◇森有礼氏の書生から大学南校の教師へ
かくて、我々が横浜に着いたのは、明治元年の十二月。伝手があり、私ら帰朝生三人は森有礼さんにお世話を願うことになる。当時、森さんは洋行後に外国官権判事に任ぜられ、神田錦町住まい。当時二十三歳、未だ独身で、生活も極めて簡素であった。先生はこう言い渡された。「忙しいから、皆に英学を一々教えている訳にはゆかぬ。お前らのうち一番覚えの良い者一人だけに教える。その当人は、よく覚えて、それを他の者に教えること」。当の一人に私が選ばれ、森さんから教わったことを、私がさらに一同に教えることになった。
翌年正月、大学南校というものができ、森さんの指示で我々三人はこの大学南校の教官三等手伝いというものを仰せつかった。当時は仙台藩でも勤王攘夷論が結構幅を利かせ、洋学者の如きは捕縛してしまえ、という激越なる議論が盛んであった。ために、当時の大家だった玉虫左太夫の如きも捕縛投獄せられ、何の調べもなく遂に斬首せられた位である。
森先生も我々三人の身の安全を気遣かわれた。当時、仙台屋敷は日比谷見附にあった。先生は田中という公用人に会い、「今後かような間違いがあっては困る。この三人は私が仙台藩から申し受ける」と厳談に及ばれた。公用人も返す言葉もなく、言わるるままに承認。先生は我々三人を自分の附籍とせられ、私は一時「鹿児島県士族、森有礼附籍」の身となった。
当時、森先生は廃刀論を主張され、その急先鋒であった。先生を攻撃する声はいわゆる志士の間に満ち、その身辺が危うくなってきた。先生が夜分、三条公や岩倉公に会いに出かけられる時には、鈴木(三人の仲間の一人)と私は馬の両側に付いて護衛して行ったものだ。
森先生攻撃の声は同郷の鹿児島人の間からも湧き、轟轟たる非難の声に、政府は大いに狼狽。岩倉・三条両公の庇護があったにも拘らず、遂に先生の職務を免じ、位記返上を仰せ付けたので、先生は意を決して故山に帰られることになった。
我々は依然として大学南校に奉職。政府は長崎に居たフルベッキ博士を東京に呼んで大学南校の教頭に任命し、我々も博士に付いて歴史の回読をした。傍ら私はバイブルの講義もしばしば聴いて、自然に耶蘇教信者の一人となった次第である。明治三年、森先生は勅命に会って再び鹿児島から出て来られ、小弁務使としてアメリカへ行かれることとなった。
◇放蕩時代
森先生は、私を日本に残すについて、万事をフルベッキ博士と当時の大学大丞であった加藤弘之さんとに託された。自分も一心不乱に勉強して他日を期さねばと心がけたが、ふとしたことから魔が指してきた。明治三年(十七歳)秋の頃であった。大学南校の下級生徒三人(元越前藩家老職の息子ら)が訪ねてきて、「帰藩命令が来たが、借財が大きく、帰るに帰れない。何とかして貰えまいか」と頭を下げる。
借財はなんと二百五十両という大金。私は遠い親類筋の浅草の商人に頼み込み、用意してもらった。三人は大いに喜び、御礼がしたいと一夕、両国の柏屋という料亭に招待される。私が立派な日本の料理屋に行ったのは、これが初めて。本式の座敷で芸者を見たのも、この時が初めてだった。私は元気に任せ大いに飲んだが、主賓なるにも拘らず、何となく軽蔑せられている風だ。他の三人は美服で、腰の大小は黄金造り。私は木綿の着物に小倉の袴、腰の大小も見劣りがする。私はいたく茶屋女や芸者どもに軽蔑されたという念が起こった。
招ばれた以上、こちらも返礼せねばならぬ。今度は服装も大小も軽蔑されぬようにと、日本橋の商人に依頼。あの三人が着ているような着物や袴に黄金造りの太刀を整え、私が招待した元日の夕刻の席へ。今度は前回とは打って変わってもてなされ、芸妓たちは服装や金離れの如何で人をあしらっているなあ、と合点がいった。
三人は歌を唄ったり、踊ったりするが、私には一向にそんな真似はできない。彼らは歌や踊り位は覚えた方が良いではないかと、夜になると私の処へ押しかけて来ては、歌や踊りを教えてくれた。そんな次第でフルベッキ先生の処には居辛くなり、引っ越すことになる。
◇募る放蕩
そんな事情で、私は懇意な知人の家に引っ越してしまう。もう誰にも遠慮は要らず、放蕩は募るばかり。芸者とも馴染みができ、しぜん学校も欠勤がちになった。放蕩にすさんだ一つの動機は、友人が藩命を帯びて洋行することとなり、送別会が重なり、その都度、芸者家へ行くことが頻繁になったためであった。
ある日、芸者を連れて浅草の芝居を見に行った。幕間に学校の外国人教師三人らとばったり鉢合わせする。向こうも驚いたが、私も驚いた。こうなった以上は、便々として学校にいる訳にはゆかぬと、その日すぐ辞表を提出した。加藤弘之さんが心配し、慰留してくれたが、私は良心が許さないからと、たって頼み込み、許してもらった。
多少の貯えは瞬く間に使い果たし、非常に困却した。私は書物も衣服も持っている物は一切売り払ってしまった。そんな窮状を見かねて、馴染みの芸者の東家桝吉(本名お君)というのが「私の家においでなさい」と言って、引き取ってくれた。この女は越前福井の飾り屋の娘で、裕福の出であったから、芸事などもよく出来た。自分より四つばかり年上。いざ桝吉の家に行ってみると、両親も居れば、抱え妓も居る。両親など、とんでもない厄介者がやって来たとばかりにあしらう。とうとう箱屋の手伝いまでしたのもこの時だ。
◇落ち行く先
さて、男一匹こんなことではいかぬと思う矢先のある日、維新前の知人・小花万司という人と出会う。彼の曰く、肥前の唐津藩で英語教師を探している。月給は向こう賄いで百円。行ってくれれば顔が立ち有難い、と言う。話はずんずん進み、やがて正式に決まる。
私は城内にある士族邸を修繕~学校に充て、五十人の生徒を募集し、授業を開始した。私は散切り頭に無腰という姿で乗り込み、未だ攘夷気分濃厚の藩中に少なからず衝動を与えた。たまたま唐津の藩主が東京へ引っ越すことになり、今までの住居の御城が空くことになり、私は御城を解放~英学の学校にするよう意見具申。幸い容れられ、御城の御殿は英学校に変わった。五十名の生徒は粒揃いで、初歩のABCから教えて半年たたぬうちに、ほぼ熟達。それらの中には、辰野金吾(後の高名な建築家)、曽根達蔵(同)、天野為之(経済学者)らがいた。学校移転と共に定員も増え、遂に二百五十人まで藩費にて養成することにした。
◇文部省に入る
唐津の英学校を辞し、再び東京に帰ったのは明治五年(十九歳)の秋。大学南校はその後段々と整備し、法学・理学・工業学などを教える開成学校となる。私も自ら省みて、今のようではいかぬ。もう少し修業せねばと考え、試験を受け開成学校に入学した。即ち、以前の先生が生徒となった訳だ。
ある日、久しぶりに森有礼先生を訪問した。駐米二年有半、帰朝されて明六社というものを創立され、しきりに我が教育の振興を絶叫されていた。先生に近況を尋ねられ、「開成学校に入学し、修業しています」と返答。先生は「お前などはもう生徒の時代ではない」と申され、文部省に入るよう斡旋された。時に明治六年十月(二十歳)であった。
◇馬場辰猪君と貿易論を闘わす
明治七年より十年にかけては、征韓論を中心として、また思想上の見地よりして、硬軟・新旧両派の衝突をきたし、各地に騒乱相次いで起こった。当時、ある会合で、彼の馬場辰猪君(板垣退助先生を扶けて民権自由の運動に熱心奔走した人)が熱弁を揮われた。今後、日本の経済策は自由貿易主義によらねばならぬと、大変に熱を上げておった。
私は別の席で、率直に保護貿易論を主張した。まず外国貿易の必要より最近までの風潮を論じ、嘉永以後における列国の我が国に対する貿易政策に及び、彼は我を知って戦い、我は彼を知らずして闘うものであるから、彼の弾丸は我に当たり、我が弾丸は彼に届かない。かくては毎戦敗をとるは当然である。故に毎年八百万円の金貨の流失を見て余るのである。
この時に当たっては、先ず防御を第一とし、出でて戦うことは第二とせねばならぬ。後進国たる我が国が産業の発展、輸出の振興を図り、以て貿易の権衡を維持し、自主独立の経済的立場を保有せんと欲するならば、保護貿易主義を採用するより他に途なき所以を演述した。明治十年前後と言えば、剣戟相交え政論沸騰して、上下鼎の沸くが如き時勢であった。
◇筆者の一言 国難の日露戦争(1904~05)に際し、彼は日銀副総裁としてイギリスやアメリカで戦費調達に奔走。堪能な英会話能力と豊富な人脈を生かし、懸案の公債募集に見事成功する。後に日銀総裁を経て政界入りし、政友会総裁として21~22年に首相に就任。福々しい肥満体から「ダルマさん」と親しまれた。一旦政界を引退するが、近代日本を代表する財政家の腕を買われ、蔵相(六度目)に復活。34年発足の岡田啓介内閣で健全財政維持~軍事予算抑制を図って軍部の恨みを買い、二・二六事件で反乱軍の青年将校らに暗殺された。享年八十三歳。米国では奴隷の身が宰相の座にまで昇り詰める図は驚嘆する他ない。
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