上掲の英国人作家ダウティ(1843~1926)の著作について、かのアラビアのロレンス(1893~1935)は同書に寄せた序文で「砂漠のアラブ族についての唯一無二の宝典」とまで激賞している。ダウティはこの書物を完成するのに九年の歳月を費やしたとされ、遊牧アラブ(ベドウィン)の日常生活や自然の情景が円転滑脱な文体で生き生きと描かれている。
◇巡礼キャラバンの出立――ダマスカスからメダイン・サーリへ
アラ-の大門とは、ここから聖なる巡礼隊が出立することから名付けられたものであるが、そこから先は、眼前数百リーグに亘ってハラメインまで高地に広がる砂漠が続いていた。先ず初めは、十日から二十日に亘って、石灰岩の上に重なる小石とローム層の荒野がどこまでも上り坂となって、ペトラに近い「エドム山中」のマーンまで続いていた。ムゼイリブから二十六日間進むと、メジナ(予言者の町である往古のヤスリブ、メディナト・エン・ネビ)だ。そこから四十日進めばメッカだ。
日の沈む頃、我々はケスミーという街外れの寒村に到着した。道路の脇には白いキューポラが見えた。巡礼隊の長がダマスカスからの荘厳な旅立ちの夜に、眠りをとる場所である。我々は荒野を横切る踏み慣らされた道を通った。壊れかかった橋なども見えた――オットマン帝国では、もはや何もかも壊れかけているのだ。この荒野には、あちこちに氷河に押し流されてきた岩塊が転がっている。驚いたことに、これと同じような物は、世界中どこへ行ってもあるのだった。
ケスミーの泊まりは酷かった。雨もよいの空の下で、野外の汚い原に寝たのである。大してまどろむ時間もなかった。夜半を三時間過ぎた時には、再び鞍上の人となっていた。後から、これを最後にさらに幾人か貧しい放浪者が加わった。彼らは陽気にこの聖なる旅に加わり、太陽が昇って大地に暖かい微笑みを投げかけると、目を覚ました小鳥のように、可愛い鳥の歌のようなペルシアの旋律を、美しく口ずさみ始めるのだった。
一番敏捷に歩を進めて行くのは、金髪の貧しい若者で、彼らの中で最も上手な歌い手だった。彼は歌うかと思うと、大声で笑い、叫び、出来るだけ上手なアラビア語で陽気に私に声をかけるのである。彼らは道端に休んで煙草を吸う、そして自分たちの祖国で採れる、この美味な葉位いいものは、世界中に一つもないと言うのだった。
我々の目の前には、ヘルモン山の尾根が高々と聳えていた。頂は初雪に覆われて白くなり、白い雲は処を得顔に掛かっているように見えたが、原野には未だ秋の日差しが明るく、暖かかった。二十マイル行った処で塔が幾つか見え、かつて人の住んだ跡のある、今は朽ちた遺跡、サラーメンの前を通った。そこから更に五マイル行くと、また遺跡があった。私がその名を尋ねると、我々の一行の幾人かは、あれこれと想像を恣にして語った。
歩くようなのろのろした足取りで、我々は八時を過ぎて真っ暗になってから、ムゼイリブのキャンプに着いた。この強行軍には十六時間かかった。我々は更にアガの一行の名を叫び求めて、テントを捜さなくてはならなかったが、それほどの手間はかからなかった。何百年にわたる巡礼の伝統によって、巡礼隊の手順は全て整然としているからである。ラクダの指揮官には、それぞれ自分の宿営地が判っていて、こちらが叫ぶとすぐにその下僕が答え、宿営地に案内する。
夜には、キャンプの若い下僕たちが、松明を持って夜回りにやって来た。各テントに顔を出し、最後にペルシア人のテントを訪れる。彼らペルシア人は他国者であり、教会分立論者であるが故に、明らかに争いを避ける意図によって、その宿営地は全ての大テントの後尾に定められているのだ。
日が昇ると、テントは畳まれ、ラクダは下僕たちに付いて、荷物の傍らに並んだ。我々は今年の巡礼旅行開始の号砲が鳴るまで待った。合図の砲声が轟いたのは、十時がらみである。少しの乱れもなく、突然担い籠が持ち上げられ、ラクダの背に縛り付けられた。荷物は膝を折って座っているラクダの上に乗せられ、何千という、全てこのキャラバンの国に生まれ付いた御者たちは、黙々とラクダの背にまたがった。
数分の後に第二の号砲が轟くと、隊長(パシャ)の担い籠が発進する。続いてキャラバンの縦隊の先頭が動き出す。後尾に居る我々も、前の長い行列が展開し切るまで、十五分か二十分以上立っていなくてはならぬ。やがて、我々もラクダに鞭を当て、かくて大巡礼隊は動き出すのだ。普通三、四頭のラクダが並んで行く。稀には五頭のこともある。平野に展開してのろのろと進む人と獣の列の長さは二マイルに及ばんとし、幅は数百ヤードに達する。
この年の巡礼の数は、彼らの計算では(恐らく過大になっていようが)六千人である。そのうち、半分以上は裸足で行く下僕である。そして、アラビア人の率いる圧倒的多数のラクダ、続いてラバ、馬、ロバ、ごく少数の単こぶラクダ、といった、ありとあらゆる一万頭に及ぶ獣の行列が、大護衛隊に守られて、それぞれの故郷へ帰るのである。
我々の行く処は、唯石ころだけの、一木一草もない平野だ。見えるものは何一つなく、前には一本の道もない。今では後ろになってしまったヘルモン山は、そのがっしりした肩に雪を戴いて、北の地平線を扼している。東部の遊牧民たちにとっては、それはシリアの気高い目印となっていて、「雪の峰」と呼ばれている。(この、雨を知らず苛烈な太陽ばかりに照らされるアラビアの土地では、滅多に雪を見ることもないのである)。
巡礼隊の動き出したこの日は日曜日で、シリアの空にはまだ夏の晴れ渡った光が残っていた。1876年11月13日である。12マイル進むと(僅かな距離なのに、初めは長く感じられた)、第二の砂漠の宿泊地に着いた。そこでは、既に目の前の広々とした荒野に、我々がムゼイリブに残してきたテントが張られて、白い列を作っていた。このように毎日、軽装のテント隊は、重い荷を積んだ我々よりも先行する。各隊は、初日の移動で既に自分たちの場所を決めてあり、旅が終わるまで同じことが続く。宿営地はラムタと呼ばれる。
まもなくどのテントの前でも(道々慌しく集められた)砂漠の小さな木の枝を僅かばかり用いた、食事の火が燃え始める。巡礼たちの竈は土中に掘った穴である。彼らは容器を薪を突っ込んだ穴の縁にどうにか載せ、実に僅かな燃料で貧弱な雑炊のようなものを作る。
初めての晩には、太鼓を打ち、優しい笛の調べを流して、陽気に愉しむ。辺りには、それぞれのテントで歌うペルシア人の歌声が流れ、アーケイデアの楽園さながらに甘美な雰囲気が漂う。声を合わせて何か彼らの熱愛する歌を合唱しているテントもある。どの巡礼たちの宿舎にも、紙提灯が下がって蝋燭の火が燃えている。
しかし、みんな疲れている。そして、まもなく眠りにつく。巡礼たちは翌朝の号砲が鳴るまで、衣服を付けたまま、僅かな夜の時間を横になる。やがて号砲と共に突然、また前進すべく起き上がるのだ。それが朝の何時であろうが、構いはしない。あらゆることと同じく、これもまたパシャのお気持ちの侭、天気の侭なのである。
五時半に第二日の旅の号砲が鳴った。隊列が動き出した時には、夜空は暗く、俄雨の来そうな気配だった。どの隊でも、下僕の肩に支えられた竿の上に束になった鉄の籠が吊るされ、道筋を照らした。夜が明ければ、目の前に広がるのは、相変わらず荒涼たる登り道だ。石灰岩の上に重なる、小石と粘土の薄い地層である。
やがて、フェジル族のベドウィンの首長ザイドが、後ろに鉄砲を持った従者を乗せ、単こぶラクダにまたがって、砂漠からやって来た。雌の替え馬には幼い息子が乗っていた。ザイドはダマスカスの町に居たことがあるので、賄賂を贈って役人に取り入るオットマン流のやり方を心得ていた。二年前に彼の雌馬が仔を生んだ時、それが雌でなかったものだから(彼らは雄馬にはラクダの乳を飲ませるだけの価値がないと考える)、彼ザイドはその無益の仔馬をムーア人の狼モハメッド・アリに贈った。
この水塔の長は、今では逞しき若き種馬となったその馬に打ち乗って、シリアからやって来た訳である。そして、今度は、このクリスチャンというカモ(注:筆者ダウティを指す)がやって来たのだ。彼らは私に向かって二人(ザイドとアリ)に報酬を寄越せと要求した。「ザイドに十ポンド払いなさい。そうすれば、ザイドは彼の雌馬にあんたを乗せて、全部の遺跡を回ってくれるよ」。
もしザイドを断るとなると、私は彼ら(現地人)を一人も雇えなくなるだろう。これから長い間、彼と私は連れ立って行くほかはない運命になったのである。ザイドは浅黒いというより殆ど真っ黒な砂漠の首長で、中肉中背、中年の、飢えに鍛えられた鋭い顔をした男だった。あまり色が黒いのは、アラビア人には良く思われない。この高地地方の彼らは、赤いというより僅かに浅黒い程度。色が黒いと、彼らは卑しい奴隷の血に似通っていると思うのだ。
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