<チベットのお正月> 今は2月15日の前日、チベットの正月に相当する。屋根に祈りの小旗が飾られ、切り立ての樅の木が立てられる。お経が厳かに唱えられ、善男善女は神々に供物を捧げに寺に向かう。宗教とこれほど深く結びつき、遵奉している国民は他にはあるまい。かれらは七日間ぶっ続けに踊り、歌い、飲む。家ごとに祝い、私たちは招待された。
<キーロンでの最後の日々> (1945年の)夏が到来。ここを通過したネパールの商人の話では、欧州では大戦終結とか。だが、我々はチベット訪問の企てを実行する気だ。ほぼすらすらチベット語が話せるようになり、必要な経験も積み、妨げとなるものは何一つない。役人たちと談合し、行動の自由を得、チベット高原へ抜け出る峠の探索にもっぱら精を出す。
キーロン滞在も七か月。農民らは富裕で、多数の僧たちが寄食している。聖職者独裁の典型例で、私たちが住民と交流するのを白眼視する者も中にはいた。私たちの態度と行動は、彼らの優越性と宗教上の慣習を否定するものだったからだろう。彼らは私たちを怪しく思い、超自然的な力を持った人間と見做しているのだ。
<波乱に富んだ出発> キーロンから二十キロの地点に食糧の保管所を設け、必需品のランプ造りに精を出す。11月8日夜、脱出決行! 追手をまくため一旦ネパール国境に向かい、かの食糧保管所に夜明けに辿り着き、先行した友のアウフシュナイダーと合流する。
<ぺルグ・チョ湖を目指して> 四十キロの重荷を背負い、マイナス十五度の寒気が厳しい中、ひたすら山道をたどる。三日後、手がかり一つない岩壁に突き当たり、立ち往生。が、夜明け後、一隊のヤク(ウシ科の哺乳類。肩高1.8メートル、牛に似るが、肩が隆起。体側から腹面にかけてと尾に長毛が生え、雌雄とも角を持ち、運搬用に使われる)と商人たちが目もくらみそうなコースをなんとか通過するのを目撃する。昔からの登山家である我々二人は勇気が湧き、岩壁を登って行った。以後二晩歩いて、ズォンカの地に到着する。
翌日、とある峠へ辿り着く斜面を登攀。疲労と高度が影響し、五千メートル付近の処で停止する。この峠を越えるヨーロッパ人は私たちがきっと最初だろう。翌朝、ぺルグ・チョ湖の幻想的な光景が眼前に展開。めざす高原は光り輝く氷河で取り囲まれ、その上に八千メートル超の巨人峰(未だ処女峰)のゴザインタンとラプチカンの峰々が聳えている。
<忘れられない光景、エヴェレスト> メンカップを後にして一時間後、チングリの広大な高原が我々の眼前に展開。遥か遠くの大空に、世界の最高峰エヴェレストが聳えていた。私たちは、大きな感動でしばし息が詰まるほどだった。この角度からエヴェレストを望むのは(欧米人では)私たちが最初であろうと思い、急いでスケッチをする。午後遅く、峠の登りにかかり、岩陰で野営する。私たちの唯一つの慰めは、輝くエヴェレストの遠望だった。
<無謀にもラサ到達を決意> 私たちは二日間の行進の後、西チベットからの隊商路との合流地点にたどり着いた。我々の手元には八十ルピーと一枚の金貨があるだけ。ラサへ目標を置くなら、これで事足りる。一番簡単なのは隊商路を辿ってゆくことだ。中継所が幾つもあり、必要な食料と宿を求めることができる。そして数週間で首都に到達できるだろう。
1945年12月2日 私たちはヤクに荷を背負わせ、旅に出発した。凍結した流れを渡り、高原へと緩やかに高まっていく谷を遡っていく。夕方、寒さが身に応え、日が暮れようとする時、たまたま岩陰に遊牧民の黒いテントが目に留まる。一夜の宿を求めるがきっぱり断られ、仕方なく野宿することに。
幸い遊牧民は火を焚くための、ヤクの乾いた糞をくれた。運良く付近の斜面に松の小枝が見つかり、朝まで火を絶やさずにいることができ、私たちの野営は比較的楽だった。翌日、峠への登りを済ませた我々の眼前には、果てしない広野が遥かに続いていた。寒風吹きすさぶ白雪の世界の屋根に達したのだ。私たちは遊牧の民と山賊の故郷チャンタンに居るのだ。
<遊牧の民と共に> 数日後、若い女の居るテントを発見する。彼女は私たちを親切に招き入れ、バター入りのお茶をふるまってくれた。彼女の二人の夫は昼間は留守で、彼らは千五百頭の羊と数百頭のヤクを世話しているという。遊牧民の間では、驚くことに一妻二夫が実行されているのだ。夕方、夫たちが帰宅し、妻同様に心を込めて我々を歓待してくれた。
翌日、すっかり休養をとり、私たちは元気いっぱい旅へ。雪もなく、動物たちの姿が増え、カモシカの群れが幾つも斜面を走り去っていく。とある峠の頂きに辿り着き、峠の向こう側を下りにかかる。またもや幸運に見舞われ、夕方、夫妻と四人の子供がいるテントが見つかる。彼らは火の傍に私たちの席を作ってくれ、翌日は彼らの風習を研究することに過ごした。
<山賊との遭遇> 出発して数キロ、遊牧民とは異なる男と遭遇。夕暮れ、遊牧民のテントを発見し、招き入れてもらう。山賊の話になり、羊五百頭と交換に譲り受けた銃を見せてくれる。山賊たちは三つ、四つの家族で一つのグループを成し、銃と刀を武器に略奪に出かける。遊牧民のテントへ押しかけ、もてなしを強要。持ち物や羊を略奪するのだ、という。
山賊たちは手荒で、牧人たちは歯が立たず、こうした僻遠の地では政府も打つ手がない。翌日、牧人のテントを後にした私たちは薄気味悪くて仕方がない。身を守るには杖とテント用の木釘があるだけだから。翌日の夕方、なんと私たちは運悪く狼穴に入ってしまった。山賊たちは次々と質問を浴びせる。「どこから来た?」「どこへ行く?」「一体、誰なんだ?」
私たちはピストルを隠し持っているように偽装し、なんとか彼らを撒き、事なきを得た。
翌日、新しいプランの下に長く困難とされるコースからラサに向かうことを決意する。私たちは尾根の上に出て遥かに眺望。行く手には未曾有の物寂しい世界が広がっていた。
<飢えと寒さ> 山賊たちが後を追うのを諦めたのは、この地方が余りにも荒涼としているためだった。気温はマイナス三十度以下だったろう。我々は何時間も歩き通し、真夜中ごろに停止した。荷を下ろし、急いで毛布にくるまり、石のように眠りに落ちた。翌日午後、地平線に何かが動く光景を目にし、三時間でそのキャラバンに追いつく。
十五名ばかりの男女がいて、びっくりしながらも歓待してくれる。山賊に備え、巡礼と商人たちが混合し、五十頭のヤクと二百の羊を引率。私たちにも合流するよう誘ってくれ、むろん大喜びで承知した。宿営地ごとに火にあたり、温かい食事ができるのは嬉しいことだ。
この思いがけぬ遭遇こそ、我々の命を救ってくれたに相違ない。クリスマス・イヴに一行と別れたが、45年の大晦日夕方にはニアトサンの中継所に到着。親切なもてなしを受ける。
<通行許可証> 46年元旦を私たちなりに迎えた。ずっと携行している古いパスポートは素朴な人たちにいつも威力を発揮した。見せられた連中は当局の印鑑に怖れと敬意を抱くのだ。ここでも隊商の中継地の主は我々に親切にし、水や薪をサービスしたりしてくれた。
キャラバンと共に出発。困難な行程を踏破し、ラサに通じる方角へひたすら進んで行く。
トカールの中継地に辿り着いた時は、疲れに負け、へなへなと倒れてしまった。辺り一帯は実に美しく、やがて私たちはチベット最大の湖の一つテングリ・ノールの湖畔に出た。この湖を一周するには歩いて十一日もかかる、という。果てしない登りを続け、我々はやっと海抜五千九百七十二メートルのガリン峠にたどり着いた。
<陽光に輝くポタラの屋根> 1946年1月15日、私たちは最後の行程に向かい、広い渓谷地帯の先で、ダライ・ラマの冬の宮殿「ボタラ」の黄金の屋根を目にする。筆舌に尽くしがたい感激に捉われ、敬虔な巡礼さながらに跪きたい衝動に駆られた。キーロン出発以来、千キロの遠路をはるばる越え、七十日間ぶっ続けに歩き通したのだ。私たちは土地の役人に、ほどなく到着する外国の高官の先発隊であると申し述べ、幸い信用を得て入京ができた。
<ラサに一大センセーション> 都に白人二人出現のニュースは街中に広まり、たちまち話題の中心になった。猫も杓子も冒険談を聞きたがり、押し掛けて来る。貴族たちとの夜会は引っ切り無しに続いた。列席者は私たちの冒険に感服し、冬季に険しい山々を越えてきたことに身の毛もよだつ思いのようだった。来訪者の中には軍の最高司令官(外務大臣の弟に当たる人物)もいて、私たちを厚遇するように色々骨折ってくれた。
▽筆者の一言 著者ハインリヒ・ケラーは1938年にアイガー北壁の初登頂に成功した著名な登山家。彼は艱難辛苦の末チベット入りに成功し、幼少期のダライ・ラマ14世(現存)と親しい交流を保った。その波乱に富む顛末はハリウッドで『セヴン・イヤーズ・イン・チベット』(ブラッド・ピット主演)として映画化され、話題を呼んだ。感心するのは、このケラーという人物の肉体的な強健さと同時に、異郷の地での命知らずな冒険行を成功に導く精神面でのタフさだ。私はチベットものでは、日本の仏教学者・河口慧海(1866~1945)の『チベット旅行記』(白水Uブックス)も一読している。辛苦の末1900~02年にチベットに滞在、故ダライ・ラマ13世と交流があった人物の旅行記だ。この内容の紹介を私が断念したのは、ケラーのそれに比べ筆遣いが平板で、「血沸き、肉躍る」感が薄かったからだ。
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