周恩来の電報が届き、延安では皆が私を待っていた。着くとすぐに、私は「中華人民共和国主席」の毛沢東に会った。瘦せたリンカーンのような人物で、中国人の平均身長より高く、やや猫背。濃い黒い髪の毛が非常に長く伸び、大きな鋭い眼を持ち、鼻は鼻梁が高く、頬骨が突き出していた。一瞬の印象では、非常に機敏な知的な顔という感じだった。
私は彼と幾夜も広範囲の話題について話した。彼は自分の幼年時代、青年時代、どういうふうに国民党と国民連合の指導者となったか、どうして共産主義者となったか、紅軍はどういうふうに成長したかを話してくれた。彼の内に一種の強固な本質的な生命力が感じられることは争えない。彼が不死身だという評判には確かな根拠がありそうな節があった。
毛沢東は現在(1937年)四十四歳。彼の人格の、革命運動における役割は、明らかに計り知れぬものがある。彼はユーモアに富み、粗野な大笑いを好み、中国農民の質朴と自然さを持っていた。自分や、ソヴィエトの短所のことになると、盛んに笑う。子供っぽい笑い方だったが、彼の目的に対する内心の信念を、少しも揺るがすものではなかった。以下は「私の生涯の概略を申し上げたい」として毛が述べた談話の核心部分(の抜粋)である。
◇回顧談(上) 1893年、湖南省の農家に長男として出生。父は貧農から刻苦精励し、中農~大金持ちに。13歳の時、父と初めて衝突~家出し、「父(権力者)を憎むことを覚え、私たち(母や弟妹)は父に対する連合戦線を張り、それは私に利益をもたらしました」。
父は読み書きがほんの少々できる程度で、母は全くの文盲。私は四書五経の類は嫌いで、古代中国の伝奇小説――岳飛伝、隋唐演義、三国志といったものが好きだった。十三歳の時、学校をやめ、田畑で長時間働いた。夜は読書に励み、啓蒙的な書物から刺激を受けた。
学問をしたいという気持ちが高じ、三年後、家出します。当時、非常な飢饉があり、『謀反人』が斬首される事件が勃発。中国の解体を警告するパンフに「嗚呼、中国は将に亡びんとしている」とあり、私は祖国の将来を憂え、暗澹となったのが忘れられません。
湘郷県にあった近代教育を試みる新しい中学校に入学(父は友人らに説得されて同意)~卒業。湖南省の首都・長沙にどうしても行きたくなり、家から百二十里先の大都会へ。省立第一中学に志願者の一番で及第。が、校風が気に喰わず、半年後に学校をやめました。
自分の教育予定表を作り、毎日省立図書館で読書三昧に。アダム・スミスの『国富論』やダーウィンの『種の起原』、ルソーやスペンサー、モンテスキューらの著作に目を凝らし、ロシアや米、英、仏など諸国の歴史と地理を一心不乱に勉強しました。
県人の会館に住めなくなり、授業料が無料で寄宿料の安い湖南師範学校に魅かれ、家族の同意も得、入学へ。五年間在学し、卒業。私の政治思想は形を成し始めました。唐先生という方がいつも『民報』の古いのをくれ、私は非常な興味で読み、同盟会(革命的な秘密結社。孫文が創立し、国民党の前身)の活動と綱領を知り、政治活動に踏み込みます。
◇回顧談(下) 私は1911~27年の間、北平(当時の北京)・上海と湖南の日刊新聞を毎日読んだ。当時新聞は珍しいものであり、官吏連中は今日でもそうだが、極端な憎悪の眼で見ていた。学生時代の最後の夏、北平に行った。国立北京大学の図書館の司書補の仕事をもらい、哲学会や新聞学会などに入会。政治への関心が高まり、急進的になりました。
南へ帰ると、政治面で直接的な役割を担当。湖南の学生新聞の編集人をやり、この新聞は華南の学生運動に大きな影響を与えました。当時の華南方面の軍閥の悪者に対し、猛烈な反対運動をやった。その復讐として、彼は私の学生新聞に対し、弾圧を加えました。
1919年、私は上海を再訪し、再び陳独秀と会った。彼は恐らく他の誰よりも私に影響を与えました。また、湖南の学生運動への援助を求め、胡適とも会見した。北方政府に愛想を尽かした私たちは湖南省の分離~近代化を要求して運動。当時の私はアメリカのモンロー主義と門戸開放運動の熱心な支持者でした。
私たちは1920年、ロシアの十月革命の三周年記念慶祝デモを企画。警察の弾圧を受けました。この年冬、私は初めてマルクス主義理論とロシア革命史に教導されるようになった。華文最初のマルクス主義文献『共産党宣言』、カウツキ―の『階級闘争』、カーカップの『社会主義史』を熟読。以来、私は自分をマルクス主義者だと考えてきました。
翌年5月、共産党の創立大会に出席すべく上海へ。集まったのは十二人。一方、フランスでもほぼ同時期に苦学生らにより中国共産党が組織され、周恩来や李立三らが参加。少し後にドイツでも党が組織され、朱徳(現在紅軍総司令)らが参加し、日本では周仏海ら。
当時は党の活動は主として学生と労働者に集中。1922年5月1日に総罷業が湖南で行われ、中国の労働運動史上未曾有の力の高揚へ。翌年の党大会で「国民党に入って協力し、北方軍閥に対し共同戦線を敷く」歴史的な決議に。私は上海の党中央委員会で働きました。当時、蒋介石は第一軍の総司令で、汪精衛は孫文の北京での客死の後を受け、政府の主席に。私は上海で共産党の農民部の指導を担当していました。
国民党と共産党の連合戦線の下、歴史的な北伐が1926年秋から開始。既に蔣は反革命を指導~上海や南京で共産党攻撃を始めていたのに、陳独秀は武漢の国民党に遠慮し、譲歩をし続けた。彼は革命における農民の役割を理解せず、その将来性を過小評価~その結果、翌年の共産党の失敗、即ち武漢連立政権の敗退ならびに蔣介石の南京独裁を導きました。
翌年秋、私たちは湖南の農民組合を通じて広範囲な暴動の組織化を企図。現場を飛び歩いている間に、国民党と協力する民団が私を逮捕~本部へ連行。射殺される寸前、私は同志から借用した数十元の金で傭兵の兵士らを買収~脱出に成功し、九死に一生を得ました。農民暴動を指導しつつ、活路を求め湖南省を南下し、難攻不落の井崗山に立て籠った。部隊は全体で僅か一千名。その後、新しい兵が次々補充され、私は指揮官になりました。
<注:毛沢東の説明はようやく「個人の歴史」を脱し、大運動の中へと姿を変えていく>
◇長征 紅軍はその当時から三つの単純な軍紀規則を戦士たちに課していた。①命令には敏速に服従する②貧農からは如何なる物をも没収しない③地主から没収した全ての財貨は直ちに直接政府に引き渡し、その処分に任せる。井崗山では、次の四つのスローガンが遊撃戦法の手掛かりとなった。(1)敵進我退(2)敵止我擾(3)敵避我撃(4)敵退我進
毛沢東はソヴィエトの組織的な発展や紅軍の成立について、簡潔に物語った。数百人を率いるみすぼらしい、半ば飢えた革命家から、どうやって数万の労働者や農民たちの軍隊を作り上げたか。その何よりの成果を、彼は1934~36年に行われた長征の成果に求めた。この輝かしい成功により、彼は共産党内に確固たる指導権を確立した、と言われている。
紅軍の軍団記録によれば、行程は総計一万八千余里すなわち六千マイル(アメリカ大陸の幅の約二倍)に及ぶ。全旅程が徒歩で行われ、世界で最も通行し難い悪路(その多くは車行が困難)の幾つかを通り、アジアで一番高い山と一番大きな川を横切って実施された。
蒋介石軍の堅固な防衛線が中国西南部のソヴィエト地区を取り囲んでおり、紅軍は34年秋に次々撃破する。が、江西・広東・広西・湖南の各省を経て行軍する間、紅軍は甚大な損害を被った。損害に懲り、紅軍は弓形の前進の代りに一連の分散的な行動をとる。南京の軍用機は、その日その日の敵の主力の所在を見分けるのが益々困難となった。幾つかの枝隊が一連の欺瞞作戦を遂行。空爆の目標となる輜重部隊は夜間行軍が慣例となる。
貴州省で敵五個師団を撃破し、約二万の兵力を補充。35年5月、紅軍は南方に転じ、雲南省へ。長江(下流が揚子江)が巨大な渓谷の間を深い急流を成して流れ、険しい岩壁が両側にほぼ垂直に突っ立つ。ここの渡渉こそ、危機一髪という際どい軍事行動の典型だった。
目の眩む高所に架かる百メートルほどの鎖だけの橋梁「濾定橋」を伝う命がけの渡河。有志が募られ、手榴弾と小銃を携え、兵士三十人が滾(たぎ)る河の上に飛び出し、対岸を目指す。紅軍の機関銃が敵の方形堡を指して吠え、敵陣も銃火で応じ、河の上に高く揺れながら接近する紅軍兵を狙撃。何人かは撃たれ墜落するが、決死の勇気が白軍兵を怯ませ、未曾有の渡河作戦は見事成功する。この一挙が長征の困難さとその勝利の行く末を象徴していた。
▽筆者の一言 私は、当今の中国共産党は、香港問題一つ見ても、承服できない。あれこれ反発を感じる事だらけと言っても言い過ぎではなかろう。が、草創期の中国共産党の在り方となると、話は別だ。毛沢東と周恩来という両巨頭に関しては、私は後者の方により親近感を抱く。卓球の荻村伊智朗さんとか女優の高峰三枝子さん(いずれも故人)といった人たちが、その辺幅を飾らない爽やかな人柄を誉めそやしていた。彼には中国政府事務方の総責任者として、言うに言われぬ大変な苦労が山ほどあったに違いない。一方の毛主席は「毛語録」で神格化されているが、実像は果たしてどうだったのか。「文革」でのミスリードをはじめ、林彪や紅青らを側近に置いていた眼識のなさはどう言い訳するのだろうか。
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