世界のノンフィクション秀作を読む(26) J・ブノアメシャンの『エジプト革命』(筑摩書房刊、牟田口義郎:訳『オリエントの嵐』第五章)――エジプト史上不滅の光を放つ闘い(下)

 ⑤カイロ暴動
 パレスチナ戦争の翌日から、エジプトは徐々に革命前夜の状態に入る。時のノクラン首相は執務室で警官に偽装したテロリストによって斃された。1950年1月の総選挙では、議席の三分の二が英国からの独立を求めるワフド党(地主や民族主義者が拠る)の手に帰した。その結果、王宮対政府の闘いが始まり、政情は不安定化する。
 国の経済状態は悪化していく。生産は低下し、食料品の値は上がった。物価指数は四倍も上がったのに、給与は精精二倍しか上がらない。失業は蔓延し、国庫は空になった。ナハス首相(ワフド党)は財政政策の不首尾を埋め合わそうと企み、翌年秋、特別議会を招集。36年の英=エジプト条約(並びに1899年協定)の破棄を宣言する。「今やイギリスは立ち退くべき時だ・・・」と彼は考えた。
 イギリスは怯まず、スエズ近郊に堅固な陣を張って対抗。エジプト政府は従来占領軍に適用されていた財政上、法律上の特権を廃棄して報いた。ゲリラも開始され、大学生や民族主義者らから成る「解放突撃隊」が運河地帯の攪乱を企てる。橋は吹っ飛び、英軍の衛兵が刺殺され、倉庫や兵営は襲われ、空軍基地の一部施設が破壊された。
 八万の英兵がスエズ地帯に集結。アースキン将軍は、運河地帯に駐在するエジプトの全警察力の武装解除を指令。エジプト側は内相がこれを拒否し、英軍砲兵が実力行使へ。激闘の末、警官たちは白旗を掲げるが、全二百人のうち四十六人が死亡し、七十二人が負傷した。
 カイロ放送がこのニュースを伝え、市民の怒りは沸騰する。翌26日(52年1月)は暴力の一大饗宴で有名な「黒い土曜日」となる。ストに入った警官たちと学生たちが合流~行列を連ねて首相官邸へ。運河地帯で戦うための武器を要求する。別のグループは下町の至る処で放火した。三百万市民の中のいかがわしい分子は都心地区へ押し寄せ、不穏な空気に。
 オペラ広場で破壊行為が始まり、バー、カフェ、映画館などに放火。一流銀行が炎上し、地下室に逃げ込んだ多数の行員は窒息して死んだ。火災は四百箇所に及び、街路は灰と煙のベールに覆われた。群衆の目標は金持ちの娯楽の場と英国系の建物に集中する。このような無秩序な事態にあって、権力を十分に維持~市民を平静に導く組織は軍隊しかなかった。

 ⑥クーデター成功
 権力の腐敗を前に、自由将校団は決起を早めようと決意する。当初は革命の期日を1957年と想定していたが、52年初頭のカイロ暴動は彼らに対し、この期日の繰り上げを誘った。が、ナセルは弱冠三十四歳で、仲間たちもほぼ同年配。六十代のパシャ(オスマン帝国の高官・高級軍人の称号)たちの支配に慣れた人民は、一握りの若僧たちの統治を容認するか?
 51年5月に中佐に進級したナセルは同年11月、陸軍大学教官に任命される。老練な将軍を担ごうと適任者を物色。中央委員会で協議し、ナギブ将軍に白羽の矢を立てる。彼はかつて革命運動に従ったことはなかった。が、軍の内部で極めて人気があり、国王は日ごろ彼を嫌っていた。こうした事情から、彼は己の役割を呑みこみ、反徒の申し入れを受諾する。
 ナギブ将軍を指揮者に獲得するのに時日を要し、クーデターは7月22日深夜に決行された。なんと反徒捕縛に派遣された政府軍一個中隊が指揮官ごと寝返り、参謀本部を易々と制圧。深夜零時、首都の戦略拠点や公共建築・中央電話局・中央放送局などを占拠する。思惑通り、ナギブ将軍は最高軍司令官に就任。英国駐留軍も既成事実を認めざるを得なかった。翌朝、カイロ市民は歓喜を爆発させ、ナギブ声明に対し国中が熱狂して応えた。国王は退位を承諾し、愛用のヨットで王妃や王子を連れ、亡命先へ旅立った。

 ⑦ナギブ対ナセル
 クーデターは成功した。ほぼ無血で王制が崩壊し、革命将校団はやや茫然自失の有様だった。ナセルは当面の措置として中央委議長を辞し、その地位をナギブ将軍に譲る。自由将校団は自らを解消し、代りに「革命評議会」が国の最高権力を賦与されることになった。
 ナギブ将軍を政府首班とし、新内閣は次々と新政策を打ち出す。▽土地の所有を八十ヘクタールに制限する農地改革法▽政党を解散~再編する政党規正法▽前国王の資産の凍結令など。軍と警察は王族・政党の党首・高級官吏・新聞記者・警察官など四十三人を逮捕した。
 政界に登場して半年、ナギブは人気の絶頂にあった。が、実質的な権力機構・革命評議会にあっては彼は影が薄く、実質的なリーダーはナセルである。さらに屈辱的なことに、己は既に五十四歳なのにライバルはずっと年下の三十四歳だ。その懊悩のほどが知れよう。
 リベラルで好人物のナギブ将軍は、何びとの不満も買いたくなかった。コーラン至上主義のモスレム同志会の解散令に反対し、地主の土地所有の限界は八十ヘクタールから二百ヘクタールにすべき、などと要求する。革命評議会は苛立ち、彼我の間に緊張が増していく。54年2月25日、ナセルは革命評議会を招集。ナギブ解任を決定する。
 が、将軍を奉じる軍の機械化部隊などが収まらず、ナセルは集会で吊し上げを食い、将軍解任を撤回~ナギブを釈放する。善人ナギブは不用意にも旧政党の首脳らと接触を重ね、譲歩と後退を重ねていく。3月29日、親ナセル派の部隊が決起~クーデターさながらに政府要所を制圧。ナギブは軟禁~4月20日、ナセルは内閣を改造し、自ら首相の座に就く。

 ⑧英軍、スエズ運河より撤退
 王制は解消した。が、「帝国主義者」英国は依然としてスエズ運河地帯に陣を構えている。53年4月以来、英軍施設に対する襲撃事件は三十回以上。同月27日ナギブ将軍は英軍当局と撤退への希望を持って交渉に入るが、英国は協定の締結をはっきり拒否。一時中止されていた襲撃や待ち伏せは再び激しさを加えていく。
 アメリカの圧力が目立ち始める。国務長官ダレスが中東視察に訪れ、帰国後にこう声明した。「米国はいかなる場合にも、英仏両国の帝国主義的企図を守ることはしない」。米国の新聞は「英軍が運河に留まる限り、エジプトに安定のもたらされることはない」と記した。
 7月27日、イギリス・エジプト間に協定が成立。英国は駐留軍を56年6月19日までに五次にわたり撤退させることを約束する。その代り、エジプト政府はスエズ運河の自由航行協約(1888年締結)の尊重を約束。施設の維持と良好な運営とを監督することになる。カイロの街頭には、「屈辱の時代は終わったのだ!」と記す垂れ幕が下がった。

 ⑨新アスワン・ダム問題
 「エジプトはナイルの賜物」とヘロドトスは言った。もしナイルの流れを調節できれば、水量は一年中安定化し、灌漑能力の強化に基づく農地の相当な拡張が予想できる。新アスワン・ダム建設の構想が、ナセルの胸に浮かぶ。御影石の壁は高さが111メ-トル、長さ3.5キロ、幅は基底で1.3キロ。この堰堤の上流に、幅6~10キロ、長さ500キロ以上の巨大な人造湖が出来上がる。この水は砂漠を肥沃化し、農地面積を大幅に増加させるに違いない。
 ナセルは当初、計画をアメリカに持ち掛けたが、交渉が難航する。次いでソ連に話を持ち掛け、支援の当てを得る。ナセルはアメリカ大使に向かい、思わせぶりに脅した。「あなたは融資を断ったのか?見ていたまえ、その結果がどんな恐るべきものになるかを!」

 ⑩スエズ国有化宣言
 56年7月26日夕、アレキサンドリア市の広大なムハンマド・アリ広場で二十五万人余の群衆を前に、ナセルは座談風のさりげない調子で切り出した。
 ――諸君に発表する。我々が餓死しようとしているのに、『宝の川』が手の届く処を流れている。そして帝国主義の一会社(『万国スエズ運河会社』を指す)が我々の利益を横取りしている。諸君、この『国の中の国』を奪い返そうではないか。・・・・・・
 そして、高らかに「スエズ国有化宣言」を行ったのだ。群衆は文字通り爆発した。ナセルは言葉を継いだ。「スエズ運河は新アスワン・ダムの建設を十分に賄ってくれるだろう。我々はもはや、ワシントンやロンドン・モスクワにペコペコする必要はないのだ!」
 エジプト軍は直ちにカイロの運河会社本店や近郊にある事務所を接収した。55年時で運河会社の収入は一億ドル余(エジプト政府への支払いは三百万ドル)で、直近五年間の利益は約八億ドル。イラク政府はエジプト支持の立場を表明。カイロでは四十万人がナセルの到着を歓迎した。アジアや中近東の諸国などに共感~同調の渦が広がり、西側は青冷めた。

 ◇筆者の一言 
 この伝記は筆者の執筆時期が1950年代後半で、それ以降の推移は欠落している。大まかに追補すると、61年に「アラブ連合」の事実上の崩壊(シリアの脱退による)、67年に第三次中東戦争でのエジプト惨敗(イスラエルの圧勝に終わった「6日間戦争」)という大きなマイナス点があり、ナセルの英雄像もかなり翳りを帯びる。プラス面は70年の「アスワン・ハイ・ダム」の完成。ソ連の援助を引き出したこのダムの完成により、エジプトは治水や農業生産の面で多大な利得を得、同ダム湖は「ナセル湖」の異称も生んだ。彼は同年9月28日、心臓発作で52歳の若さで急死し、葬儀には五百万の葬列者が参加した。

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