世界のノンフィクション秀作を読む(34) L・ペイヤールの『ラコニア号遭難事件』(筑摩書房、近藤等・寿里茂:訳)――信じ得ないナチスUボートによる人道的救援活動の記録(下)

 ◇救助作業始まる
 9月13日、ドイツ海軍軍令部。デーニッツ提督は暗号解読済みの一通の電文に目を走らせた。「英船ラコニア号撃沈ス。残念ナガラ、イタリア捕虜千五百輸送シアリ。現在マデ、九十名救助。指令求ム。ハルテンスタイン」。U156号からの第一報だった。デーニッツは考えた。どうしたら援助できるだろうか。付近の海域に居る他のUボートにも協力させる。だが、そんなことをしたら、U156号ばかりか他の艦も皆、喪失することになるまいか。
熟慮の末やおら心を決し、一枚の紙に記す。「シャハト、ヴェルデマン、ヴィラモヴィッツ、直チニ全速ニテ、ハルテンスタインの所在地七七二一へ向カエ」。(電文は決して潜水艦番号を記さず、艦長の名前を使うのが軍令部のやり方)。指令を受けた三隻の潜水艦(U507・U506・U459)は、直ちにU156号の救援に向かった。

 この日朝、洋上に日が昇った。遭難者にも一寸は救いになったが、まもなく太陽は激しく照り付け、生き残った人々も暑気に苦しんだ。太陽の直射光に曝された手足は腫れ始め、水庖で覆われてしまう。大抵の遭難者は酷く喉が渇くのだった。大型ボートでは、シスター・ホーキンズが突然、遥か彼方に何かを見て、「御覧なさい、あそこよ!」と口走った。 
太陽がバラ色に染めている海に映える乳白色の船である。筏の方に進んでくるのは、浮上したままのUボートだった。見るとドイツ人で、司令塔に白い帽子の乗組員が鈴なりになっている。遭難者たちは、ヒットラーの潜水艦のこと、銃撃されるのではといくらかドキドキしていた。が、筏の前を通過~半マイル先でUボートは停止した。全然銃声も起らず、ドイツ兵が武器を使う様子がないことは明らかだった。
 同日朝7時20分、軍令部から入電。「ハルテンスタイン。現在地点ニトドマレ。貴艦ニ協力ノ潜水艦モ、潜航可能範囲ニ遭難者ヲ止ㇺベシ」。ハルテンスタイン艦長はこの日の真夜中、副長に艦内への収容者の人数を質した。答えは「百九十三名です。イタリア兵が大半で、二十一名はイギリス人」。六十名が収容限度のちっぽけなこのUボートに、二百五十名も乗っていた訳だ。(敵に攻撃されても、身を護ることも潜行することもできまい)。

 司令部の連中は漂流物や死体に覆われた海など、想像もつくまい。鮫が、連中の足や腕を喰い千切っているというのに。あの溺死していた女などは、鮫に腹部をやられて腸が露出していた。そんなのは、連中は見たこともないのだ。判らん連中だ。初めて、この戦場の勇者も、憐みの気持ちを起こしたのだった。
 一方、軍令部のデーニッツ提督に一つのアイデアが浮かぶ。大西洋沿岸のアフリカ西端・セネガルのダカール港にヴィシー政府(1940年、対独敗北で成立したフランスの傀儡政権)のフランス艦隊の大部分が集結している。(支配下のフランス海軍に救援を求めてみよう)。デーニッツの腹は固まった。因みに、ヒットラーは自分の考えに敢て反対を述べる提督に対しては、敬意を払っていた。海軍の事だけは、自身も全く無知だったからである。
 「遭難者はイタリア兵が大半」なら、付近にいるイタリアの艦船も動員すればいい。提督からの要請を受け、イタリアの潜水艦「カペリーニ」号の派遣が即決する。ダカール港からは対独協力のフランスの重巡洋艦「グロワール」(七千六百トン)と「アナミット」号など小型の通報艦二隻が問題の海域へ向かうことになった。
 
 9月15日、U156号。10時30分、当直交替の水兵が食事だ。トマト付きの野菜・肉・ジャガイモと黒パン、それに冷凍果実。飲み物は蒸留水で、それに果物と砂糖で出来た錠剤を服用する習わしだ。煙草と一緒に、この錠剤も収容者に配給された。ハルテンスタイン艦長は冷たい顔つきにも拘らず、自分たちのやった攻撃に心を痛めているように見えた。
 この日は、未だU156号の補給を受けられなかった人々にとっては、今まで一番耐え難い一日だった。焼け付くような太陽の下、広漠たる海水はギラギラと照り返し、眼が痛む。まるで、海が湯気を立てているよう。凄まじい直射光から身を護ろうとして、海水を浸した襤褸切れで手足を覆う。頭にはハンカチを載せる。幻覚症状を起こした者もいた。

 ◇大西洋上に潜水艦など集結 
 9月16日11時32分、U156号にU506号が接触。156号が収容する二百六十三名のうち百三十二名を移乗させる。舷側を接しての移乗作業はそう簡単ではなく、移乗完了は13時02分。二隻のUボートは互いに別れ、別の遭難者の探索に向かった。
 U506号はまもなく百名以上の生存者を乗せた一隻の救命艇を発見。移乗作業を開始するが、三十歳位の英国人女性が恐慌状態に陥り、すすり泣きしながら「殺して、殺して!」と叫ぶ。ドイツ側の将校の一人がユーモア混じりの英語でなだめ、空気は和らいだ。イタリア兵は服装も酷く、惨めな状態だった。朝には収容者は二百名を超えていた。
 15時04分、U506号は第二のボートに接舷。乗り組むイタリア兵三十一名、イギリス人二十六名(うち女性二名)に補給を済ませ、曳航する。さらに三番目・四番目のボートの救助に向かう。17時55分、軍令部に百五十三名(うち女性二名)艦内収容と打電。収容者には大鍋に一杯のスープが一人一人の碗に分けられ、その美味いことと言ったらなかった。

 U156号 9月16日11時25分、見張員が七〇度方向に四発の爆撃機を発見。ハルテンスタインは前部備砲の周りに赤十字の旗を置くよう指示した。同艦が生存者救助を開始した13日に作らせておいたものだ。爆音は大きくなり、星のマークで米軍機とはっきり判る。
 機上の観測員も、きっと何マイル向こうにも何隻か潜水艦のいるのを認めたに違いない。艦長はモールス信号で連絡、「本艦ハドイツ潜水艦ナリ。英国遭難者ヲ救助中」と打電させた。が、応答はなく、爆撃機は一旦南西方向へ飛び去った。
 ところが、同機はまた姿を現し、高度八十メートルまで急降下。爆弾倉が開いているのを見て、ハルテンスタインは恐怖に襲われる。12時32分、叫び声が上がる。三秒後、二発の爆弾はUボートの近くに落ち、高い水柱が二本上がる。二回目のは至近距離に落ち、ボートの生存者はこれで大分死んだ。四発機は三度爆撃し、収めた戦果は傷病者を満載したボート一隻。(爆撃手はまるで未経験か、神経症だったのか)何ともおかしなことだった。

 9月17日15時40分~17時、U507号のイタリア兵百六十四名が通報艦「アナミット」号に移乗。担架に乗せた重傷者がいて、一度に十名ずつがやっと。また、疲労困憊した連中、病気や負傷している連中をボートに移すのを、手助けしてやらなくてはならなかった。
 17時~18時40分、「アナミット」号は、さらにイタリア兵百四十二名、婦女子九名をU506号から移乗させた。この小さな通報艦は、三百十五名も収容している。医務室は負傷者で満員。ふくらはぎや踵を鮫にやられた者が目立ち、手当てには全力を尽くした。
 巡洋艦「グロワール」は迅速に行動し、16時に西方18キロの処に四隻の帆を張ったボートを発見。17時25分、艦を停止~移乗作業を開始する。波が高い中、なんとか移乗完了。収容者は全く酷い姿で、剥き出しの尻の片側を(鮫に)抉り取られたイタリア兵がいたり、あるイギリス婦人はボロボロになった絹の服を纏い、よろめいていた。艦橋に立ち通しだったグラツィアニ艦長は、南東方向にぽつんと一隻だけのボートを発見。一隻だけ孤立し、多数の生存者を水面すれすれまで収容している。これも22時に移乗~収容完了。

 9月18日10時過ぎ、「アナミット」号は巡洋艦「グロワール」と出会い、できるだけ接近。12時半、遭難者の移乗を無事に終えた。イタリア兵三百七十三名、イギリス人五百九十七名(うち婦女子四十八名)、ポーランド兵七十名、それにギリシャ人一名。この「グロワール」は9月21日にダカール港に到着~カサブランカに向け出港した。
 まるで戦争は終わってしまったかのようで、イギリス人、イタリア兵は互いに親しみを示し合い、生き残れたという喜びが、艦内の収容者にみなぎっていた。ラコニア号のボートの最後の一隻は10月21日、未だ海上を漂流。乗っていた五十一人のうち四人だけが生き残って、イギリスの軍艦に救助された。

 ▽筆者の一言 第二次大戦の最中に起きたナチUボートによる英国船ラコニア号撃沈は、かのタイタニック号の遭難事故(1912年発生、犠牲者1514人・生還者710人)を上回る規模の大きな惨禍(犠牲者1619人・生還者1113人)をもたらした。が、その後に起きたUボートなどによる手厚い救援活動の子細には唯々目を見張る。(あのナチスにして、この善行あり!)そして、アメリカ軍機が薄見っともない悪役として然るべく登場する。一連の事実経過は、戦後のニュルンベルク裁判の審理過程で微細な点まで明々白々になった。当たり前の話だが、この世には百パーセントの善玉も存在しなければ、百パーセントの悪役も存在しないのだろう。目下の中東情勢に鑑みても、そう思えてならない。

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