(二万五千ドルの褒賞)があり、飛行機代と諸経費一切が賄える。私は、私の計画に乗ってくれる人々――適当な支援者に渡りをつけなければなるまい。私は綴じ込みノートに予定事項を一つ一つ記入。中西部航空界の有力者ランバート少佐に先ず相談。彼は「一枚、加わろう。一千ドル持とう」と言った。私の手持ちの二千ドルとで計三千ドル、幸先いいスタートだった。
<(注)26年夏には、大枚のオーティグ賞を目指し、数人のパイロットたちが秘策を練っており、著名なライバルにはパトロンが付いた。全く無名の青年リンドバーグは一万ドルの資金獲得を目指し、セントルイスの実業家連の説得にかかる。彼はまた単発エンジンの単葉機に狙いを付け、優秀な航空機の入手を目指して東奔西走する>
セントルイス商業会議所会頭ハロルド・ビスクビイ氏は私にこう約束してくれた。
――君のやろうとしている仕事は、大変な事だ。が、君を後援しよう。君が言った値段(単発単葉機購入に要する約一万ドルを指す)なら、我々の方で処理できる。必要なら、どんな(後援)組織でも作る。君は飛行機に専念して準備を進めてくれたまえ。
私は幾つかの航空機製作会社と折衝を始めた。カンザス州のウィチタにあるトラベル航空会社が見込みのありそうな飛行機を作っている。またカリフォルニア州サンディエゴのライアン社が作った非常に優秀な性能の単葉機に関する情報もあった。
トラベル社は、この注文は受けかねる、と言う。では、ライアン社の方は? 同社の工場は海岸近くの古い荒れ果てた建物だった。背のすらりとした青年ドナルド・ホールが主任技師で、社長のマホニイ氏も三十前と映る若者だ。工場では六人ほどの職工がスティールのチューブを溶接したり、ケーブルを継ぎ合わせたりしていた。私は「エンジンは新しいJ-5型に」「プロペラは金属にしたい」「旋回計を取り付け、磁気羅針盤も欲しい」等々の希望を述べた。ホール主任技師は機体の安定度と操縦性を考え、「尾翼を後方に移し、エンジンは前方に取りつける」ことを提案した。
マホニイ社長は「早速とりかかります。J-5エンジンに――特別の装具を付けて――一万五百八十ドルでお造りしましょう」と約束。その真剣さに好感が持てたし、ホール主任技師の腕にも信用が置けた。価格の点でも、セントルイスの私の同志が作ってくれた一万五千ドル以内で済む。私はセントルイスに電報を打ってライアン社の申し出を概略報せ、取引を結んだ方がよかろうと付け加えた。折り返し返電が来て、話を進めるように言ってきた。
近郊のサンペドロの街で私の欲しかった「メルカトル(ベルギーの地理学者)式投影図」(各方位線が直線で表示される長方形のマスから成る)を入手。ホール技師は私のために製図室のテーブルを片付け、私は図表を広げた。心射図法によって、ニューヨーク~パリ間に直線を引く。その線から百六十キロごとに、メルカトル式投影図表によって点を移し、これらの点を直線で結ぶ。各点ごとにニューヨークからの距離と次の点までの針路を記入した。
距離は正確に五千八百八キロ。私の曲がった多辺形の線が北にカナダ東部の半島とカナダ東海岸の島から東に大西洋を渡る。南に下ってアイルランドの南端を通過し、イングランドを越え、「パリ」と記した小さな点で終わる。私の生涯は、この黒い曲線の正確度によって決まるのだ。この数字と角度の確証が得られたらいいのだが、と私は感じた。
<(注)ニューヨーク~パリ間の無着陸飛行一番乗り競争で26年末から翌年初めにかけて六人の飛行士が落命した。27年5月9日現在、残っているのはバード中佐とチャンバーリンだけ。リンドバーグはダークホース視されていた。大西洋上を覆う嵐のため、三者は出発を躊躇。気象台は19日夜、「パリへの大気圏コースは晴れかかっている」と報じる。
天気予報は注意深く確言を避けていたが、リンドバーグは明け方離陸する決意を固める。
夜明け前、乗機はロングアイランドの飛行場の滑走路端に引っ張り出された。燃料の重さは莫大だった。リンドバーグ自身も、ちゃんと離陸できるかどうか半信半疑だった>
私はスロットル(ガソリンの流量を制御する装置)を絞り、機体の傍らに立つ人々を見渡した。燃料満載、二トン半もの重量が小さいタイヤの上に乗っかっているのだ。風、天候、馬力、積載量――中西部の牧草地帯で空の旅回りを続けながら、私は何度これらの要素を心の中で考量してみたことだろう。が、こんなに重い荷を積んで離陸した経験は今までにない。
ただ飛行の無形の要素――経験と本能と直感――だけが今は私を導く。
愛機「セント・ルイス号」は、まるで荷を積み過ぎたトラックみたいだ。滑走路の百メートルが過ぎる。滑走路の二分の一の標識が一瞬にして後ろへ。次の瞬間、全馬力でふわっと離陸。機首を抑え気味に一秒一秒速度を付けながら、ゆっくりと上昇していく。
ゴルフリンクだ。人々は上を仰いでいる。行く手には樹木に覆われた低い丘。「セント・ルイス号」は、針の先で平衡を保っているようなものだ。飛行速度は時速百六十キロを超過。一分間一七五〇回転までスロットルを絞る。機尾は軽い。操縦の手応えはしっかりしている。
午前八時五十二分、ちょうど一時間飛んだ。空は晴れてきた。地平線のように見える直線の下に、それよりも黒い線――あれが大西洋の岸辺だ。北大西洋の海図を引っ張り出す。この図によると、マサチューセッツ海岸を過ぎて三十二キロ行き、コンパス七一度に転針、さらに百六十キロ進んで七四度に変針することになっている。
出発してから三時間目、視界は無限。忽然として後方の視界から消えてしまったのは合衆国の海岸線。私はただ推測航法によって前進する以外に方法はなく、海図の上の黒い線を頼りに飛行することになろう。洋上を羅針盤だけを頼りに飛ぶ私の能力を試すことになる。
機首をぐっと下げ、海面近くにまで降り、何キロかを矢のように滑っていく。海面は漣が立ち、北西の微風。実は昨日の朝起きてから、私はちっとも眠っていない。午後一時近く、空が曇ってきて、風が行く手を真っ向から吹き付け、大強風となった。翼の先端があっという間に撓み、操縦席は上下左右に動揺する。機体は離陸時より五百ポンドほど軽くなっているが、それでも一トンの燃料を持っているので、まだまだ過重で危険だ。
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