【空襲】<1943年7月19日> 昨日の日曜日、北アムステルダムが激しい空襲を受けました。二百人ほどが死に、無数の負傷者が出て、病院はどこも超満員です。鈍い、遠雷の轟きのような爆音を思い出すと、今でも身の毛がよだちます。
【”隠れ家“の時間割】<8月4日> 夜の九時、”隠れ家“では就寝の準備が始まりますが、ちょっとした大仕事です。椅子を片付け、壁際に畳んであったベッドが引き下ろされ、毛布が広げられて、様子が一変。私は小さなソファベッドに寝ますが、長さが一メートル半位しかなく、椅子の継ぎ足しが必要。十時――黒いボール紙で窓を覆い、「お休みなさい」。
<8月7日> 何週間か前から、物語を書き始めました。完全な空想の所産ですけど、書いていてとても楽しく、私のペンによる産物が日毎に堆く積み重なっていきます。
【イタリア降伏】<9月10日> 素晴らしい報せ! 一昨日夜、ラジオの七時のニュースです。「イタリアが無条件降伏しました」。聞く者を元気づけてくれました。
<11月8日> この“隠れ家”に住む私たち八人が、私には黒い、黒い雨雲に囲まれたちっぽけな青空の欠片のように思えます。私にできるのは唯、泣きながら祈ることだけです。
【悲しい夢】<12月22日> クリスマス用として、食用油・キャンディ・シロップの特配がありました。姉マルゴーと私は小さなブローチをもらいました。
【春のめざめ】<2月16日> 今にして判りました。なぜペーターがいつもムッシー(猫の名前)を抱き締めているのかが。彼も何らかの愛情の対象を必要としてる。彼って、ひどい劣等感の持ち主なんです。あなたは英語と地理は私なんかよりよっぽど出来るのに!
<2月27日> 朝早くから夜遅くまで、ペーターのことを考えるばかりで、他の事は手に付きません。寝る時は、彼の面影を瞼に描きながら眠り、彼のことを夢に見、目を覚ました時にも未だ、彼が私を見つめているのを感じます。ペーターと私とは、うわべにそう見えるほどかけ離れている訳じゃないんです。二人とも母親に恵まれていません。彼のお母さんはとても軽薄で、息子の考えなどに無頓着。私のお母さんは鈍感で気配りに欠けます。
【ペーターへの思慕】<2月19日> 彼は私のことなんか、ただの行きずりの女の子としてしか見ていないのかも。ああ、彼の肩に顔を埋め、やるせない孤独感から、救われることができたなら! ああペーター、どうかあなたに、私のこの姿が見えますように!心の声が聞こえますように! しばらくするうちに、また新たな希望と期待とが甦ってくるのが判りました――心の中では、涙がなおもとめどなく溢れていたのですが。
【大人への反発】<3月3日> 一日に二度位、彼は私に意味ありげな目を向けます。私もウインクで答え、ほのぼのとした幸福を感じます。定めし変に思われるでしょうね。彼が幸福を感じている、なんて私が言うのは。でも確信がある、私と全く同じ気持ちでいるって。
【腐った野菜】<3月14日> 私たちに闇の野菜切符を融通していてくれた人たちが捕まり、バターやマーガリンが買えなくなりました。みんなの気分は最低、食糧事情も最低。その上、ジャガイモまでが次々と変な病気にかかり出し、本当笑い事じゃありません。
【父との話し合い】<4月17日> ペーターに女性の体の事を洗いざらい話して聞かせました。ちょっと滑稽だったのは、女性のその部分の構造について、彼が全く想像すらできなかったこと。話の締めくくりに交わし合ったキスは、何とも言えず甘美な感触でした。
<4月28日> 八時半、唇が彼の唇とぶつかり、そのまましっかり重なり合いました。激情に弄ばれ、二人はもう二度と離れまいとするように、何度も何度も固く抱き合いました。生まれて初めてペーターは、優しくしてくれる女の子を見つけたんです。
<5月2日> ペーターとのことで、お父さんが言いました。「慎重に行動すること。あんまり彼との交際にのめり込まないように!」。お父さんは、夜になってから私がよく上へ行くのを喜ばなくなっています。でも私としては、今更それをやめたくはありません。信頼している、と父が言った以上は、それを形で示したいからです。
<5月3日> 二週間前から、土曜日は午前十一時半に朝昼兼用の食事をとるようになりました。その時間までは、カップー杯のオートミールで持たせなくてはなりません。野菜は依然としてとても手に入り難く、傷んだレタスの茹でたのとか、ホウレンソウがせいぜい。今まで二か月以上も生理が止まっていましたが、日曜日にやっと始まりました。面倒だし、不愉快なものだけど、やっぱり完全に止まってしまわなくて良かったと思います。
<5月8日> うちの家族について。お父さんはフランクフルトで生まれ、両親は凄いお金持ちだった、とか。祖父は銀行家で百万長者。祖母も、とても裕福な名家の生まれでした。父はそんなわけでお金持ちのお坊ちゃんとして大事に育てられ、それはそれは楽しく暮らしたそうです。お母さんの実家もかなり裕福だったとかで、父との婚約披露パーティには二百五十人もの招待客が集まったとか。私たちは口をぽかんとあけ、聞きほれたものでした。
【忙しい毎日】<5月11日> 私の最大の望みは、将来ジャーナリストになり、やがては著名な作家になること。果たしてこの壮大な野心(狂気?)が、いつか実現するかどうか、未だわかりませんけど、いろんなテーマが私の頭の中にひしめいているのは事実です。いずれにせよ、戦争が終わったら、『隠れ家』という題の本を書きたいと思っています。うまく書けるかどうかは別として、この日記がそのための大きな助けになってくれるでしょう。
【つのる不安】<5月26日> 何でもいいから、近いうちに変化が起きてくれますように。この宙ぶらりんの状態ほど、くさくさするものはありませんから。例え辛い終わり方でもいい。そうなればせめて、果たして私たちが最後に勝利を勝ち取れるものなのか、それとも一敗地にまみれるのか、それがはっきりするでしょう。
【上陸作戦開始】<6月6日> イギリスのラジオが今日12時に「本日はDデーなり」と上陸作戦開始を声明しました。パドカレー一帯に空からの猛烈な攻撃が加えられ、「上陸作戦がいよいよ開始されました」。「隠れ家」は今や興奮の坩堝。私たちは長い間、あの恐ろしいドイツ軍に蹂躙されて来ました。今や、味方の救援と解放とが目前まで迫っています。
<6月13日> 今年もお誕生日が過ぎ、私は十五歳。どっさり贈り物をもらいました。両親からは五巻ものの美術史など、姉からは金めっきのブレスレット。住人からの諸々のうち最高のハイライトはクーフレルさんからの『マリア・テレジア』という本と全乳チーズ三切れ。ペーターからは素敵な芍薬の花束。苦心惨憺の末、ツキに恵まれなかったようです。
【光ほのかに】<6月27日> 雰囲気ががらりと一変しました。今日、シェルブールなど三カ所が陥落。ドイツの将軍五人が戦死、二人が捕虜になりました。上陸作戦が始まってから僅か三週間、凄い戦果です! 一か月後には、戦況はどこまで進展していますか?
<7月8日> 地方へ出張していた(父の)会社のブロクスさんが競り市で競り落としたイチゴが届きました。埃まみれ、砂まみれで、トレイに二十四杯分と量だけは沢山。十二時半、正面入り口がロックされ、真昼間から瓶詰めやジャム作りにみんな総出でわいわい、がやがや。カーテンこそあれ、窓は空いていますし、大声のやりとりはびくびくものでした。
<7月15日> 自分でも不思議なのは、私が未だに理想の全てを捨て去っていないという事実。なぜなら今でも信じているからです――例え嫌なことばかりでも、人間の本性はやっぱり善なのだということを。いつかは全てが正常に復し、今のこういう惨害にも終止符が打たれて、平和な静かな世界が戻ってくるだろう、と。
<8月1日> 私は何事につけ、決して本当の気持ちを口には出しません。そのお陰で、男の子ばかり追っかけてるお転婆娘だとか、色々汚名を被ってきました。快活な方のアンネは、それを笑い飛ばし、何とも思っていないかの様に振る舞いますが、大人しい方のアンネの反応は全く正反対。(傷ついたあげく・・・)胸のうちですすり泣く声が聞こえます。・・・わたしがこれほどまでにかくありたいと願っている、そういう人間にはどうしたらなれるのかを。きっとそうなれるはずなんです、もしも・・・・・・この世に生きているのかがわたしひとりであったならば。
じゃあまた、アンネ・M・フランクより
(アンネの日記はここで終わっている)
◇筆者の一言 1944年8月4日午前10時過ぎ、アンネたちの隠れ家の前に一台の自動車が到着。制服姿のナチ親衛隊幹部らが隠れ家に潜んでいたユダヤ人八人を検束~ドイツ国内などの強制収容所へ送致する。マルゴーとアンネの姉妹はハンブルク近郊の収容所に送られ、翌年春頃までに飢餓と疲労のため衰弱死。アンネの父オットー・フランク以外の五人も各地の強制収容所で処刑死ないし衰弱死を遂げた。独り生き残ったオットーは、アンネが遺した平和へのメッセージを広く人類に知らしめるため、残りの生涯を捧げた。アンネは「日記」(44年4月5日)の一節に「私の望みは、死んでからもなお生き続けること!」と刻む。その俤(おもかげ)は少なくとも不肖私の胸の内には、確かな存在感として生き続けていく。
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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