世界のノンフィクション秀作を読む(29) 高橋是清の『自伝』(1936年、千倉書房刊)――波乱万丈、数奇きわまる人生の述懐(上)

 高橋是清(1854~1936)は戦前に日銀総裁~首相(政友会総裁)を務め、後に二・二六事件(当時は蔵相)で暗殺された知名な人物。幕末から明治初年にかけての明治維新の激動期に、僅か十三歳の身で海外勉学を志した異数の魂の面目(なんと奴隷に売られるという非運も含め)や帰国後の破天荒な活動ぶりが躍如と語られる。十代前半で既に酒豪だったという破天荒ぶりには唯々脱帽、恐れ入るほかない。

 ◇寺小姓から洋学修業へ
 私は、生まれて(安政元年:1854)すぐ、生家川村から仙台藩の高橋家に里子にやられた。高橋家は足軽格でも苗字帯刀は許されておった。誕生する前年、嘉永六年(1853)六月には、アメリカの黒船が浦賀に渡来し、国内は鼎の沸くが如く動揺し始めた。京洛には志士横行し、尊王攘夷の叫びは,隠然として六十余州の至る処から巻き起こった。
 私は芝愛宕下の仙台屋敷で専ら養祖母の撫育の下に成長した。この祖母の仲立ちで、私は子供の頃、大崎猿町の寿昌寺(仙台藩の菩提所)に寺小姓の見習いとして預けられた。この寺に仙台藩留守居役の大童信太夫という人が来訪。和尚さんと食事を共にしたり、碁を囲んだりした。私は側で給仕をしておったので、自然と馴染みとなった。

 大童さんは当時の先覚、かの福沢諭吉先生とも親しく往来。段々と外国の事情を研究するうち、英仏の学問を研究する者を横浜に出さねばならぬ、と考えるようになった。それでなるべく年少の者をとなり、顔馴染みの私と鈴木六之助(後の日本銀行出納局長)という少年との二人が選ばれ、横浜へ洋学修業に出された。鈴木も私も同年の十二歳の時であった。
 時は元治元年(1854)、例の桜田事変の直後。幕府は名のみ、威信は地に落ち、尊王攘夷の叫びが四方に高調せられ、騒乱変事が相次ぐ。私の祖母は大いに心配し、大童さんの同意を得て横浜に同行。下宿住まいでの煮炊きなど家事一切を世話してくれた。当初、私と鈴木とは「ドクトル・ヘボン」の夫人について英語の稽古をしておった。次いで横浜在住の「バラ―」という宣教師の夫人の宅に出かけては勉強した。

 そのうち、英国のある銀行がボーイを一人欲しいと希望。大童さんが同意し、私が雇われることになった。私はここに勤めながら、暇の時に先輩の処を訪ねて訳読を教わったり、自分で勉強したりしていた。その銀行には、馬丁もおればコックもいる。ならず者も混じっており、朝夕酒は飲む、博打は打つという案配。当時私は十三歳の子供だったが、その時分から老けて見えて、体も大きかった。それで馬丁やコックたちと一緒になって、酒を飲んだりなどしておった。私の評判が悪くなっていったのは、自然の成り行きであったろう。

 ◇米人の家庭労働者となる
 慶応三年(1867)七月、アメリカ船コロラド号で出帆。海路二十三日を費やし、目指すサンフランシスコに到着する。私は出立前に断髪し、洋服を仕立てていた。私は横浜で斡旋されたヴァンリードという老人の家に行った。初めは歓迎されたが、段々待遇が悪くなる。食物は老人夫婦の食い残し物。待ち望んだ学校へやってくれない上、煮炊き料理の手伝いから、部屋の掃除や走り使いまでさせられる。私は非常に憤慨。約束が違う以上もう働かないと言って、何を命ぜられても言うことを聞かなかった。
 そのうち、細君が私に見切りをつけたものか、オークランドの知人の家に行かないか、と勧める。「大変親切な若夫婦で、若主人はサンフランシスコの銀行員。昼は暇だから、奥さんが学問を教えてくれる」と言う。ヴァンリードは公証人をしていて、その役場へ誘った。
 一枚の書付を示しサインしろと言う。勧めに従えば、「望むところの学問もできる」との言質を信じ、私は喜び勇んで署名した。何しろ、人の言う事に疑いを持たぬ年頃だったから。

 翌日、オークランドに引っ越した。約束の渡し場に若主人のブラウンが出迎えに来ていた。私はその人に連れられ、ブラウン家の人となった。若主人は朝早くからサンフランシスコへ出かけ、夕方帰る。若い細君はピアノを弾いたり、読書をしたり。また暇があれば、私に英習字を教えたり、読本を復習したりし、非常に私を可愛がってくれた。
 この家には中国人のコックと、アイルランド人の夫婦者がいた。だが、どんな行き違いか、若主人とアイルランド人との間に争いが起き、夫婦者は共に去って行ってしまった。中国人と私はとことん性が合わず、ある日、薪割りの雑事を廻って大揉めし、互いに刃物を手に殺気立つ。私は主人に、「暇を下さい。あんな奴と一緒に居るのは嫌だから」と申し出た。
 すると、主人は「そうはいかない。お前の体は三年間、買ってあるのだ。書付けにサインしただろう」と言う。私は驚いてしまった。あの公証人役場で署名した書類が身売りの契約書だったとは! 実にけしからぬことだ。何とかして、ここを逃げ出さねばならない。

 ◇奴隷より脱離
 そんなこんな悶着があった末、機会があり、仙台藩から語学留学している富田鉄之助という人と接触できた。かくかくしかじかで奴隷に売られていると一部始終を打ち明けたところ、富田氏は非常に驚き、助力を約束してくれた。当時、幕府からサンフランシスコの名誉領事を嘱託されていたブルークスに先ず相談した。ブルークスは双方の言い分を聞いて、然るべく裁決。金の清算などもちゃんと済ませ、私は初めて天下晴れて自由の身となった。

 ◇その頃のハワイ移民
 当時、サンフランシスコの新聞に、「近く日本政府から城山という領事が来る。ハワイに居る日本人を救うために」と、あった。その頃、ハワイには約三百人ばかりの日本人が耕地に雇われていた。いずれも前出のヴァンリードが斡旋し、月給四ドルという安い賃金で、契約労働者として送られたもの。これが非常に酷い目に遭い、病気になれば賃金はくれない。中には、お産をしても始末が付かず、自殺した者さえあるという評判であった。
 その城山がサンフランシスコに着いたので、新聞記事の話をすると、驚いて言った。「実は自分も、そのヴァンリードの世話で来たのだ。そんなに悪い奴なら、ここに居てはどんなに酷い目に遭うかも知れぬ。俺は帰る」。そして、彼は我々と同居することとなった。

 ◇帰国の船中
 富田氏らは帰国したきり、何の音沙汰もない。故国の空が気になり、我々は相談し、一先ず帰国することに決定した。幸いヴァンリードの立て替えを清算した残金が手元にある。その金で城山や私など一行四人分の船賃(一人前五十ドルずつ)を払い、出来合いではあるが、新しい洋服を一着ずつ買い求めた。それでもなお、手元には幾許かの余裕があった。
 船に乗り込んでから、事務員に「中国人と一緒でない部屋にして欲しい」と頼み込んだ。当時は一般に、日本人の渡航者は極めて稀。偶々あっても、学問をしに行く人が多かった。従って、教養もあれば礼儀も正しく、中国人の出稼ぎ人などとは比較にならぬ。船長以下船員らも、我々日本人に対して非常に好感を持っており、然るべく取り計らってくれた。

 航海中のある日、我々が船の中を巡回していると、偶々中国人が賭博を打つ処を事務員が発見~打ち壊している。聞くと、「船中では賭博禁止なのに、止めないので困る」と言う。では、僕らが取り締まってやろうと一決。毎日、船内を回っては賭博を取り締まった。
 中国人らは、我々を非常に怖がった。ことに城山が大小を差し、時にはそれを抜いて見せたりして脅すから、薬が効いた。我々が賭博場へ行きかけると直ぐに、果物や何かを持って来て、どうぞよろしくとお愛想をする。我々は僅か四人で七百人の中国人を征服したような感を持ち、意気揚々たるものがあった。実に往路とは大変な相違であった。
 料理人は中国人であったが、私が大食だと知っているものだから、いつでも大きなビフテキを焼いてくれる。そうして、「お前一人でオランダ三つ」と言って、笑っている。意味は、お前一人で西洋人の三人分食べるということだ。当時は、西洋人のことをオランダと言ったものだ。

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