オーストリアの登山家・写真家ハインリヒ・ハラ―(1912~2006)は、幼少のチベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマ14世と交流を持った数少ない人物だ。第二次大戦中のインドでイギリス軍の捕虜(彼は当時ドイツ人扱い)となり、収容所から仲間と脱走。チベット入りを果たし、一年余にわたる艱難辛苦の末、ラサでの居留が例外的に許可される。その波乱万丈の顛末を自著『チベットの七年』(新潮社、近藤等:訳)から勘所を私なりに抜粋~紹介したい。
<一か八かの変装をして> 1944年4月29日午後二時頃、私たちは捕虜収容所から首尾よく脱走した。仲間五人のうち、二人が「英軍将校」に、二人は「インド人」に変装。歩哨の眼を晦ますことに成功した。我々は藪の中で変装を解き、互いの幸運を祈りながら解散。私は渓谷伝いのコースを選び、一晩に四十回も渡渉。新しいテニス・シューズを犠牲にし、体中すり傷だらけに。夜明け方、森を横断中、五メートル上の樹上にうずくまる豹と運悪く遭遇する。背に冷水を浴びる思いを堪え、恐怖に耐え前進を強行。幸い、事なきを得た。
脱走五日目に私はガンジス河の流れに達し、十日目にネランの地に着いた。驚いたことに居たのはアウフシュナイターら脱走仲間四人。私とアウフシュナイターはチベット入りを目指し、行く先を異にする他の三人とは別れることに。チベットとの国境を成す峠まで辿り着くには、一週間歩かねばならなかった。峠の麓で最後の野営。小麦粉の残りをパンのようにこね、熱した石で焼いて食べる。侘しいが、仕方がない。
<チベット人の外人嫌い> 翌日正午前、チベットの最初の村、カサプリンに辿り着く。村とは名ばかり、家は六戸だけ。住民たちは用心深く、何一つ売ってくれようとしない。国境付近の住民たちは、そう教育されているのだ。彼らは薄汚く、一般のチベット人より顔色は浅黒く、落ち着きがない。チベット人の特徴の呑気さと陽気さはここにはない。
翌朝、私たちは出立。当夜、驚いたことにマッチが空気に触れて自然発火した。チベット高原では空気が極度に乾燥している何よりの証拠だ。背後には、西部ヒマラヤが延々と続き、前方には深い谷に囲まれた険阻な山々が続く。昼頃ダシャンの村に到着。カサプリンよりやや大きな村だが、住民は同じように冷ややかな態度だ。金も、言葉も通用しない。
翌日、村を去り、歩行中に武装した二人の騎士と遭遇する。彼らは我々にインド国境へ引き返すよう促した。我々は問答無用と彼らを強引に傍らへ押しのけた。思いがけぬ抵抗に不意を打たれ、彼らは武器に手をかけず私たちを通過させた。きっと武装していると思ったのだろう。なんとか止めようと少し骨折った後、諦めてか遠ざかって行った。私たちはツァパランに達した。オアシス然としていたが、役人の郡長というのが何と昨日出逢った騎士。明らかに好意的ではなく、我々が所持する薬と交換でやっと食料にありつくことができた。
<またも隠密旅行> 私たちは隊商路を下り、旅を続けた。チベット人がブド・ブド・ラと名付けている峠への登りは骨が折れた。峠の高さは五七〇〇メートル近くもあり、希薄な空気のため登りは辛い。道中でプーチア族の人たちと出会い、親切にしてもらった。通り行く地帯は荒涼としていた。その後の一週間で、小さなキャラバンに一回出会った切り。
その指揮をとる若い遊牧のチベット人は私たちを招待し、鹿の腿肉をふるまってくれ、一塊を只みたいな安値で譲ってくれた。但し、口外しないという約束で。仏教の掟に従えば、狩猟は禁じられており、犯せば厳罰を免れないのだ。私は自分のチベット語の初歩の知識を総動員して話を始め、相手も私も己の言葉が完全に通じているのが判り、全く嬉しかった。
<知事の駐在地> ガルトックは「西チベットの首都、知事駐在地」「世界で一番高い都」と地理の本にはある。が、実際に眼前にすると、苦笑を禁じ得ない。広大な原野に散り散りに張ってある遊牧の民のテントが二十ばかりと、泥の塊を重ねて造った(屋根は草葺き)小屋が五十ばかりあるだけ。これがそのガルトックの現実の姿なのだ。
野良犬が何匹かうろついているほかは生き物は何もいない。私たちがテントを張った時、野次馬が幾人か近寄って来た。その話では、二人の高官は不在だが、知事の代理人が会ってくれるという。そこで早速、その人物に請願に出頭することにした。
彼の「お役所」にはドアがなく、壁に低い穴が開いているだけ。窓が油紙で塞いである薄暗い部屋に通された。どことなく一廉の人物を思わせるような男が、仏陀のような格好で前方の床に座っている。左耳に直径十五センチもありそうな金の輪を垂らしている。これが彼の階級章なのだ。私たちの背後には、おかしな外人たちを見ようと野次馬が詰めかけている。
私たちは座るようにていねいに勧められ、お茶やバター、チーズ、乾燥肉などのもてなしを受ける。雰囲気は上々なので、英語・チベット語会話辞典の助けを借り、ジェスチュアたっぷりに会話を始める。私たちはドイツ人の脱走者であり、中立国チベットに保護を求めたい云々、と伝えた。翌日再訪し、薬品を寄贈。知事代理は驚き、恐縮するふうだった。
ある朝、賑やかな鈴の音と共に長い騎馬行列が接近する。知事はきらびやかな絹の服をまとい、腰にはピストルを差している。アウフシュナイターは直ちに接見の許可を求める請願書を提出した。知事は我々を賓客としてもてなし、パスポートを寄越した。7月14日、私たちは出発。キャラバンは荷を運ぶヤク(牛紛いの役獣)二頭と私のロバから成る。
<果てなき流浪の旅> その後の一カ月間、私たちは遊牧の民のテント場や一夜の夢を過ごす隊商の中継地をたまに通るくらいで、もっぱら無人境を通過した。中継地の一つで、ロバをヤクと交換することができた。初めは得をしたように思ったが、喜びは束の間。手に負えないヤツで、一週間後もっと若い、小さいのに代えたが、これまた手に負えないヤツ。アーミンと名付け、鼻の穴に穴をあける。輪を付けて縄を結い、曳いて歩けるようにした。
通過する地方は、真に変化に富む美しい処だった。白雪の連山の中で一際高く、辺りを圧しているのが標高七七三〇メートルのグルラ・マンダータ。西チベットの聖山カイラースはヒマラヤ連嶺から孤立し、崇厳な六七〇〇メートルの峰を空中に聳えさせている。この山が初めて視界に入った時、チベット人たちは地にひれ伏し、祈りを捧げた。一生に一度は巡礼者としてこの山を眺めたい、というのが彼らの願いなのだ。
その後二週間、ツァンポ河に沿って進み、私たちはギアプナック集落に到着。滞在三日目、一人の使者が駆け付け、トラジュン滞在中の二人の高官が我々に会いたい旨を知らせた。
<黄金の屋根の僧院> 当日夕方、我々はトラジュンに入った。丘の斜面にある建物は夕日で緋色に染まる。我々は予め用意された家に案内され、お偉方たちと会見。パスポートと携行品の提出を求め、念入りに調査する。通行許可証に目的地がネパールと明記されているのに満足してか、高官たちは全面的援助を約束してくれた。私たちはチベット残留を願い、亡命許可を与えてくれるよう願ったが、甲斐はない。我々はあくまで粘ることにした。
翌日、私たちは招待を受け、素晴らしい中国料理をご馳走になる。酒も出され、雰囲気は上々。二人の主人は検討の結果、私たちの希望をラサに伝えることにしたから、「英文で請願書を記すように」と言う。願ってもないこと。目の前で捺印された手紙は使者に手渡され、飛脚は直ちにラサへ向かう。我々は滞在を許可され、山積みの食糧品を贈与された。
ラサからの返事を三か月も待ちあぐねるうち、私たちの気分は苛立ち、口論が増える。行く先をネパールにしたいという主張も出て、私とアウフシュナイターが残留、ネパール希望者は別行動で出発することに。収容所を脱走した時は五人だった同勢は二人だけになった。
<出発の勧め> ヤクを一頭と食料を買い入れ、当地を去ろうと決心する。僧院長が首都からの返事(国内旅行の拒否と立ち退き命令)を伝達。ヤクと従者が用意された次第だ。12月17日、私たちは四カ月滞在したトラジュンを後にした。でも、我々は以前のみすぼらしい流浪者ではなく、当局の保護下にある人物なのだ。南東に進み、ズォンカに三週間滞在(大雪のせい)。45年1月19日、大きな隊商と一緒に出発する。気温はマイナス三十度位。
ロングタ村の近くで岸壁に僧院が掘り込んであり、びっくり。谷川から二百メートルほど高い山腹に燕の巣さながら、寺院と無数の独房がある。僧や尼の語るには、十一世紀に生存した有名な聖者・詩人ミラレバが建立したもの、とか。南下するにつれ、降雪は減っていく。
<幸福の村キーロン> チベット語で「幸福の村」はキーロン。この村はその名にふさわしく、私はここで暮らした数か月を決して忘れないだろう。標高二七七〇メートル、緯度は二十八度。あらゆる種類の果物が実り、いろんな草花が咲き乱れる。スキーヤーのためには一年中雪があり、アルピニストたちには傍に六、七千メートル級の山々が待っている。
集落には八十軒の家があり、二人の知事が駐在(勢力は近在の三十カ村に及ぶ)する。私たちはここを訪れた最初のヨーロッパ人なので、住民たちはびっくり。担当の村長はある農家を宿に提供した。山小屋の一階は家畜小屋と馬小屋で、二階が住居で庭から梯子で出入りする。家具は藁布団に低い机と箪笥。冬には大きな暖炉を囲み、家族一同そろってお茶を飲む。私たちは自炊した。薪は豊富で無料だし、出費は僅かで済んだ。
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