世界のノンフィクション秀作を読む(38) ロバート・キャパの『ちょっとピンぼけ』 ――生と死を劇的に捉えた写真家の第二次大戦従軍記録(下)

 ◇D・デイの前夜 
 私たちの飛行機は飛び立って、ナポリの上空を旋回した。空から見るシシリアの町の戦禍の跡は、二千年を経たローマ時代の遺跡と大差がなかった。僅か半年前に新聞雑誌を賑わしたそれらの場所は、弾痕ももはや深い草に覆われて牧場となっていた。我々は北アフリカの海岸を後にして去った。
 1944年のロンドンは、対ドイツの上陸作戦話でもちきりだった。噂が広がり、重要人物の英国到着が日毎に増えてきた。物凄い白髪交じりの茶色の髭もじゃのアーネスト・ヘミングウェイは、赤くただれたような目をして、酷い様子だった。彼との再会は私には全く嬉しかった。未だ駆け出しのフリーの写真家だった私は、既に著名の作家だった彼と1937年、スペインで初めて知り合った。

 どこへ行っても彼はパパ(親爺)と呼ばれ、私はすぐに養子縁組した。以後数年間、色んな場合に、彼は養父の義理を果たしてくれたが、今大して金に困っていそうでもないこの養子と再会して、大変喜んだ。私は彼への孝心と景気のいいところを見せるため、私の至極豪勢なアパートで彼のためにパーティを開くことを決心した。
 女友達ピンキーが配給分を貯めていたスカッチ十本とジン八本を基に、私はシャンパン一ダース、ブランディ数本、新鮮な桃六個などを購入。この無料の大酒宴と、ヘミングウェイとの取り合わせの魅力は文句なしだった。(連合軍の)上陸作戦のために待機中の皆がこのパーティに現れ、アルコール類をとことん呑み尽くした。
 新聞は「連合軍上陸作戦」の観測記事で持ち切りだった。数百人の従軍記者から、最初の侵攻部隊に付いて行けるのは僅か二、三十人で、そのうち報道写真家は唯の四人、私はその中の一人だった。軍報道部の事務所に、その選ばれた数名が待機した。

 ◇その時、キャパの手は震えていた ――1944年 夏――
 記念すべき44年6月6日、我々はイギリス海峡を渡り、水だらけの足でフランスのノルマンディの海辺に上陸した。私の“麗しのフランス”の光景は不愛想で殺風景なものだった。ドイツの機関銃が舟艇めがけて弾丸を浴びせ、フランスへの懐かしの帰還は全く酷いものであった。舟から降りた兵隊たちは水の中を腰まで漬かって、銃を構えて進んで行った。
 海水は冷たく、海岸までは未だ百ヤード以上もあった。私の周囲の海面に銃弾は飛沫を上げて飛び散った。私が急いで一番近い障害物の陰に飛び込んだら、そこにもう一人の兵隊も一緒に飛び込んできた。彼は銃の防水布を取り除くと、あまり狙いも定めず、煙に包まれた海岸めがけて撃ち始めた。自分の銃声に励まされてか、彼は前進して行った。未だ夜は明けたばかり。辺りの光景はカメラに非常に効果的なシーンであった。
 数枚の写真を撮り終えたが、敵弾は絶え間なく私を追いかけてきた。私の次の援護物は、五十ヤードばかり前方に半ば燃え残って水中に座礁している水陸両用戦車だった。その残骸の合間から数ショットを写すと、私は勇気を奮って海岸へ突入して行った。潮が満ちてきて、海水は今や胸まで濡らし始めた。私は突進する二人の陰に隠れながら、やっと海岸へ辿り着くと、砂の上に打ち伏した。
 今朝、ここは世界一憎むべき海岸だった。海水の冷たさと恐怖に憔悴し切ったまま、我々は海と鉄条網との間の、狭い、湿った砂浜に伏せていた。砂浜の傾斜のお陰で敵の機関銃や鉄砲の弾から自分の身を守れた。私はやおら第二のコンタックスを取り出すと、頭を地べたに着けたまま、再び戦いの場を撮り始めた。

 臼砲の弾が鉄条網と海との間に炸裂し、凄まじい破片が兵隊の頭上から降りかかった。第二弾は更に身近に迫ってきた。構わず私はコンタックスのファインダーから目を離さずに、気違いのように次から次にシャッターを切った。周りの死んだ兵隊たちは、今は身動き一つせずに横たわっている。
 その時、一隻の上陸用装甲艇が砲火を物ともせず岸に突っ込んで来、赤十字のマークの入った鉄帽の軍医たちが一斉に飛び出して来た。私は咄嗟に立ち上がり、舟艇の方へ駆け出し、海に飛び込んだ。ただ濡れないようにと、頭上高くカメラを差し上げ、舟艇によじ上った。その瞬間、舟の船橋が敵弾で吹っ飛ばされ、指揮官はやられた部下の肉片をまともに浴び、血塗れになって喚きちらしていた。
 その舟艇は、半日前に下船したばかりの米国汽船チェイス号へ我々を連れ戻した。甲板は収容された負傷者と死者で溢れていた。翌朝、舟はフェイマス港に入った。上陸作戦に参加の許可が取れなかった新聞記者たちが群れを成し、海峡の対岸に達し、しかも還って来れた人間の最初の体験談を記事にすべく、我々を埠頭に待ち構えていた。
 私はすっかり英雄扱いされた。ロンドンで私の体験を放送するために、飛行機の提供の申し込みを受けた。しかし、あの惨事を忘れ切れなかったので、その申し出は拒絶した。一週間後、私はあの海岸で自分が撮ったのが、上陸作戦についての最も優れた写真だったと知った。が、残念ながら、暗室の助手は興奮の余り、ネガを乾かす際、過熱のためフィルムを台無しにしてしまった。百六枚写した私の写真のうち、救われたのはたった八枚。熱気でボケた写真には“キャパの手は震えていた”と説明してあった。

 ◇パリよ、俺だよ 
 私は再びフランス海岸へ舞い戻った。我が師団はトーチカからトーチカへ攻略した。私は元気を取り戻して戦火の間近に接近し、沢山の写真を撮った。シェルブール市への最後の攻撃の朝、私は一部隊に参加した。一緒だった仲間はアーニー・パイルとタイム・ライフの欧州総局長で私の尊敬すべきボス、C・ワーテンベーカーだった。
 我々は嫌と言うほど銃火を浴びたが、壁にぴったりへばり付き、戸口から戸口へと身を隠して飛び進んだ。チャ-リーが言うには「いい年をして、インディアンごっこでもあるまいぜ」。アーニーは「俺も歳が歳。ちょっと、おっかないよ」。私はドイツ軍最初の最高級捕虜、シェルブールのドイツ軍司令官フォン・シュリーベン将軍を策を用いてわざと怒らせ、激怒した表情をカメラにキャッチ。この写真は最上のものとなった。
 パリへの道は坦々と開けていた。私は自由フランス軍所属のタンクに同乗し、パリ市街に入城。パリジャンは街頭に飛び出し、この最初のタンクに手を触れ、接吻し、喜び、歌い、泣いた。こんなに朝早く、こんなにも沢山な人たちが、こんなに幸福だったことが嘗てあったろうか! 私のカメラのファインダーの中の数千の顔、顔、顔は段々ぼやけていって、そのファインダーは私の涙で濡れ放題になった。

 ◇戦争の最後の春――1945年春――  
 写真誌ライフのパリ支局にニューヨークの本社から電報が届いた。私のバストーニュの写真が素晴らしかったから、報酬としてベルリンへ進撃中の四つの米軍のどれに従軍するかは私の自由な選択に任せる、という。私はある情報を耳にしていた。連合軍最初の混成空挺隊が編成中で、噂では戦争終結はこの空挺部隊がベルリンへ降下する時だ、とか。
 米軍の第17空挺師団は長い列車に詰め込まれ、丸二日フランス内をあちこちと揺られ通しだった。敵のスパイの目を晦ますためだった。降下の前日、我々はこう指令を受けた。「英国の落下傘部隊と共にライン川の対岸、ドイツの主要防御線の真ん中に降下すべし」
 私は戦隊指揮官と先導機で飛んだ。私は彼に続いて飛び降りる二番目の男になっていた。10時15分、「用意」の赤いランプが点灯。大佐の後に付いて開いた扉口に立っていた。六百フィートの眼下にライン川が流れている。私は千、二千、三千と数えた。(時間待ちの意か?)まもなく、我々の頭上にパラシュートが美しく開いた。カメラを解きほごす十分な余裕が私にはあった。――そして、幾枚かの写真を撮った。
 それから多少の時が経ち、5月8日の新聞の第一ページには、異常に太い活字で大見出しが躍っていた。
 ――ヨーロッパ戦争終焉‼

 ▽筆者の一言 この自伝の主人公キャパは戦後、日本にもやって来て、ヒロシマや第五福竜丸の写真を撮って、多くの日本人に衝撃的な印象を与えた。そして、その直後、当時連日死闘を繰り返していたベトナムのディエンビエンフー戦線で劇的な死(行軍に同行し、誤って地雷を踏む)を遂げる。キャパの存在は、その耳慣れぬ名前と共に、当時成人間際だった私にも今なお鮮やかに記憶に残っている。かつて新聞記者だった私は、戦場カメラマンに幾ばくかの気後れを覚える。記者は概ね戦闘の最前線からは身を避け、安全な場所に居ながら、「見てきたように」記事を綴ることが可能だ。だが、カメラマンの方はそうはいかない。その苛烈な場面に身を挺さねば、仕事にならない。たった今、ウクライナやガザの最前線で命がけでカメラを構える諸兄姉には、心からの敬意と慰労の思いを捧げたい。

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